浅野氏、広島城入城から400年(その1)
毛利輝元(もうり てるもと)による広島城築城
福島正則(ふくしま まさのり)の広島城入城
平成最後の年となる来年、2019年(平成31年)は、浅野家初代広島藩主・浅野長晟(あさの ながあきら)が広島城に入城して400年という記念の年。
1月20日(日)に行われる「ひろしま通認定試験」も、浅野氏広島城入城400年を記念した「広島城下町の歴史・文化」がテーマになっとるんじゃの。
今回は浅野氏が広島城に入城するよりも前、広島城を築いた毛利輝元と、輝元に続いて入城した福島正則について話をしていこう。
【毛利輝元による広島城築城】
広島の戦国大名といえば、県北にある吉田(現:安芸高田市)から、中国地方のほぼ全域まで勢力を拡大した毛利元就(もうり もとなり)。
広島湾の入り口にあたる太田川(おおたがわ)河口のデルタ地帯は、海上・河川・陸上の交通が交わる中心地。
元就はデルタ地帯の、政治的・経済的、そして交通の重要性を認めて、この地へ進出していた。
このデルタ地帯に城を築いたのは、元就の孫にあたる輝元になるんじゃが。
輝元は、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が建てた大坂城や聚楽第(じゅらくだい)を目にし、城づくりを決意。
天正(てんしょう)17年(1589年)、当時「五箇村(ごかむら)」と呼ばれていた太田川河口のデルタ地帯に城を築き始めた。
この城が今の広島城で、輝元は天正19年(1591年)に入城したといわれる。
また、「五箇村」と呼ばれていたあたりが「広島」と名づけられたのは、このころじゃそうな。
輝元が広島城を築いて約10年後の慶長(けいちょう)5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こる。
輝元は、実際の戦いには加わることはなかったものの、西軍・豊臣方の総大将となり、敗れた。
関ヶ原の戦いの後、世の中は徳川氏のものとなった。
そのため、中国地方のほとんどを支配していた輝元は領地を減らされ、石高も110万石から30万石まで減らされたうえで、周防(すおう)・長門(ながと)の2国(今の山口県)に移されたんじゃの。
毛利氏は江戸時代を生き延び、幕末には薩摩(さつま)藩と結んで幕府を倒し、明治政府の中心となっていったのは、ご存じのとおりじゃ。
【福島正則の広島城入城】
慶長6年(1601年)、毛利輝元に代わって広島城に入城したのが、関ヶ原の戦いでの功績を認められた福島正則。
正則は秀吉のいとこにあたり、子供のころからなにかと面倒を見てもらっていた。
ところが、秀吉の死後、石田三成(いしだ みつなり)と対立したことから、関ヶ原の戦いでは東軍・徳川方に味方し、その勝利に貢献した。
そこで、尾張国清州(きよす)24万石から、安芸・備後(びんご)の2国(今の広島県)40万石の大名に取り立てられることになった。
これは同時に、周防・長門の毛利氏を監視する役目も負わされたことになったんじゃ。
広島市街はむかしから、大雨で太田川が氾濫(はんらん)すると被害を受けてきた。
正則の時代の元和(げんな)3年(1617年)も長雨や豪雨で太田川が氾濫、城の石垣や塀などに被害を受けた。
そこで正則は、幕府に対して城の修理の許可を申し出た。
…自分の城を修理するのに、なんで幕府の許可がいるんじゃろ?
それは、元和元年(1615年)に出された武家諸法度(ぶけしょはっと)という法律に、「城を修理するときは必ず報告すること」という一文があったため。
正則は幕府に許可を求めたんじゃが、なかなか許可がおりなかったので、正式な許可がないまま城の修理をした。
そのことを、「無断で城を修理した」と非難されたため、正則は修理したところを壊すことで幕府の命に従う態度を示した。
ところが元和(げんな)5年(1619年)、正則は安芸・備後を没収された上、最初は津軽(つがる。今の青森県西部)、後に信濃川中島(しんしゅう かわなかじま。今の長野県の一部)へと移された。
正則が広島藩を治めたのは約19年ということになるんじゃの。
寛永(かんえい)元年(1624年)、正則は高井野(たかいの。今の長野県高山村)で亡くなる。
そののち、福島氏は取り潰しとなった。
↓広島城については、こちら↓
「広島城の歴史」広島城
今日は、来年は浅野氏が広島城に入城して400年ということで、毛利輝元の広島城築城と、福島正則の広島城入城について話をさせてもらいました。
「浅野氏、広島城入城から400年(その2)」は、浅野長晟の広島城入城の予定じゃ。
ほいじゃあ、またの。
毛利輝元(もうり てるもと)による広島城築城
福島正則(ふくしま まさのり)の広島城入城
平成最後の年となる来年、2019年(平成31年)は、浅野家初代広島藩主・浅野長晟(あさの ながあきら)が広島城に入城して400年という記念の年。
1月20日(日)に行われる「ひろしま通認定試験」も、浅野氏広島城入城400年を記念した「広島城下町の歴史・文化」がテーマになっとるんじゃの。
今回は浅野氏が広島城に入城するよりも前、広島城を築いた毛利輝元と、輝元に続いて入城した福島正則について話をしていこう。
【毛利輝元による広島城築城】
広島の戦国大名といえば、県北にある吉田(現:安芸高田市)から、中国地方のほぼ全域まで勢力を拡大した毛利元就(もうり もとなり)。
広島湾の入り口にあたる太田川(おおたがわ)河口のデルタ地帯は、海上・河川・陸上の交通が交わる中心地。
元就はデルタ地帯の、政治的・経済的、そして交通の重要性を認めて、この地へ進出していた。
このデルタ地帯に城を築いたのは、元就の孫にあたる輝元になるんじゃが。
輝元は、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が建てた大坂城や聚楽第(じゅらくだい)を目にし、城づくりを決意。
天正(てんしょう)17年(1589年)、当時「五箇村(ごかむら)」と呼ばれていた太田川河口のデルタ地帯に城を築き始めた。
この城が今の広島城で、輝元は天正19年(1591年)に入城したといわれる。
また、「五箇村」と呼ばれていたあたりが「広島」と名づけられたのは、このころじゃそうな。
輝元が広島城を築いて約10年後の慶長(けいちょう)5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こる。
輝元は、実際の戦いには加わることはなかったものの、西軍・豊臣方の総大将となり、敗れた。
関ヶ原の戦いの後、世の中は徳川氏のものとなった。
そのため、中国地方のほとんどを支配していた輝元は領地を減らされ、石高も110万石から30万石まで減らされたうえで、周防(すおう)・長門(ながと)の2国(今の山口県)に移されたんじゃの。
毛利氏は江戸時代を生き延び、幕末には薩摩(さつま)藩と結んで幕府を倒し、明治政府の中心となっていったのは、ご存じのとおりじゃ。
【福島正則の広島城入城】
慶長6年(1601年)、毛利輝元に代わって広島城に入城したのが、関ヶ原の戦いでの功績を認められた福島正則。
正則は秀吉のいとこにあたり、子供のころからなにかと面倒を見てもらっていた。
ところが、秀吉の死後、石田三成(いしだ みつなり)と対立したことから、関ヶ原の戦いでは東軍・徳川方に味方し、その勝利に貢献した。
そこで、尾張国清州(きよす)24万石から、安芸・備後(びんご)の2国(今の広島県)40万石の大名に取り立てられることになった。
これは同時に、周防・長門の毛利氏を監視する役目も負わされたことになったんじゃ。
広島市街はむかしから、大雨で太田川が氾濫(はんらん)すると被害を受けてきた。
正則の時代の元和(げんな)3年(1617年)も長雨や豪雨で太田川が氾濫、城の石垣や塀などに被害を受けた。
そこで正則は、幕府に対して城の修理の許可を申し出た。
…自分の城を修理するのに、なんで幕府の許可がいるんじゃろ?
それは、元和元年(1615年)に出された武家諸法度(ぶけしょはっと)という法律に、「城を修理するときは必ず報告すること」という一文があったため。
正則は幕府に許可を求めたんじゃが、なかなか許可がおりなかったので、正式な許可がないまま城の修理をした。
そのことを、「無断で城を修理した」と非難されたため、正則は修理したところを壊すことで幕府の命に従う態度を示した。
ところが元和(げんな)5年(1619年)、正則は安芸・備後を没収された上、最初は津軽(つがる。今の青森県西部)、後に信濃川中島(しんしゅう かわなかじま。今の長野県の一部)へと移された。
正則が広島藩を治めたのは約19年ということになるんじゃの。
寛永(かんえい)元年(1624年)、正則は高井野(たかいの。今の長野県高山村)で亡くなる。
そののち、福島氏は取り潰しとなった。
↓広島城については、こちら↓
「広島城の歴史」広島城
今日は、来年は浅野氏が広島城に入城して400年ということで、毛利輝元の広島城築城と、福島正則の広島城入城について話をさせてもらいました。
「浅野氏、広島城入城から400年(その2)」は、浅野長晟の広島城入城の予定じゃ。
ほいじゃあ、またの。
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