御幸橋(みゆきばし)
明治天皇の行幸
被爆当日に撮影された写真
南西方向から見たところ
「ブラタモリ広島編であったように、江戸時代、広島の城下町は海を干拓(かんたく)して広げていったんじゃったね」
「今の千田町(せんだまち)は国泰寺(こくたいじ)新開、今の皆実町(みなみまち)は皆実新開と呼ばれとったんじゃ」
「今の宇品(うじな)はまだ、なかった」
「1884年(明治17年)、広島県令(県知事)として赴任してきた千田貞暁(せんだ さだあき)の指揮のもと、宇品築港事業に着工」
「この時に宇品の街(宇品新開)が造られたんじゃね」
「翌85年、国泰寺新開と皆実新開を結び、広島市内から宇品へ行くための橋が架けられた。この橋は長さが207メートルあって、当時の広島で一番長い木橋じゃったことから「長橋(ながはし)」と呼ばれとったそうじゃ」
「長橋? 御幸橋いう名前じゃなかったん?」
「この年の8月、山陽道を行幸中の明治天皇が広島を訪問した際、この橋を渡ったことから「御幸橋」と名前を改めたということじゃ」
「なんでここを通られたんじゃろ?」
「軍艦に乗って海から来られた明治天皇は、建設中の宇品港から上陸、干拓堤防と長橋を通って広島市内に入られたんじゃ」
「そうか、広島まで鉄道が通るのは、まだ先の話じゃね(広島まで鉄道が開通するのは、9年後の1894年)」
「余談じゃが、この時に明治天皇が通られた干拓堤防が、今の「御幸通り」になるんじゃ」
西南側にある原爆被災説明板
御幸橋
(爆心地から約2,300メートル)
1945年(昭和20年)8月6日、午前8時15分、広島市の中心部上空約580メートルでさく裂した原子爆弾がもたらした巨大な被害によって、広島市の大半は瞬時に壊滅し、多くの被爆者が救護を求めて南へ、北へと逃れていきました。
この写真は、被爆後3時間を過ぎたこの地点を撮影したものです。
爆心地から南南東約2,300メートル離れていた、ここ御幸橋西詰の警察官派出所前には、建物疎開作業中に被爆した中学生をはじめ、多くの被爆者が群がり、わずかばかりの応急治療を受けていました。
(松重美人氏 撮影)
「松重美人(まつしげ よしと)さんといえば、原子爆弾が投下された当日の広島市内の写真を5枚、撮影されちゃった方じゃね」
「この写真は、その5枚のうち最初の1枚目で、原子爆弾が投下されて約3時間後の午前11時過ぎに撮影されたもの」
「自宅の翠町(みどりまち)で被爆された松重さんは、勤務先の中国新聞社(今の広島三越あたり)を目指して行く途中、ここ、御幸橋西詰で被爆者の様子を撮影されちゃったんよ」
「職業的義務感から撮影をされた松重さんじゃが、1枚目を撮影するまでかなり躊躇(ちゅうちょ)された。で、2枚目の写真を撮影される時には、ファインダーが涙にぬれていたということじゃ」
「撮る方も、撮られる方も辛かったじゃろうねぇ」
「2枚目の写真に、後ろ姿が写っていた河内光子(こうち みつこ)さんは、今年の1月22日に亡くなられとってんじゃの」
「橋の北西側にも、モニュメントがある」
御幸橋は 明治18年(1885) 木橋として架けられた
昭和6年(1931) 近代的な橋に架け替えられ 今日まで市の中心部と宇品地区を結ぶ交通の動脈として 大きな役割を果たしてきた
日清戦争以来第二次世界大戦終了まで 多くの兵士らがこの橋を渡り 宇品港から戦地へ赴き異国の地に眠った
また 昭和20年(1945)8月6日、世界最初の原子爆弾が投下されたとき この橋を渡って避難した市民も多い
広島の歴史を見守ってきたこの橋の2度目の架け替えが終った 新しい橋の完成と被爆45周年を迎えるにあたり 失われたものへの鎮魂と平和 そして輝く明日への希望を込め この碑をここに設置する
平成2年(1990)7月
寄贈 財団法人 多山報恩会
製作 藤原 雄
「これは、高さ7メートルもある「広島 ひろしま HIROSHIMA」碑」
「多くの兵士らがこの橋を渡り…とあるとおり、御幸橋は広島市中心部と宇品港を結ぶ橋じゃったけぇ、兵士たちはこの橋を渡って、戦地へ征かれたんじゃね」
この「おりづるモニュメント」は、世界の恒久平和への願いが、ひとつぶの麦のごとく、この地から芽吹き広がるようにここへ設置した。
平成9年4月28日
寄贈 錦建設(株) (株)門出工務店
施工 中村工社
「電話ボックスを改装して作られた(と思われる)「おりづるモニュメント」」
「屋根にある時計は、原爆投下時刻の8時15分を示しとるね」
「御幸橋を渡るカープのラッピングトレインと、後ろに見えるのは、バレーボール男子・JTサンダーズの本拠地・猫田記念体育館」
「むかしはここに、専売公社(現:日本たばこ産業(JT))があったのう」
「御幸橋はもともと木橋じゃったけぇ、電車が通ることはできんかったじゃろ?」
「市内線の電車は御幸橋の西詰めの電停でいったん乗客を降ろし、徒歩で橋を渡ってから、東詰の電停で宇品線の電車に乗り換えよった。これが1919年(大正8年)、橋の上流側に軌道専用橋を作ることで宇品線と直通できるようになったそうじゃ」
「今のように、道路と軌道が一緒の橋になったのは、いつ?」
「1931年(昭和6年)、広島市で最初の道路・軌道併用橋が完成した。これが2代目の御幸橋になる」
「いうことは、今のが3代目?」
「ほうじゃの。幹線道路で一度に工事ができんかったけぇ、20年以上かけて少しずつ架け替えが行われて、完成したのが1990年(平成2年)じゃそうな」
南東方向から見たところ
南東側欄干
北東側欄干
御幸橋から川上を見たところ
御幸橋から川下を見たところ
「わしが小(こ)まいころは、ここから宇品の花火を見よったもんじゃの」
「宇品の花火いうのは、今でいう広島みなと夢花火大会じゃね。今年は、台風12号の接近で中止になったけど」
「遠くに見える山は、安芸の小富士といわれる似島(にのしま)じゃ」
訪問日:2018年2月12日
【参考文献】
『絵葉書の中の広島~閉じ込められた街の面影~』2013年10月 広島市郷土資料館
『宇品港』2018年2月 広島市郷土資料館
「今日は、御幸橋について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
明治天皇の行幸
被爆当日に撮影された写真
南西方向から見たところ
「ブラタモリ広島編であったように、江戸時代、広島の城下町は海を干拓(かんたく)して広げていったんじゃったね」
「今の千田町(せんだまち)は国泰寺(こくたいじ)新開、今の皆実町(みなみまち)は皆実新開と呼ばれとったんじゃ」
「今の宇品(うじな)はまだ、なかった」
「1884年(明治17年)、広島県令(県知事)として赴任してきた千田貞暁(せんだ さだあき)の指揮のもと、宇品築港事業に着工」
「この時に宇品の街(宇品新開)が造られたんじゃね」
「翌85年、国泰寺新開と皆実新開を結び、広島市内から宇品へ行くための橋が架けられた。この橋は長さが207メートルあって、当時の広島で一番長い木橋じゃったことから「長橋(ながはし)」と呼ばれとったそうじゃ」
「長橋? 御幸橋いう名前じゃなかったん?」
「この年の8月、山陽道を行幸中の明治天皇が広島を訪問した際、この橋を渡ったことから「御幸橋」と名前を改めたということじゃ」
「なんでここを通られたんじゃろ?」
「軍艦に乗って海から来られた明治天皇は、建設中の宇品港から上陸、干拓堤防と長橋を通って広島市内に入られたんじゃ」
「そうか、広島まで鉄道が通るのは、まだ先の話じゃね(広島まで鉄道が開通するのは、9年後の1894年)」
「余談じゃが、この時に明治天皇が通られた干拓堤防が、今の「御幸通り」になるんじゃ」
西南側にある原爆被災説明板
御幸橋
(爆心地から約2,300メートル)
1945年(昭和20年)8月6日、午前8時15分、広島市の中心部上空約580メートルでさく裂した原子爆弾がもたらした巨大な被害によって、広島市の大半は瞬時に壊滅し、多くの被爆者が救護を求めて南へ、北へと逃れていきました。
この写真は、被爆後3時間を過ぎたこの地点を撮影したものです。
爆心地から南南東約2,300メートル離れていた、ここ御幸橋西詰の警察官派出所前には、建物疎開作業中に被爆した中学生をはじめ、多くの被爆者が群がり、わずかばかりの応急治療を受けていました。
(松重美人氏 撮影)
「松重美人(まつしげ よしと)さんといえば、原子爆弾が投下された当日の広島市内の写真を5枚、撮影されちゃった方じゃね」
「この写真は、その5枚のうち最初の1枚目で、原子爆弾が投下されて約3時間後の午前11時過ぎに撮影されたもの」
「自宅の翠町(みどりまち)で被爆された松重さんは、勤務先の中国新聞社(今の広島三越あたり)を目指して行く途中、ここ、御幸橋西詰で被爆者の様子を撮影されちゃったんよ」
「職業的義務感から撮影をされた松重さんじゃが、1枚目を撮影するまでかなり躊躇(ちゅうちょ)された。で、2枚目の写真を撮影される時には、ファインダーが涙にぬれていたということじゃ」
「撮る方も、撮られる方も辛かったじゃろうねぇ」
「2枚目の写真に、後ろ姿が写っていた河内光子(こうち みつこ)さんは、今年の1月22日に亡くなられとってんじゃの」
「橋の北西側にも、モニュメントがある」
御幸橋は 明治18年(1885) 木橋として架けられた
昭和6年(1931) 近代的な橋に架け替えられ 今日まで市の中心部と宇品地区を結ぶ交通の動脈として 大きな役割を果たしてきた
日清戦争以来第二次世界大戦終了まで 多くの兵士らがこの橋を渡り 宇品港から戦地へ赴き異国の地に眠った
また 昭和20年(1945)8月6日、世界最初の原子爆弾が投下されたとき この橋を渡って避難した市民も多い
広島の歴史を見守ってきたこの橋の2度目の架け替えが終った 新しい橋の完成と被爆45周年を迎えるにあたり 失われたものへの鎮魂と平和 そして輝く明日への希望を込め この碑をここに設置する
平成2年(1990)7月
寄贈 財団法人 多山報恩会
製作 藤原 雄
「これは、高さ7メートルもある「広島 ひろしま HIROSHIMA」碑」
「多くの兵士らがこの橋を渡り…とあるとおり、御幸橋は広島市中心部と宇品港を結ぶ橋じゃったけぇ、兵士たちはこの橋を渡って、戦地へ征かれたんじゃね」
この「おりづるモニュメント」は、世界の恒久平和への願いが、ひとつぶの麦のごとく、この地から芽吹き広がるようにここへ設置した。
平成9年4月28日
寄贈 錦建設(株) (株)門出工務店
施工 中村工社
「電話ボックスを改装して作られた(と思われる)「おりづるモニュメント」」
「屋根にある時計は、原爆投下時刻の8時15分を示しとるね」
「御幸橋を渡るカープのラッピングトレインと、後ろに見えるのは、バレーボール男子・JTサンダーズの本拠地・猫田記念体育館」
「むかしはここに、専売公社(現:日本たばこ産業(JT))があったのう」
「御幸橋はもともと木橋じゃったけぇ、電車が通ることはできんかったじゃろ?」
「市内線の電車は御幸橋の西詰めの電停でいったん乗客を降ろし、徒歩で橋を渡ってから、東詰の電停で宇品線の電車に乗り換えよった。これが1919年(大正8年)、橋の上流側に軌道専用橋を作ることで宇品線と直通できるようになったそうじゃ」
「今のように、道路と軌道が一緒の橋になったのは、いつ?」
「1931年(昭和6年)、広島市で最初の道路・軌道併用橋が完成した。これが2代目の御幸橋になる」
「いうことは、今のが3代目?」
「ほうじゃの。幹線道路で一度に工事ができんかったけぇ、20年以上かけて少しずつ架け替えが行われて、完成したのが1990年(平成2年)じゃそうな」
南東方向から見たところ
南東側欄干
北東側欄干
御幸橋から川上を見たところ
御幸橋から川下を見たところ
「わしが小(こ)まいころは、ここから宇品の花火を見よったもんじゃの」
「宇品の花火いうのは、今でいう広島みなと夢花火大会じゃね。今年は、台風12号の接近で中止になったけど」
「遠くに見える山は、安芸の小富士といわれる似島(にのしま)じゃ」
訪問日:2018年2月12日
【参考文献】
『絵葉書の中の広島~閉じ込められた街の面影~』2013年10月 広島市郷土資料館
『宇品港』2018年2月 広島市郷土資料館
「今日は、御幸橋について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」