猿猴橋復元工事
被爆70年事業
親柱に鷲像の据付け完了
↓前回記事は、こちら↓
猿猴橋復元工事(その27)
シンボルが再び舞い降りた-。
90年前に建造され、「広島一の橋」とたたえられた
華麗な姿への復元が進む広島市南区の猿猴橋に10日、
青銅製のタカの像が設置された。
先週の金曜日、3月11日の中国新聞に記事が出とったので、
据え付けられた鷲の像を見に行ってみた。
猿猴橋(えんこうばし)を西側から見たところ。
橋に近づいて見上げてみると…、
据え付けられた鷲の像にはカバーが巻き付けてあって、
羽以外の部分を見ることはできんかった。
残念!
2週間後の3月28日(月)、
新しくなった猿猴橋の復元完成記念で
「えんこうさん」という催しが行われる。
このとき、橋の渡り初めとともに、
像の除幕式も行われるということじゃ。
橋の西側の親柱、向かって右側(川下側)に
ひらがなで「ゑんこうは志(=えんこうばし)」、
向かって左側(川上側)に
「大正十五年二月竣成」の
橋名板(きょうめいばん)が取り付けられとった。
橋名板とは、橋に取り付けられた、
橋の名前
橋が架かる河川などの名前
橋が完成した年月
などを記したものじゃの。
橋を東側から見たところ。
橋の東側の親柱、向かって右側(川上側)に
漢字で「猿猴橋」、
向かって左側(川下側)に
「大正十五年二月竣成」の橋名板が取り付けられとった。
橋の東側には、今まで取り付けてあった石の親柱と、
カバーがかけてあって中身は見えんが、
案内板も設置してあった。
橋には…、
照明灯が取り付けてあった。
そして欄干には、橋の名前にちなんで、
2匹の猿が1個の桃をつかんだ金属の飾りも取り付けてあった。
こちらもカバーがしてあって、
今はまだシルエットでしか楽しむことができん。
ここで、猿猴橋の歴史をひもといてみると…。
猿猴橋は江戸時代、
猿猴川に架かるただひとつの橋として作られた。
広島藩の藩主じゃった浅野(あさの)氏が、
広島城を出発して京都・江戸の東方面に行くとき、
最初に渡る京橋(きょうばし)の次に渡る
2番目の橋としての役割があったんじゃの。
そして、広島城下を通って
東は京都から、西は馬関(ばかん。現:下関)を結ぶ
西国街道(さいごくかいどう)の一部でもあった。
この橋が、今から90年前の1926年(大正15年)に
それまでの木造の橋から、
今の鉄筋コンクリートの永久橋に架け替えられたんじゃ。
このとき、親柱には、
地球儀の上に鷲が羽を広げたブロンズ像や照明灯が付けられ、
文字どおり、「広島一の橋」としてたたえられとった。
それが、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)に出された
「金属類回収令」によって、
橋にあった金属の装飾部分はすべて供出された。
その後、石で造られた親柱や欄干が新たに取り付けられて、
今日まで至る。
今からは、復元された白い猿猴橋が
広島の新しい景色になるんじゃの。
橋の奥、画面中央に高くそびえる
広島駅前Bブロック西棟・シティタワー広島は
最上階の52階あたりで作業中じゃった。
↓猿猴橋復元工事については、こちら↓
「猿猴橋復元事業について」広島市ホームページ
↓猿猴橋については、こちら↓
猿猴橋復元の会
訪問日:2016年3月13日
今日は、猿猴橋で行われている復元工事について話をさせてもらいました。
ほいじゃあ、またの。
被爆70年事業
親柱に鷲像の据付け完了
↓前回記事は、こちら↓
猿猴橋復元工事(その27)
シンボルが再び舞い降りた-。
90年前に建造され、「広島一の橋」とたたえられた
華麗な姿への復元が進む広島市南区の猿猴橋に10日、
青銅製のタカの像が設置された。
先週の金曜日、3月11日の中国新聞に記事が出とったので、
据え付けられた鷲の像を見に行ってみた。
猿猴橋(えんこうばし)を西側から見たところ。
橋に近づいて見上げてみると…、
据え付けられた鷲の像にはカバーが巻き付けてあって、
羽以外の部分を見ることはできんかった。
残念!
2週間後の3月28日(月)、
新しくなった猿猴橋の復元完成記念で
「えんこうさん」という催しが行われる。
このとき、橋の渡り初めとともに、
像の除幕式も行われるということじゃ。
橋の西側の親柱、向かって右側(川下側)に
ひらがなで「ゑんこうは志(=えんこうばし)」、
向かって左側(川上側)に
「大正十五年二月竣成」の
橋名板(きょうめいばん)が取り付けられとった。
橋名板とは、橋に取り付けられた、
橋の名前
橋が架かる河川などの名前
橋が完成した年月
などを記したものじゃの。
橋を東側から見たところ。
橋の東側の親柱、向かって右側(川上側)に
漢字で「猿猴橋」、
向かって左側(川下側)に
「大正十五年二月竣成」の橋名板が取り付けられとった。
橋の東側には、今まで取り付けてあった石の親柱と、
カバーがかけてあって中身は見えんが、
案内板も設置してあった。
橋には…、
照明灯が取り付けてあった。
そして欄干には、橋の名前にちなんで、
2匹の猿が1個の桃をつかんだ金属の飾りも取り付けてあった。
こちらもカバーがしてあって、
今はまだシルエットでしか楽しむことができん。
ここで、猿猴橋の歴史をひもといてみると…。
猿猴橋は江戸時代、
猿猴川に架かるただひとつの橋として作られた。
広島藩の藩主じゃった浅野(あさの)氏が、
広島城を出発して京都・江戸の東方面に行くとき、
最初に渡る京橋(きょうばし)の次に渡る
2番目の橋としての役割があったんじゃの。
そして、広島城下を通って
東は京都から、西は馬関(ばかん。現:下関)を結ぶ
西国街道(さいごくかいどう)の一部でもあった。
この橋が、今から90年前の1926年(大正15年)に
それまでの木造の橋から、
今の鉄筋コンクリートの永久橋に架け替えられたんじゃ。
このとき、親柱には、
地球儀の上に鷲が羽を広げたブロンズ像や照明灯が付けられ、
文字どおり、「広島一の橋」としてたたえられとった。
それが、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)に出された
「金属類回収令」によって、
橋にあった金属の装飾部分はすべて供出された。
その後、石で造られた親柱や欄干が新たに取り付けられて、
今日まで至る。
今からは、復元された白い猿猴橋が
広島の新しい景色になるんじゃの。
橋の奥、画面中央に高くそびえる
広島駅前Bブロック西棟・シティタワー広島は
最上階の52階あたりで作業中じゃった。
↓猿猴橋復元工事については、こちら↓
「猿猴橋復元事業について」広島市ホームページ
↓猿猴橋については、こちら↓
猿猴橋復元の会
訪問日:2016年3月13日
今日は、猿猴橋で行われている復元工事について話をさせてもらいました。
ほいじゃあ、またの。