通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

黄金山ぐるり一周(その3)

2013年05月07日 | 見て歩き
「広島市の南東部にある、黄金山(おうごんざん)をぐるり一周する今回の企画。前回は、旭町(あさひまち)にある旧国鉄の宇品線跡を紹介したんじゃけど…」





「今回は、丹那町(たんなちょう)を紹介していこうかの」





「丹那は、大河(おおこう)・日宇那(ひうな)・淵崎(ふちざき)・柞木(ほうそぎ)・本浦(ほんうら)・向灘(=向洋。むかいなだ)とともに、「仁保(にほ)七浦」のひとつなんじゃの」

「黄金山はもともと、瀬戸内海に浮かぶ仁保島(にほじま)という島じゃったんよね」

「江戸時代に干拓が進んで、17世紀の中ごろに地続きになったそうじゃ」





「広島南署前の交差点を左(東)に曲がって、県道86号線(通称:黄金山通り)でなく、黄金山寄りの路地に沿って行くと、穴神社があるんじゃ」







「この神社の創立は、江戸時代中期の享保(きょうほ)16年(1731年)」

「ということは、約280年の歴史があるんじゃね」

「今の社殿は、1920年(大正9年)に建てられたそうじゃ」

「ということは、ここも被爆建物になるわけ?」

「ほうじゃの。爆心地からは、3840メートルの距離になる」



↓穴神社については、こちら↓

穴神社秋祭り





「穴神社の東側にある階段を降りていくと、倉田百三(くらた ひゃくぞう)文学碑があるんじゃ」





倉田百三は、明治二十四年庄原市で生まれ、大正から昭和にかけて活躍した有名な文学者です。
代表作である戯曲『出家とその弟子』は、大正五年から書き始めましたが、同年十一月、医師の勧めで静かな漁村であった丹那の民家(この隣にあった谷口花松氏宅)に身を寄せ、八カ月の療養中に病気と闘いながら著作した作品で、二十五歳の時完成させました。
この作品は、当時ベストセラーとなり翻訳されてフランスの文豪ロマン・ロランも絶賛しました。
この碑は、この世界的な名作が百三ゆかりの地、丹那で生まれたことを記念し、後世に伝え残すために建立しました。

(碑文より)




「倉田さんは病気の療養のために丹那におられたということじゃけど、何の病気じゃったん?」

「結核じゃそうな。結核いうたら、戦前までは「国民病」といわれるくらいの病気じゃの」



昔は大変はやっていて、昭和25年まで日本の死亡原因の第1位でした。
適切な治療法が開発されてからは、患者数は一時期を除いて減少しています。

しかし、今でも年間2万3,000人以上の新しい患者が発生し、年間で2,000人以上の人が命を落としている日本の重大な感染症なのです(厚生労働省:平成18年度結核発生動向調査)。

(「結核Q&A」公益財団法人結核予防会)




↓倉田百三については、こちら↓

「倉田百三文学館」広島県観光ホームページ





「路地をさらに行くと、丹那説教所があるんじゃ」





「現在は、浄土真宗本願寺派の最勝寺。本堂と門、庫裏(くり)が被爆建物で、爆心地から3950メートルになるんじゃの」





「黄金山への登山道に出会うので、左に曲がって登山道を行くと、清水神社があるんじゃ」







水の神様「清水神(しみずさん)」

その昔、修行僧が水を飲んだお礼に「ますます良い水が湧き、末代まで絶えることはない」と言い残した。
現在も清水が湧いている。

(「みなみ区回遊MAP」広島市)




「今度の日曜日、5月12日の11時からお祭りがあるそうじゃ」





「道路を隔てて反対側(東側)には、道標(みちしるべ)が立っとるんじゃの」





正面(道路側):右 穴神社 説教場 宇品道

右:丹那区

左:左 楠那 日宇那(以下、読めず)

裏:大正八年四月 住田初蔵建(「立」の文字が地中に埋もれている?)




「道標に書いてある「右」「左」は、黄金山から降りてきた人に対しての方向が書いてあるんじゃの」











訪問日:2013年(平成25年)4月27日





「今日は、丹那町にある穴神社、倉田百三文学碑、丹那説教所、清水神社、道標について話をさせてもらいました」

「仁保、楠那(くすな)近辺を紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
コメント
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