味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

25日、枕崎へ葬儀に行ってきました。

2019-01-25 17:27:32 | ブログ
第3668号 31.01.25(金)

 本日、25日、枕崎へ葬儀に行ってきました。父の弟嫁・味園タミ様・95歳が23日深夜ご逝去したのてした。70年間、仕事をする所を見、そして長年お話してきました。お兄様は陸軍中尉だったと伺っていました。
 タミ様は主婦業を丹念にこなしながら、枕崎の議会の運営にも大変興味を持っていました。その頭脳の鋭敏さに舌を捲いたものです。今時の家庭の主婦で同列に竝ぶ人を見たことがありません。 
 私は緊急の用もあり、火葬場には欠礼しました。

 味園タミ様のご逝去を悼み、謹んでお悔み申し上げます。

子路強を問ふ。子曰く、南方の強か、

2019-01-23 16:43:32 | ブログ
第3667号 31.0124(木)

子路強を問ふ。子曰く、南方の強か、北方の強か、抑々(そもそも)(なんぢ)の強か。寛柔以て教へ、無道に報ぜざるは、南方の強なり。君子之に居る。金革を衽とし、死するも厭はざるは、北方の強なり。『中庸』215

 孔子が顔淵の力行を讃嘆されるのを聞いて、平生勇気を自負している子路は「それならば、強いということはどういうことですか」と問いかけた。孔子はまず、「おまえの問うているのは、南方の強のことなのか、北方の強のことなのか、それともまたおまえの考えている強のことなのか。さて、普通の人にはひろい心やりのおだやかな態度で教えみちびくようにし、道にはずれた行いで立ちむかってくるものには、節度を守って報復することはしない。これが南方の強というものである。君子はこの強によって行なう。これに対して、戦闘を自分の任務とし、一身の死をも辞さないというのが、北方の強である。

 【コメント】戦闘があってはならないと思いますが、精神的には戦いはなければならないと思います。お隣の国・韓国とレーザー照射問題でもめていますが、毅然とした態度で望んだ方がいいと思います。

 今回も日本の国の飛行機が接近したとのいいがかりをつけてきましたが、無視していいでしょう。  
 私のブログでも書きましたが、ケントギルバート著『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』をお読みくださるようお勧め致します。

 今朝郵便ポストに荘内南洲会からの文書が入っていました。今年度荘内南洲会会員として登録した分を確定申告手続きをされたいとの案内でした。1前田先生親子、2大坪先生、3.山田先生、4、宇都先生、5、金野先生、6.中島先生、7.帖佐先生のぶんでした。先ほど各本人様へ郵便を出してきました。

 昨日はブログを一杯書いたのですが、途中でパソコン操作ミスで全部消えてしまいました。いろいろ原文を探したりしましたが、技術が乏しいため、復活することができませんでした。あしからずご了承賜りたいと存じます。

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『善の研究』第135回

 科学的に見た世界が最も客観的であって、この中には少しも我々の情意の要素を含んでおらぬように考えている。しかし学問といっても元は我々生存競争上実地の要求より起った者である、決して全然情意の要求を離れた見方ではない。特にエルザレムなどのいうように、科学的見方の根本義である外界に種々の作用をなす力があるという考えは、自分の意志より類推したものであると見做さねばならぬ。それ故に太古の万象を説明するのは凡て擬人的であった。今日の科学的説明はこれより発達したものである。

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詩に云ふ、彼の淇の澳を膽れば、

2019-01-23 09:39:35 | ブログ
第3666号 31.01.23(水)

詩に云ふ、彼の淇(き)の澳(くま)を膽(み)れば、菉竹(りょくちく)猗猗(いい)たり。斐たる有る君子は、切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如し。『大学』56

 詩には、彼の淇水のくまの方を見れば、緑の竹が美しく生え茂っている。徳のあやに美しい君子は、さながらあら細工をしてはやすりをかけるように、あらけずりをしてはみがきをかけるように、いよいよその徳を修めるべく努力する。

 【コメント】解説には「徳を修めるべく努力する」とありますが、その為には日々に『南洲翁遺訓』を繙くことだと思います。『南洲翁遺訓』を学んでも決して思い上がってはならないと思います。

子曰く、囘の人と為りや、

2019-01-22 08:52:44 | ブログ
第3665号 31.01.22(火)

子曰く、囘の人と為りや、中庸を撰び、一善を得れば、則ち拳拳服膺(けんけんふくよう)して、之を失はず、と。
子曰く、天下国家をも均(おさ)む可きなり。爵祿をも辞す可きなり。白刃をも踏む可きなり。中庸は能くす可からざるなり、と。『中庸』213


 孔子の門人たちもみな中庸をはげんだ。なかでも顔淵(がんえん)がもっともすぐれていた。孔子は「回の人がらというものは、中庸を択びとり、一つの善い事を知ると、それを心をこめて自分の知識にしてしまい、二度と忘れない。このようにして常に向上につとめているのである」といわれた。
 されば、孔子はまた、「人にとってもなしがたいことは、天下国家を安らかに治めることと、高位高官を潔く辞退することと、勇敢に敵の中に攻め入ることなのであるが、それらも中庸を守ることに比較すると、天下国家はなお平らかに治められる。高爵厚禄はなお辞退できる。白刃はなお踏みやぶれる。だが、中庸だけは行ない通すことができない。その困難な中庸を、顔回はまことによく行なっている」といって感嘆された。


 【コメント】顔厭は孔子の高弟であり、魯の國の人で、孔子より三十歳の年少者。貧困のうちにあって、学問の楽しみを一すじに修め、孔子にもっとも信頼されていたが、不幸にも短命で、孔子よりも先に死んだ。孔子はその死を「天、予を喪(ほろ)ぼせり」といってなげいた。曾子は顔淵の人がらを「能を以て不能に問ひ、多を以て寡に問ひ、有れども無きがごとく、実つれども虚しきがごとく、犯さるるも校(てむかい)せず。昔はわが友嘗てここに従事せり」と評している。後世、亜聖といわれている。

 解説によると中庸だけは行ない通すとはできないとしていますが、難解であってもどれだけ取り組めるか試してみたいものです。荘内南洲会の先生方でしたら可能かも知れません。

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『善の研究』第133回

 かくの如く主客の未だ分かれざる独立自全の真実在は知情意を一にしたものである。真実在は普通に考えられているような冷静なる知識の対象ではない。我々の情意より成り立った者である。即ち単に存在ではなくして意味をもった者である。それでもしこの現実界から我々の情意を除き去ったならば、もはや具体的の事実ではなく、単に抽象的概念となる。物理学者のいう如き世界は、幅なき線、厚さなき平面と同じく、実際に存在するものではない。この点より見て、学者よりも芸術家の方が実在の真相に達している。

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『菜根譚』148

 人と作(な)るに、点の真懇の念頭なければ、便ち個の花子(かし)と成り、事々皆虚なり。世を渉るに、段の円活の機趣なければ、便ちこれ個の木人にして、処々に碍あり。

 〔訳〕人であるためには、少しは誠実な心がなければ、全くこじきと同じになり、その言うことなすことは皆いつわりである。また、世渡りのためには、ひとつ如才のない気転がなければ、全くでく人形と同じで、どこへ行っても障害に突き当たる。
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 韓国海軍とのトラブルは日本側が円満な解決策がないとして、退いた感があります。訳のわからない人とはトラブルは起こさない方が賢明でしょう。答えはケントギルバート著『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』を御読みくださるようお勧め致します。

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曾子曰く、十目の視る所、

2019-01-20 16:44:56 | ブログ
第3664号 31.01.21(月)

曾子曰く、十目の見る所、十手の指さす所、其れ嚴(つつし)まんかな。富は屋を潤すも、徳は身を潤す。心廣くして體豊かなり、と。故に君子は必ず其の意を誠にす。『大学』53

 曾子は「我々の考えや行ないはあまたの人々の目が注視しているところ、あまたの人々の手が指さして注意しているところであるから、まことに恐れつつしまねばならぬ。自らつつしんで徳を修めるならば、人々が貴ぶ富は家屋をうるわしくするに止まるが、徳はわが身をうるわしくする。つまり、その心はだれを恐れはばかることなく、広大になり、身体もいかなるものごとにもくじけず、すこやかになる」といっている。だから、君子は必ず自分の意を誠にするのである。

 【コメント】日々に努力を重ね、自らつつしんで徳を修め、自分の意を誠にしたいものです。そうすることによって、周囲の人々にもよい影響を与えることができると信じます。そのような努力が二度とない人生を有意義に出来るのではないでしょうか。

 只今、1月21日、午前10時半です。屋外は日本晴れと形容してもいいほど、晴れわたっています。テレビ報道によれば、北海道は大雪で大変みたいです。そして荘内地方も雪で大変なご様子。『南洲翁遺訓』を通じての知人が多いので、荘内と言ったら迚も気になります。荘内の皆様、豪雪にご注意くださいませ。

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『善の研究』第132回

 事実上の花は決して理学者のいうような純物体的の花ではない、色や形や香をそなえた美にして愛すべき花である。ハイネが静夜の星を仰いで蒼空における金の鋲といったが、天文学者はこれを詩人の囈語として一笑に附するのであろうが、星の真相はかえってこの一句の中に現われているかも知れない。

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『菜根譚』147

 事業文章は身に随って銷毀(しょうき)すれども、精神は万古に新たなるが如し。功名富貴は世を遂うて転移すれども、気節は千載に一日なり。君子は信(まこと)に当に彼を以て此に易うべからざるなり。

 〔訳〕いかなる事業や学問も、その身が死ねば、それに従って消滅してしまうが、人間の精神は永遠に日に新たに生き続ける。いかなる栄誉や財産も、時世と共に移り変ってしまうが、人間の気節は千年も一日のように変らずに貴い。そこで君子たるものは、決して一時的なものを永久的なものに取り代えてはならない。

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