味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

子曰く、人皆予を知なりと曰ふ。

2019-01-19 15:49:10 | ブログ
第3663号 31.01.20(日)

子曰く、人皆予を知なりと曰ふ。驅りて諸を罟・擭・陥穽の中に納るるに、而も之を知りて辟くる莫きなり。人は皆予を知なりと曰ふ。中庸を撰び、而も期月も守ること能はざるなり、と。『中庸』212

 孔子は舜を理想として、道を修めて大知の徳を備えられたのであるが、孔子自身は、「世上の人々は、みなわたくしを智者であるという。だが、わたくしは、猟場でかりたてられて、あみやわなやおとし穴やに追いこまれるのに、それをさとって逃げ去ることのできない獣と同じで、人々の意見にまどわされて、不正を避けるすべを心得ていない。まことに世上の人々は、みなわたくしを智者であるといっている。だが、わたくしは、中庸を択びとりながら、僅か一箇月の間さえも守りぬくことができないのである」と自戒して、中庸を守ることをつとめられたのである。

 【コメント】世の人々が孔子を高く評価しているのを自分では少しく卑下しているが、そういう所は人間的であると思います。

 ボクシング協会の会長といわれていた男は、我こそ世界一だというようなことを弁じていて、その後同協会から永久追放されましたが、全く真面でない自分を世にさらけ出したという人が多いようですが、そのように受け取る人は多いようです。

 昨晩は今年最初の本部空手道教室でした。いつものとおり空手道型や『南洲翁遺訓』の発表を元気よく行いました。円心会は文武両道を探究する館であるので、次に掲げるとおり、『私の人生観』を創作し、全員で拝誦しました。どんな難解な文章であっても、日常的に口づさんでいると、いつしか自分の言葉となるのです。何故、作成したかと言うと、実技面のみにつき進み、精神を創ることがおろそかになっていると思えるからです。

 そして終盤に子供たちに私の腹部を打たせました。宇都総一君の突きは、破壊力最高でした。学校で同級生を突いたら内臓破裂を起こすであろうから、そういうことはないようにして下さいとお願いしました。
 80歳の老体の私も腹部を打たせることも出来るから、男の覇気はあると思っています。

 昨日は、同窓生で鹿児島実業高校野球部で活躍した畑野正巳さんから、元気でいるかと、電話がありました。超ハンサムな彼は、多くの女性に取り囲まれる華やかな人生を送ったのでした。腕力も強いのですが、人を殴り倒すことはない男でした。

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私の人生観
 
 私は、自分の人生を健康で長生きすべく努力を重ね、確立して参りたいと思います。
 そのためには、日々、
 一、身体を鍛え、勤勉であるように努めます。寸暇を惜しんで勉強をします。
 二、勤労精神が旺盛であるように努めます。働くことは人間を創ることだとして頑張ります。
 三、忠恕の精神を持つよう心がけます。どんな人にも思いやりを持つようにします。
 四、至誠の情を涵養します。この上もなく誠実な心を創ります。
 五、目的を決めたらその達成に向けて継続して取り組みます。目的に向けて諦めません。

 何事も 修行と思いる人は 身の苦しみは 消えはつるなり 至道無難

  どんなことも修行だとおもえば、苦しさは消えてなくなるのです。

   平成三十一年一月
  日本空手道少林流円心会 〇〇〇〇
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小人は閒居しては、不善を為すこと

2019-01-18 16:45:47 | ブログ
第3662号 31.01.19(土)

小人は閒倨しては、不善を為すこと至らざる所無し。君子を見て、而る后厭然として其の不善をおほいて其の善を著はさんとす。人の己を視ることは、其の肺肝を見るが如く然れば、則ち何ぞ益あらん。此を中に誠なれば、外に形はると謂ふ。故に君子は必ず獨りを慎むなり。『大学』53

 自分自身を大切にすることを知らぬ小人は人目に立たずにひとりいるときは、どんな善からぬことでもする。ところが君子を見ると始めておしかぶせてそのよからぬことをかくして、無理に、いかにも善いことをしているように見せかける。たが、他人がその人をよく見ていることは、体内の肺臓・肝臓まで見すかすように心の奥底まで見ぬくのであるから、かくしだてしても何でやく立つことがあろう。かく心中の実はかくせぬものであるから、これを「心のうちに誠があれば、それは外に善事となってあらわれる」という。だから、君子は必ず自分自身を大切にまごころをもって修めるのである。

 【コメント】人間にとって大事なことは、心のうちに誠を持ち、まごころをもって修め、処世に臨みたいものです。通常人は、目先に捉われがちですか、冷静に観察し事に対処したいと思います。

 ところが連日のテレビ報道では、あおり運転など運転マナーの悪い人が増えてきているように思うのです。単車の青年を死亡させた男は、あおり運転をした上に、追っかけまわして追突させ死亡させた殺人として立件しているようです。
 ドライブレコーダーを見てまさしくそのとおりだと現認できると思います。弁護側の論理は、後付けの言訳に過ぎないと思います。

 自分も人から大事にされたいと思うのは人々皆だと思うのです。一寸した息巻く感情は捨て、凡ての人に親切にしてあげるよう心掛けたいものです。

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『善の研究』第131回

 普通には主観客観を別々に独立しうる実在であるかのように思い、この二者の作用に由りて意識現象を生ずるように考えている。従って精神と物体との両実在があると考えているが、これは凡て誤である。主観客観とは一の事実を考察する見方の相違である。精神物体の区別もこの見方より生ずるのであって、事実其者でない。
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 『菜根譚』146

 己を反みる者は、事に触れて皆薬石と成り、人を尤むる者は、念を動かせば、即ち是れ戈矛(かほう)なり。一は以て衆善の路を開き、一は以て諸悪の源をふかくす。相去ること霄壤(しょうじょう)なり。

 〔訳〕自己を反省する者にとっては、なにごとに触れても皆良薬となるが、人の過失をとがめる者にとっては、心を動かすごとに皆自分を傷つける矛となる。前者はもろもろの善行を積む路を開くものであるが、後者はもろもろの悪事を重ねる源を深くするものである。両者の相違は、まさに天地雲泥の差である。

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子曰く、舜は其れ大知なるかな。

2019-01-17 14:17:19 | ブログ
第3661号 31.01.18(金)

子曰く、舜は其れ大知なるかな。舜は好んで問ひて、好んで邇言を察し、悪を隠へて善を揚ぐ。其の両端を執って、其の中を民に用ふ。其れ斯を以て舜と為すか、と。『中庸』210

 孔子は「舜は世にも知徳のすぐれた人であったことよ。自分から好んで他人にたずねて、進んで身近なことばの実行しやすいよさを明らかにし、悪いことは抑え、善いことは取り上げて広めた。物事の両極をよく考え合わせて、そのうちのもっともよいことを択んで人民に用いるようにしたのである。そもそもこのようであったればこそ舜というのであろう」と讃嘆された。

 【コメント】舜は中国の太古の聖王である。もともと民間にあって徳行のきこえが高く、帝堯にあげ用いられ、その禅譲を受けて帝位についた。『書経』舜典篇には、帝堯にあげ用いられ、帝位について、諸官職を定め、これに賢人を任用して、大いに治績をあげる次第が、叙述されている。『論語』堯曰篇には、帝堯が舜に「充(まこと)にその中を執れ」と命じ、帝舜も禹に位を譲るとき、同様に命じたとあります。

 昨晩は空手道教室第二道場の御稽古日でした。早々と行き、ケントギルバート著『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』と若狭 勝著『参謀力』を拝読しました。どちらも全国民に読んで貰いたい著書だと言えます。  
 特にケントギルバート著は当該著書が指摘している儒教の支配云々に注意して読むことに努めています。

 空手道教室は寒が身に沁みましたが、小学一年の佳那子様もおいでくださり、元気な空手道型と『南洲翁遺訓』発表をしてくださいました。

 また中学一年生の超優秀君もおいでくださいましたが、突きに重み破壊力が乏しいため、私の腹部を一杯打たせました。性格が優しく粗暴性がないためであろうか、稽古を始めて二年になんなんとしているのですが、突きの甘さが感じられます。

 妹と歩いているとき、その妹を行き掛かりの男がさらって行くとしたとき、兄貴として助けるための突きの一発を構築して欲しいのです。

 今朝のテレビ報道で、高校生の男の子がピアスをつけて来たのに、指導係りの先生が殴るなどの暴力行為が放映されました。暴力を振う先生も良くないが、家庭で監視役の母親の指導は、どうなっていたのでしょう。一人の生徒の行為が学校全体に迷惑があってはならないのです。

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『善の研究』第130回

 恰も我々が微妙なる音楽に心を奪われ、物我相忘れ、天地ただ嚠喨(りゅうりょう)たる一楽声のみなるが如く、この刹那いわゆる真実在が現前している。これを空気の振動であるとか、自分がこれを聴いているとかいう考は、我々がこの実在の真景を離れて反省し思惟するに由って起ってくるので、この時我々は已に真実在を離れているのである。

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『菜根譚』144

 徳は量に随って進み、量は識に由って長ず。故に其の徳を厚くせんと欲すれば、其の量を弘くせざるべからず。其の量を弘くせんと欲すれば、其の識を大にせざるべからず。

 〔訳〕徳というものは度量に従って向上し、度量は見識に従って成長するものである。そこで、その徳を厚くしようと思えば、その度量を広くしなければならぬし、その度量を広くしようと思えば、その見識を高くしなければならぬ。

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所謂其の意を誠にするとは、

2019-01-17 09:59:39 | ブログ
第3660号 31.01.17(木)

所謂其の意を誠にするとは、自ら欺く毋きなり。悪臭を悪むが如く、好色を好むが如くす、此を之れ自ら謙くすと謂ふ。故に君子は必ず其の獨を慎むなり。『大学』52

 「自分の意を誠にする」とは、自分から自分の真情をいつわらないことである。人が悪い臭いをいみ嫌うように、好い色をすき好むようにするのである。このようにすることをこそ、われとわが心にかなわせるというのである。だから、君子は必ず自分自身を大切に修めるのである。

 【コメント】人々が共存する社会では、自分も他人も、生きている喜びを共に味わいたいものです。そのためには自らを修め人様にも真摯に対応することだと思います。
 財は使えばすぐ無くなりますが、人間の修めた徳を味わった人は、生涯その喜びは余韻として残るものです。  『南洲翁遺訓』と出会った私は、荘内南洲会の先生方と親しく交流させて戴きました。中でも前理事長・小野寺先生から賜りましたご芳翰は最高の宝物として保存しております。

 あの偉大なる小野寺先生が、薩摩の小人・味園博之に最高の親しみをもって綴ってくださっているお手紙は、心を洗われる思いです。

 荘内南洲会に伺う事15回、私の身体は荘内にどっぷりつかっているのです。詩吟道の恩師竹下一雄先生は、『南洲翁遺訓』は西郷隆盛の言葉というが、それは荘内の精神なんです、と私に何回も何回も話したものです。
 
 私の空手道教室の道場には、昭和の教祖・安岡正篤先生、菅原兵治先生、長谷川信夫先生、小野寺時雄先生、佐藤昭夫先生がたのお写真を掲げています。

 道場を建設して50年になりますが、荘内南洲会の先生方のお写真を掲げてから、毎朝毎晩慇懃にご挨拶をしています。
 いい加減なことをしたら、荘内南洲会の先生方が失望すると思われるので、一挙手一投足に慎重性を保っております。
 テレビを点けたら警察の方々を悩ませている非違行為が紹介されますが、経済活動もいいが、この日本の国に華開いた「人道の文化」をこそ永遠性を持たせる工夫をして欲しいものです。
 ですから私は連日、漢籍を繙いているのです。

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『善の研究』第129回

 純粋経験においては未だ知情意の分離なく、唯一の活動であるように、また未だ主観客観の対立もない。主観客観の対立は我々の思惟の要求より出でくるので、直接経験の事実ではない。直接経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである、見る主観もなければ見らるる客観もない。

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仲尼曰く、君子は中庸す。

2019-01-16 09:29:49 | ブログ
第3659号 31.01.16(水)

仲尼曰く、君子は中庸す。小人は中庸に反す。君子の中庸や、君子にして時じく中(あた)る。小人の中庸や、小人にして忌憚(きたん)する無きなり、と。『中庸』206

 孔子はいわれた、「君子の行ないは中庸である。ところが小人の行ないは中庸にたがっている。というのは、君子の中庸は、君子の人がら通りにどんなときでもその節度にかなっている。ところが、小人のみずから中庸と称していることは、小人の人がらのままに目先のことにひかれてつつしみもおもんばかりもないのである」と。そこで、また孔子は、「中庸はまことにいたり深いことであるよ。されば、人はだれでもつとめ行なわなければならないのに、人々は、ほとんどこれをしとげようとしていない」といつて嘆かれた。

 【コメント】「君子の中庸は、君子の人がら通りにその節度にかなっていることは大事なことだと思います。それは目先のことにひかれて、つつしみもおもんばかりもないものであってはならないと思います。

 その為には判断をする当該本人が、右も左も、上も下も適切に咀嚼し判断しなければならないと思います。姑息な手法を用いることをしてはなりません。

 この所、陰湿にして自分勝手な事件が多発しているような気がするのですが、如何でしょうか。思うに労働団体のしたい放題の要求する姿勢が蔓延しているように思うのです。
 とにかく、戴く金に恥じかしくないようにありたいものです。

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『善の研究』第128回

 従来の心理学は主として主知的であったが、近来は漸々主意説が勢力を占めるようになった。ヴントの如きはその巨擘(きょはく)である。意識はいかに単純であっても必ず構成的である。内容の対照というのは意識成立の一要件である。もし真に単純なる意識があったならば、そは直ちに無意識となるのである。

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