味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

喜怒哀楽の未だ發せざる、之を中と謂ふ。

2019-01-13 17:11:41 | ブログ
第3657号 31.01.14(月)

喜怒哀楽の未だ發せざる、之を中と謂ふ。発して皆節に中る、之を和(くを)と謂ふ。中なる者は、天下の大本なり。和なる者は、天下の達道なり。中和を致して、天地位し、萬物育す。『中庸』204

 人の行いは、物ごとにふれて、感情の動きとなることから始まるが、その感情が喜・怒・哀・楽などとなって外に表れたる前に心の平正さがあるべきである、それを中という。この中が表れるとその行いは、すべて物ごとの節度に合致することになる、これを和という。だから中こそは、天下が秩序正しく治まるための大根本である。和こそは天下にあまねく実現すべき道である。このようにして中と和とを実現しつくせば、人間世界ばかりでなく、全世界の秩序がいささかのくるいもなくなり、ありとあらゆるものがその生長をとげて繁栄するのである。

 【コメント】道の実現が物ごとの常に中正適切さを得る一定の状態を中・中正といいます。『中庸』は、この状態はすでに心のうちにあるべきであり、それがすべての物ごとの根本であると説いています。

 日常的にはこういう解説も疎遠になると思いますが、とにかく体当たりして読み・書きを続けたいものです。人間の世界は、男と女の物語が中心であります。

 天の怒りを受けないためにあまり突飛なことはなさらない方がよろしいかと思います。漢籍に病みつきになった私か、漢籍全般を購入したのが20年前のことでした。

 長老の域に来て見て漢籍の良さに陶酔しています。二度とない人生です。漢籍の世界を従容しましょう。私がご尊敬している荘内南洲会の先生方は、漢籍の教えが人間の品格として根付いていると思っています。

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『善の研究』第126回

 聯想とか思惟とか複雑なる知的作用に至れば、なお一層この方面が明瞭となるので、普通に聯想は受動的であるというが、聯想においても観念聯合の方向を定むる者は単に外界の事情のみでは無く、意識の内面的性質に由るのである。聯想と思惟との間にはただ程度の差あるのみである。元来我々の意識現象を知情意と分つのは学問上の便宜に由るので、実地においては三種の現象あるのではなく、意識現象は凡てこの方面を具備しているのである。

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『菜根譚』141

 当に人と過を同じくすべく、当に人と功を同じくかべからず。功を同じくすれば則ち相忌む。人と患難を共にすべく、人と安楽を共にすべからず。安楽なれば則ち相仇とす。

 〔訳〕人と共にして失敗した責任を分かち合うのはよいが、成功した功績は共有しようとしてはならない。共有しようすると、仲たがいの心が生じてくる。人と苦難を共にするのはよいが、安楽を共にしようとしてはならない。安楽を共にしようとすると、憎み合う心が生じてくる。
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 道場の扉の開閉が出来なくなりました。職業別電話帳に掲載されている中村勝実様に御願いをし、修理して貰いました。大変まじめな方でした。技術も素晴らしいと見ました。中村様、有り難うございました。

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物格しくして后知至る。

2019-01-13 10:46:57 | ブログ
第3656号 31.01.13(日)

物格(ただ)しくして后(のち)知至る。知至りて后意誠なり。意誠にして后心正し。心正しくして后身脩まる。身脩まりて后家齊(ととの)ふ。家齊ひて后國治まる。國治まりて后天下平らかなり。『大学』44

 このように、ものごとが正しく受けとれるようになってこそ、知が極めて明晰になる。知が極めて明晰になってこそ、意が誠実になる。意が誠実になってこそ心が正しくなる。心が正しくなってこそ、身が善良に修まる。身が善良に修まってこそ、家族が和合する。家族が和合してこそ国家が安らかに治まる。国家が安らかに治まってこそ、天下が平和になるのである。

 【コメント】知が明晰になり、意が誠実になり、心が正しくなり、身が修まり、家族が和合し、国家が安らかに治まり、天下が平和になると解説していますが、素晴らしい大学の訓戒だと思います。

 今、自衛隊機へのレーザ照射への件でお隣の韓国と物議をかもしていますが、言い訳ばかり言う国と幾ら論争しても埒はあかないのです。

 ケントギルバート著『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』を熟読すれば、韓国人の人格の不毛さが理解できます。「馬鹿とは喧嘩するな」という言葉があるように、理性ある日本人の生き方を踏襲したいものです。

 昨夜は円心会の新年の宴を開催しました。大人12名、子供9人が出席してくれました。新春に相応しい素晴らしい宴でした。

 極め付きは、円心会で20年間修行をしている田上慈昭さんに空手道型を演武して貰いました。田上青年は長身であり超ハンサムであります。その人格から繰り出す乾坤一擲の中段突きは、誠に素晴らしい限りです。

 その空手道演武を評して大坪範士が、三段へ昇段させたいとの提案があり、全員拍手で賛同し祝福してくれました。空手道をしている関係で長年おつきあいしている私は田上青年の、美しい心に触れてきました。

 その姿はメデイアにもてはやされている今時の青年たちとは隔世の感があるのです。田上さん、本当に有り難うございました。

 メディアにもとはやされるより、『南洲翁遺訓』を学びましょう。

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 『善の研究』第125回

 我々の直接経験の事実においては純粋感覚なる者はない。我々が純粋感覚といっている者も已に簡単なる知覚である。而して知覚は、いかに簡単であっても決して受動的でない、必ず能動的即ち構成的要素を含んで居る。

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