味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

文は温柔敦厚の氣あるを要す

2019-01-06 14:30:28 | ブログ
第3650号 31.01.07(月)

文は温柔敦厚あるを要す。
(北宋の学者楊時は蘇軾をこう評している。)
「文章には、やさしさと重厚味とがあふれていなければならない。とくに主上に対し意見や上奏文を提出するときにはそうした配慮が大切だ。蘇軾の詩をみると、あてこすりがめだち、衷心から主上を諌めようとする愛情に欠けている。王安石となると、国政の任にありながら、一貫した政治原則をもたず、むやみに攻撃的なだけだ。君主に仕える態度とも思えない。
 君子たるには、なによりもまず、わが身から傲慢さや偏見をなくすことが肝要である。」
「詩というものは、発表したものが罪に問われるべきではないし、受け取る側がそれによってハッと自戒させられるようなものであるべきだ。寓意性がこめられていること、これが詩のあるべき姿なのだ。
 蘇軾の詩は、あまりに直載にすぎる。筆禍事件をひきおこしたのも当然であり、またそうした詩を発表したところで、相手を自戒させることにはならない」『宋名臣言行録』

 人間何をするにも自由だが、後々人々の心を曇らせる行為、言葉はよくないと思います。二度とない人生だから、心にぬくもりのあるようにと配慮すればより豊かなる人生が展望できるでしょう。
 それでも憎まれ口を叩く人は後を絶たないのです。

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『善の研究』第119回

 因果律というのは、我々の意識現象の変化を本として、これより起った習慣であることは、この因果律に由りて宇宙全体を説明しようとすると、すぐに自家撞着に陥るのを以て見ても分かる。因果律は世界に始がなければならぬと要求する。しかしもしどこかを始と定むれば因果律は更にその原因は如何と尋ねる、即ち自分で自分の不完全なることを明にしているのである。

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書は誦を成さざるべからず

2019-01-06 10:08:34 | ブログ
第3649号 31.01.06(日)

書は誦を成さざるべからず。

 幼いときの私の友人は、暗誦が苦手で、そのことをいつも気にやんでいました。兄弟並んで書物を読むときなど、他の兄弟はみな終わって、気楽に休んでいるのに、その友人た゜けは、いつまでもカーテンをおろして閉じこもり、書物の綴じ糸が切れるまで暗礁につとめた。
 
 このように、努力を積み重ねれば、それだけのことはある。念を入れて暗誦したものは、一生忘れることはないのだ。
「書物というものは、暗誦できるほど読み込まなければならない。馬上にあっても、また夜の就寝前であっても、たえず文章を詠じ、その意味を考えるようにすれば、そこから多くのヒントがうまれる」

 このように紹介している私も、25年前、空手道教室第二道場で、大声で『南洲翁遺訓』の条文を諳んじたものです。この作業は老体であっても可能だと思います。要はやろうという決断があるか否かだと思います。

 例えば近所の男女が抱き合っている姿を現認すれば、その挙動は覚えているのです。時代が変わっても人が行うことは同じなののです。

 只今、東京消防庁出初式をテレビで紹介しています。高層ビルなどを消化する仕事は、消防隊員という職業意識を肝に銘じた隊員たちの高邁な職業倫理の証だと思います。
 責任者の方は、こういう訓練を通じて都民の人々の安全に応えたいと申しています。

 先般、東京で軽自動車を暴走させ、人々を無差別に跳ね飛ばした青年は、何のために生まれて来たのでしょう。

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