第2175号 26.12.11(木)
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人の財を窃むも猶お之れを盗と謂(とう)う。況や天官を偸(ぬす)みて以て己れに私(わたくし)するをや。『文章規範』523
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人の財産を盗むものでさえ、これを盗賊という。まして、天命を奉じて行うべき官権を、私物のように考えてこれを使用することは、盗賊を上回る悪だ。(王符「潜夫貴忠論)
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【コメント】漢籍を繙きながら、人の世は面白いなぁと思っています。今太閤と呼ばれた東北出身の宰相のことに安岡正篤師が言及し、辞めた後、身内に財産を残していなければ歴史に名を残す人であったのだが残念だ、と書いています。同感です。
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悪知恵かどうか分からないが、西郷南洲翁みたいに、子孫に美田を残さず、世の為人の為尽す人間の何と少ないことか。そこにきて連日ブログでご紹介している菅臥牛先生、菅原兵治先生の生き方には限りない魅力を感じます。
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『大学味講』(第13回)
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(六) 我 入 入 我
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仏教では、舎利礼文にもありますが、「我入入我」ということをいっておりますが、それは儒教の「民」に親しむ」ということを、最も端的に説示したものと存じます。「我入、入我」は、砕いていえば、「我、民に入り」「民、我に入る」----我入民。民入我---なので、「我」と相手の「民」とが一体となる状態を説いたものであります。
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王陽明は「明徳」の本質を「万物一体の仁」といっております。私どもが明徳を明らかにすれば、それは必ず相手の明徳に通じて「万物一体」的の状態となるものであります。このことはその仕事の相手が、人であっても、物であっても(例えば稲なら稲)、その実際の状態に思いを致すならば、誰でもうなずけることでありましょう。その事に関してこちらの自分の明徳が少しでも明らかになれば、それは直ちに相手に影響して、相手に変化を与えるものであり、また相手に少しの変化を生じても、それき直ちにこちらにひびいてくるものなのであります。それはあたかも連通管の水面のようなものであると申してよいでありましょう。
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今甲管にAの高さまで水を注げば、それが連通管の底を通じて、直ちに乙管の(A)の高さに達し、また乙管のBの所まで水を注げば、直ちに甲管の方でも(B)の高さまで水面が上っていくのでありますが、これが「我」と「民」とが一体になる「親民」のすがたであると見てよいではありますまいか。ニュートンがリンゴの実が落ちるのを見て、万有引力を発見したというのもこれでありましょうし、釈迦と迦葉との間の拈華微笑(ねんげみしょう)によって法が伝えられたというのもこれでありましょう。
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これによってこれを見れば、明らかにされたこちらの明徳が、相手に通じて、相手の明徳を明らかにし、また相手の明徳によって、こちらの明徳も明らかにされるのでありまして、「明明徳」と「親民」とは別々のものではなく、相関関係の不可分のものであることが理解されるでありましょう。
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『論語』(第113)
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子陳に在りて曰はく、帰らんか、帰らんか。吾が党の小子、狂簡にして斐然として章を成す。之を裁する所以を知らず。
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孔子は天下を周遊して陳の国まで来られたが、仁義禮楽を以て天下を救うということが行われないことを嘆き翻然大悟して言うには、「帰ろう、帰ろう。うちの若者たちは、志は大きいが実行の面では未完成だ。彼らはあやなす錦のような美しい素質は持っているが、それわ裁断して衣服にするまでは至っていない。さあ魯に帰って、青年を教育して、大いに人材をつくって、わが道を後世に伝えよう、と。」
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短歌の紹介
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人格者付き合え学べ必死にて
やがて万巻書に勝るなり 7004 自助論248
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人の財を窃むも猶お之れを盗と謂(とう)う。況や天官を偸(ぬす)みて以て己れに私(わたくし)するをや。『文章規範』523
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人の財産を盗むものでさえ、これを盗賊という。まして、天命を奉じて行うべき官権を、私物のように考えてこれを使用することは、盗賊を上回る悪だ。(王符「潜夫貴忠論)
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【コメント】漢籍を繙きながら、人の世は面白いなぁと思っています。今太閤と呼ばれた東北出身の宰相のことに安岡正篤師が言及し、辞めた後、身内に財産を残していなければ歴史に名を残す人であったのだが残念だ、と書いています。同感です。
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悪知恵かどうか分からないが、西郷南洲翁みたいに、子孫に美田を残さず、世の為人の為尽す人間の何と少ないことか。そこにきて連日ブログでご紹介している菅臥牛先生、菅原兵治先生の生き方には限りない魅力を感じます。
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『大学味講』(第13回)
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(六) 我 入 入 我
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仏教では、舎利礼文にもありますが、「我入入我」ということをいっておりますが、それは儒教の「民」に親しむ」ということを、最も端的に説示したものと存じます。「我入、入我」は、砕いていえば、「我、民に入り」「民、我に入る」----我入民。民入我---なので、「我」と相手の「民」とが一体となる状態を説いたものであります。
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王陽明は「明徳」の本質を「万物一体の仁」といっております。私どもが明徳を明らかにすれば、それは必ず相手の明徳に通じて「万物一体」的の状態となるものであります。このことはその仕事の相手が、人であっても、物であっても(例えば稲なら稲)、その実際の状態に思いを致すならば、誰でもうなずけることでありましょう。その事に関してこちらの自分の明徳が少しでも明らかになれば、それは直ちに相手に影響して、相手に変化を与えるものであり、また相手に少しの変化を生じても、それき直ちにこちらにひびいてくるものなのであります。それはあたかも連通管の水面のようなものであると申してよいでありましょう。
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今甲管にAの高さまで水を注げば、それが連通管の底を通じて、直ちに乙管の(A)の高さに達し、また乙管のBの所まで水を注げば、直ちに甲管の方でも(B)の高さまで水面が上っていくのでありますが、これが「我」と「民」とが一体になる「親民」のすがたであると見てよいではありますまいか。ニュートンがリンゴの実が落ちるのを見て、万有引力を発見したというのもこれでありましょうし、釈迦と迦葉との間の拈華微笑(ねんげみしょう)によって法が伝えられたというのもこれでありましょう。
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これによってこれを見れば、明らかにされたこちらの明徳が、相手に通じて、相手の明徳を明らかにし、また相手の明徳によって、こちらの明徳も明らかにされるのでありまして、「明明徳」と「親民」とは別々のものではなく、相関関係の不可分のものであることが理解されるでありましょう。
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『論語』(第113)
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子陳に在りて曰はく、帰らんか、帰らんか。吾が党の小子、狂簡にして斐然として章を成す。之を裁する所以を知らず。
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孔子は天下を周遊して陳の国まで来られたが、仁義禮楽を以て天下を救うということが行われないことを嘆き翻然大悟して言うには、「帰ろう、帰ろう。うちの若者たちは、志は大きいが実行の面では未完成だ。彼らはあやなす錦のような美しい素質は持っているが、それわ裁断して衣服にするまでは至っていない。さあ魯に帰って、青年を教育して、大いに人材をつくって、わが道を後世に伝えよう、と。」
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短歌の紹介
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人格者付き合え学べ必死にて
やがて万巻書に勝るなり 7004 自助論248