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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

人の財を窃むも猶お之れを盗と謂う。

2014-12-11 10:05:33 | ブログ
第2175号 26.12.11(木)
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人の財を窃むも猶お之れを盗と謂(とう)う。況や天官を偸(ぬす)みて以て己れに私(わたくし)するをや。『文章規範』523
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 人の財産を盗むものでさえ、これを盗賊という。まして、天命を奉じて行うべき官権を、私物のように考えてこれを使用することは、盗賊を上回る悪だ。(王符「潜夫貴忠論) 
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 【コメント】漢籍を繙きながら、人の世は面白いなぁと思っています。今太閤と呼ばれた東北出身の宰相のことに安岡正篤師が言及し、辞めた後、身内に財産を残していなければ歴史に名を残す人であったのだが残念だ、と書いています。同感です。
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 悪知恵かどうか分からないが、西郷南洲翁みたいに、子孫に美田を残さず、世の為人の為尽す人間の何と少ないことか。そこにきて連日ブログでご紹介している菅臥牛先生、菅原兵治先生の生き方には限りない魅力を感じます。
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『大学味講』(第13回)
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 (六) 我 入 入 我
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 仏教では、舎利礼文にもありますが、「我入入我」ということをいっておりますが、それは儒教の「民」に親しむ」ということを、最も端的に説示したものと存じます。「我入、入我」は、砕いていえば、「我、民に入り」「民、我に入る」----我入民。民入我---なので、「我」と相手の「民」とが一体となる状態を説いたものであります。
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 王陽明は「明徳」の本質を「万物一体の仁」といっております。私どもが明徳を明らかにすれば、それは必ず相手の明徳に通じて「万物一体」的の状態となるものであります。このことはその仕事の相手が、人であっても、物であっても(例えば稲なら稲)、その実際の状態に思いを致すならば、誰でもうなずけることでありましょう。その事に関してこちらの自分の明徳が少しでも明らかになれば、それは直ちに相手に影響して、相手に変化を与えるものであり、また相手に少しの変化を生じても、それき直ちにこちらにひびいてくるものなのであります。それはあたかも連通管の水面のようなものであると申してよいでありましょう。
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 今甲管にAの高さまで水を注げば、それが連通管の底を通じて、直ちに乙管の(A)の高さに達し、また乙管のBの所まで水を注げば、直ちに甲管の方でも(B)の高さまで水面が上っていくのでありますが、これが「我」と「民」とが一体になる「親民」のすがたであると見てよいではありますまいか。ニュートンがリンゴの実が落ちるのを見て、万有引力を発見したというのもこれでありましょうし、釈迦と迦葉との間の拈華微笑(ねんげみしょう)によって法が伝えられたというのもこれでありましょう。
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 これによってこれを見れば、明らかにされたこちらの明徳が、相手に通じて、相手の明徳を明らかにし、また相手の明徳によって、こちらの明徳も明らかにされるのでありまして、「明明徳」と「親民」とは別々のものではなく、相関関係の不可分のものであることが理解されるでありましょう。
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『論語』(第113)
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 子陳に在りて曰はく、帰らんか、帰らんか。吾が党の小子、狂簡にして斐然として章を成す。之を裁する所以を知らず。
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 孔子は天下を周遊して陳の国まで来られたが、仁義禮楽を以て天下を救うということが行われないことを嘆き翻然大悟して言うには、「帰ろう、帰ろう。うちの若者たちは、志は大きいが実行の面では未完成だ。彼らはあやなす錦のような美しい素質は持っているが、それわ裁断して衣服にするまでは至っていない。さあ魯に帰って、青年を教育して、大いに人材をつくって、わが道を後世に伝えよう、と。」
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短歌の紹介
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人格者付き合え学べ必死にて
 やがて万巻書に勝るなり 7004 自助論248 

之れに居る、一歳、之れに種うるに穀を以てす。

2014-12-10 10:26:29 | ブログ
第2174号 26.12.10(水)
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之れに居る、一歳、之れに種(う)うるに穀を以てす。十歳、之れに樹(う)うるに木を以てす。百歳、之れを来たすに徳を以てす。
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 一年かぎりの居住ならば、穀物をうえるがよい。十年住むと決まったら、木を植えるがよい。しかし、百年ののちの利を考えるなら、徳を植えるがよい。
 徳の世をつくり出すのは百年の大計である。(司馬遷「貨殖伝」)
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 【コメント】何も知らなかった、何も出来なかった私が、こうして漢籍の書を繙き、ブログでご紹介出来る幸せをしみじみ噛みしめています。
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 現在、総選挙運動の真っ最中で、各陣営は、私どもの党によろしくと声高に訴えています。その方々が、百年先を思考した政策を考えているでしょうか。高い給料を貰い、勤務時間は少なくし、楽をして過ごした先には、みじめさがあるような気が致します。
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 今先、NHK BS放送で、富士山より高い南米エルアルトの生活風景が紹介されました。それを見乍ら、日本の若者もこういう所で一年間位生活をさせた方がいいだろうになぁと思った次第でした。
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 今の日本ではメディアにチヤホヤされたいと親も子も思っているような気が致します。
 だから私は、菅臥牛先生、そして菅原兵治先生のご著書等々をご紹介しているのです。こういう偉人の先生方の生き方を知れば、人生に処す最高の生き方が理解できると信じます。

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 皆さん、教えの國・荘内の学風を学びましょう。
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『大学味講(第12回)
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 (五) 結合と産霊
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 すべて物事は「結合」されるから「産霊」が行われるのであります。結ばれるから産まれるのでありまして、「産霊」は結果であり、「結合」はその結果を生ずる過程である、と申してよいでありましょう。
 その最もよい例が「男」と「女」が結婚して「夫婦」となることであります。わかれていた「男」と「女」が、「夫婦」として、霊肉ともに完全に結合するところから、新たなる生命が産まれるのであります。かくて、

 「結ばざる所に産霊なし」
ということになるのでありますが、これは人と人、人と物、物と物等々、万般の関係に通ずる大原則であります。
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 その一例として農業における作物の栽培のことについて申してみましょう。どんな優秀な種子でも、それをそのままにしておいたのでは発芽しません。それを大地と結び、水と結び、空気と結び、更に肥料と結ぶ----それが播種であり、灌漑であり、施肥なのでありまして、作物の発芽、生長、繁茂、開化、結実という「産霊」の作用は、その「結合」から生ずるのであります。そして、それを結んでやるのが「人」なのでありまして、それが大学でいう「民に親しむ」----この場合は「稲に親しむ」---「土に親しむ」---なのであります。
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 このことは、工業の製造過程における各種の原材料の結合においても、または商業における商品とお客との結合においても同じことでありまして、それらのものを結んでやるのが、結局その事に当る「人」なのであります。その意味で、その仕事をうまくやるということは、要するにその仕事における「民に親しむ」ということに帰するでありましょう。
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『論語』(第112)
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 子曰はく、「寗武子、邦道あれば則ち知。邦道なければ則ち愚。其の知には及ぶべし。其の愚には及ぶべからず。」
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 孔子が言うには、衛の家老寧武子は、国に道の行われている時世には、あっぱれ智恵者の働きをした。国が乱れた時世に在っては、陰にまわって損な役割りを買って出て国難にあたった人で、外目には全く馬鹿者のようにみえた。
。智恵者たることはまねができるが、馬鹿者であった偉大さは、とても及びもつかないところだ。

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 『南洲翁遺訓』に言う、命もいらず名もいらずと言った西郷南洲翁が思い出されます。
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『禅とは何か』
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 西田幾太郎博士の「寸心日記」より。
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古来天性英邁の人も幾多の辛酸を経て始て大道を成す。余輩謭劣なる者、豈等閑の思をなすべけんや。
光陰一過再来せず。須く念々刻々大憤志を起し妄念を去り大道に徹せんことを務むべし。大道は処によらず唯志による。
人は馬鹿正直にあらざれば道を成す能はず。  
志を大にして小利小成を願ふべからず。
工夫は念々着実にし等閑にすることなかれ。一寸の光陰も重んずべし。
安逸ハ恐ルベキ讐敵ナリ、人ハ時々刻々白刃頭上ニカカル心得ニテ居ルべし。(以上、明治三十一年)

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短歌の紹介
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油断すな敵は己の怠惰なり
 二度なきこの世命尽きるまで 7003 禅19
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北海道南洲会 工藤幹事長様、お便りが今朝ポストに入っていました。有り難う存じました。

身否すと雖も而も道は亨る。

2014-12-09 10:09:20 | ブログ
第2173号 26.12.09(火)
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身否すと雖も而も道は亨る。『近思録』(出處類)
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 たとえ一身の生活が不幸にあおうとも、守っている道は、あくまで達するようにしていかねばならない。299
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【コメント】上の『近思録』の言葉は至言だと思います。人間社会は競争社会であるとは申せ、他人様が不幸になるようなことはすべきではないでしょう。
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 インターネットを立ち上げると、NHK職員の不祥事、高校生の飲酒運転等々、枚挙に暇がないようです。出来るものなら大人の人は、それなりに諭してあげたいものです。

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『大学味講』(第11回)
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(三) 「親しむ」とは
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次に「親しむ」とは、相手と一体になることであります。「親」の反対は「疎」で、「疎」は「疎遠」「疎外」等の熟語として用いられ、「うとんずる」とか「とおざかる」とかと訓(よ)み、相手から遠ざかり、離れることをいうのであります。ですから「民に親しむ」とは、自分の仕事の対象となるものから、遠ざかったり、離れたりせずに、そのものと一体になることであります。(そうでなければ、どんな仕事でもうまくいくものではあのません) 
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(四) 「むすび」の道
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 相手と一体になること----大学の「親民」のこと----を、日本語では「むすび」といいます。「むすび」とは「わけ」の反対で、自と他の二つが結合して、一つになることであります。ところで、われわれの先祖は、この「むすび」という日本語に、漢字が渡来した時に「産霊」の文字を当てて、これを「むすび」と読んでいるのであります。----高御産霊神(たかみむすびのかみ)、神産霊神(かみむすびのかみ)の「産霊」がそれであります。そこで、この「むすび」の日本語の近代的意義の「結合」と、古代的意義の「産霊」との関係について考えてみることと致します。
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「産霊」とは、ものを産むはたらきであります。「産」を「むす」と訓んで「産む」という意味に用いたのであります。ですから、今でも産まれた男児を「むすこ」---「産子」(むすこ)---といい、女児を「むすめ」---「産女」(むすめ)---というのであります。そしてその産むはたらきの根源たる霊妙な力を「霊」(ひ)といい、それによって産まれた男女を「霊子」(ひこ)「霊女」(ひめ)というのでありまして、「むすこ、むすめ」「ひこ、ひめ」本来は同義語なのであります。かくて「産霊」(むすび)とは、ものを産むはたらきとなるのであって、これが「むすび」の古代的意義であります。
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 では「むすび」の古代的意義の「産霊」と、現代的意義の「結合」との関係はどうなのか、の探究に入りましょう。頁14

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『論語』111  

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季文子、三たび思うて而る後に行ふ。子之を聞いて曰はく、「再びせば斯れ可なり。」
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 魯の家老季文子は三回も考えを練りにねってから初めて実行に移した。孔子がこれを聞いて、「二度考え直してやれば結構だろう。」といった。
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季文子は極めて思慮綿密、用意周到の人であるとされる。念を入れ過ぎてよくないということはないでありましょう。
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『禅とは何か』より
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権力は人間を盲目にするため、地位に執着し、やめるべき時機を失い野垂れ死にすることがいかに多いことか。『菜根譚』に「事を謝するは当に正盛の時に謝すべし」という言葉がある。「事を謝す」とは官を辞める、辞退することである。
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私事ですが、家庭的事情もあり、電電時代、降格辞令を希望し、戴いたことがあります。そのお蔭で、空手道と『南洲翁遺訓』の神髄を学ぶ機会に接して、今日元気なのだと思います。役職の如何にかかわらず、誠心誠意仕事はしてきました。
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短歌の紹介
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暗闇で人見ていないと思うなよ
 天が観ている己も観ている 7002 禅とは138

我が生を観て進退す。

2014-12-08 13:14:33 | ブログ
第2172号 26.12.08(月)
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我が生を観て進退す。『易経』
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 自分の生活、すなわち自分がいかなる地位にあるか、いかなる時、いかなる場所にいるかということを観察して、それに順応するように身を処する。
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 このことが可能な限り、人の道をはずれることはない。225
 
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【コメント】上の『易経』が教えるとおりだと思います。空手道暦65年、指導歴50年、その間いろいろの人から甘言を交えたお誘いがありました。
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 全日本空手道連盟公認6段に40年前合格した時、貴方は空手道界の第一人者です、吾々と一緒にやりましょうという誘いを数多く受けました。「機会がございましたら、どうかよろしくお願いします」と言って、私は一切動きませんでした。そういう言葉に乗って、利害を求めて動いたら、必ず悲劇が待っているのです。
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 特に私は『南洲翁遺訓』を通じての「人間学」を探究したいという気持ちがございますので、普通の人は『南洲翁遺訓』が難解ですからやらないのです。私の天職は『南洲翁遺訓』を子供たちに伝授することだと思っています。

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『大学味講』(第10回)
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   第二節 親 民(民に親しむ) 
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 大学の三綱領の第二は「民に親しむ」---「親民」---であります。
 (一) 「親民」とは何か
 そこで、まず「親民」とは何かということから申しましょう。一体「大学」は、政治の原理を説いたものでありますから、「親民」とは為政者が民に親しむことであります。一国の首相としては、国民に親しむ。一県の知事としては県民に親しむ。市町村の首長としては市町村民に親しむ。更にこれを拡大して解釈すれば、社長としては社員に親しむ。教師としては学生に親しむ、親としては子に親しむ、等々となるでありましょう。

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 (二) 「民」とは何か 
 
 しかし、「民」を単に人にだけ限定することは、いささか狭きに過ぎるではないかと思います。一体東洋の学問は、西洋のそれとは特色を異にするものがあり、いわゆる「科学」のように、政治は政治の部門、倫理は倫理の部門、物理は物理の部門、化学は化学の部門というように、その部門だけの知識を取扱って足れりとせずに、万事に通ずる普遍的原理----即ち「道」---に立っての学なのであります。ですから、大学は政治の書であるといっても、その中には、教育にも、産業にも、経済にも通ずる普遍的原理が蔵せられてあるのであります。
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 そこで、この「民」を「民とは我に対するもの」の意味に解した雉先の説などを参考として、人のみに限定せず、稲を作る農民は、稲がその「民」であり、器を作る工人は、器がその「民」であるとして、「民に親しむ」を、自分の仕事の対象となるものに親しむことである、というところまで拡大し、応用して、講究していきたいと存ずるものであります。

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『論語』第110
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 子張問うて曰はく、「令尹子文は三たび仕へて令尹となれども喜べる色なく、三たび之を已めらるれども慍れる色なし。旧令尹の政は必ず、以て新令尹に告げたり。何如。」子曰はく、「忠なり。」曰はく、「仁なるか。」曰はく、「未だ知らず、焉んぞ仁を得ん。」
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 「崔子、斉の君を弑す。陳文子は馬十乗あれども棄てて之を違る。他邦に至りて則ち曰はく、猶吾が大夫崔子のごときか」と。之を違る。一邦に之きて則ち又曰はく、「猶吾が大夫崔子のごときか」と。之を違る。何如。」子曰はく、「清なり。」曰はく、「仁なるか。」曰はく、「未だ知らず。焉んぞ仁を得ん。」

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  子張が「楚の子文は、三度令尹に任ぜられましたが喜ぶ様子もなく、三度免職されたが不平の色もなく、辞める時には新令尹に詳細の事務引継ぎをしました。其の行いはいかがですか。」とおたずねした。孔子が言うには、「忠実なことである。」「仁ではありませんか。」「さぁ、どうか知らんが、それだけでは仁とはいへまい。」
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「今一つ伺いますが、崔子が齊の荘公を弑したときに、陳文子は、馬の四十頭もあるような富を捨てて國を去りました。そして他の國へ行きましたが、「ここにもわが大夫崔子の如き悪人がいる」と言って、そこを去りました。又他の國へ行きましたが、そこでも「なお、わが大夫崔子と同じものがいる」と言って立ち去りました。これは如何ですか。」「清廉潔白なことである。」「仁ではありませんか。」「サア、どうか知らんが、それだけでは仁とはいえまい。」
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先に亡くなった円心会の高弟・岩坪清美範士は「見事なり、清なり」でした。
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『禅とは何か』より
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人間のすがたの修行は顔だけではない。身体、動作すべて修行によって勝れたすがたとなる。真箇の禅僧が長い年月修行していると、歩き方から普通の人と異なるようになるという。武道にしろ、剣道にしろ一芸に達した人のすがたはやはり普通と異なるものだ。人間のすがたにその人なりの威厳、力量が現われるものであることを『葉隠』は説く。
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   打ち見たる所に、その儘、その人々の長分の威が顕わるるものなり。引き嗜む所に威あり、調子静かなる所に威あ 
   り、詞寡き所に威あり、礼儀深き所に威あり、行儀重き所に威あり、奥歯噛して眼差尖なる所に威あり、これ皆、外に顕れたる所な

   り。

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 こうしてご紹介しながら、長年修行はしてきたつもりですが、未熟なる自分に煩悶しています。
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短歌の紹介
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行を積み 礼儀行儀に 威があるか
 年輪に添う 威ほしきもの 7001 禅とは150

高山に登らざれば、天の高きを知らず。

2014-12-07 10:27:06 | ブログ
第2171号 26.12.07(日)
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高山に登らざれば、天の高きを知らず。『荀子』
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 高い山に登らなければ、天の高さがわからない。
 自分自身が相当の偉さに達しなければ、偉い人の偉さは、わからない。
 また、学んでみなければ学問の偉大さもわからない。383

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 【コメント】『南洲翁遺訓』他、漢籍を読み続け、書き続けていますが、一行に冴えない次第です。学べば学ぶほど、荘内の先生方の英邁さ、奥深さを思い知らされています。
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 昨日の朝と夜の空手道指導の際も、菅臥牛先生のこと、菅原兵治先生の英邁さ等々についてお話した次第です。とにかく、両先生方の書籍を仲間が拝読したいと申しています。

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 私自身、大学味講は10年前拝読しましたが、改めてブログに綴りながら、良い本と出合ったと心から感謝しています。これも『南洲翁遺訓』刊行の地・荘内南洲会の小野寺先生方のご人格に魅せられたから、読む気になったものです。
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 荘内南洲会理事長 水野先生、機関誌『敬天』に、「菅原兵治著『大学味講』を御読みになりませんか」と一言ご案内してみたら如何でしょう。
 味園道場関係者が『名君忠徳公』を50名の人に読んで貰っています。今後、『大学味講』等々も読む人が増えてくると思います。総選挙が近づき、各党を代表する人々がNHKで先ほど討論しましたが、「学問のすすめ」「読書のすすめ」を提言する人はひとりもいませんでした。
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 私の主張は、要求する前に、自らが働きなさい、学びなさいといいたいのです。今回の選挙も物言わぬ国民は冷静に見ていて判断するのだと思います。
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『大学味講』(第9回)
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 (三) われわれに与えられた「明徳」----これをわかりやすく「能力」という言葉でいいかえれば----それは「無尽蔵」というべきでありましょう。そのものの能力はこれしかない、という有限なものではなく、それを明らかにすれば無限なもので、その意味で「無尽蔵」と申してよいでありましょう。
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 これは、歴史に徴しても明らかなことで、例えば農業面における米作の収量においても、工業面における各種の発明発見においても、----その一例として、交通機関の上昇にみてもわかるように----それは無限であり、無尽であると申してよいでありましょう。

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 (四) 窓を一つ一つあけていけば、次第に室の中が明るくなって今までは見えなかったものまでが、次第に明らかに見えてくるように、自分のことも、相手のことも----人についても、物についても----、明らかにされてくるものでありまして、それが「発明」であり、「発見」であり、「証悟」---さとり---でありますが、これを「明徳を明らかにする」というのであります。
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 ニュートンが万有引力の法則を発見したのも、スチブンソンが蒸気機関を発明したのも、湯川博士が中間子理論を考え出したのも、さては孔子が儒教を、キリストがキリスト教を、体得し、弘布したのも、それは要するに「明徳を明らか」にしたものである、と申してよいでありましょう。

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 (五) かくて「明明徳」とは、「我づくり」「物づくり」の----これを別の言葉でいえば、「道徳」と「科学」との---その一切活動の根源となる「能力」を開発することである、と把握してよいと存じます。
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 では、明徳を明らかにするにはどうすればよいか。そして、それを実地に応用すればどうなるか。それを探究して行くのが、この「大学味講」なのであります。

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『論語』109回
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 子曰はく、臧文仲は蔡を居き、節に山し、梲に藻せり。如何ぞ其れ知ならん。
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 孔子が言うには、臧文仲は諸侯でなくては持てないト亀を所有している。宗廟の室の柱の上の枡形に山の模様を彫刻し、梁の上の小柱に藻文の模様を描くなど、天子の礼を犯している。かくの如き名文の札を知らぬ者を、どうして知者といえようや。
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『禅とは何か』より
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 学道の心構えは何か。『随聞記』はいう。
 道は無窮(むぐう)なり。悟りても猶行道すべし。(巻六)
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短歌の紹介
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最短の道は大抵わろきなり
 回り道でも最善なりき 7000 『自助論』133