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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

童牛の牿は、元吉なり。

2014-12-16 12:29:14 | ブログ
第2180 26.132.16(火)
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童牛の牿は、元吉なり。『易経』
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 子牛の角に横木をつける。それは吉事の基である。
 牛の角による被害を防ぐには、その角がまだやわらかいうちに、矯(た)めておく必要がある。
 悪癖は子どものうちに直しておかなければならないとのたとえ。

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【コメント】上の『易経』の言葉は大変大事なことであります。子どもは何も分からず、何でもやってしまいがちです。だから、幼い時、していいことと、してはならないことは教えなければならないのです。偏差値向上よりもそちらを優先すべきだと思います。
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 先般、通勤電車内で、33歳の男性会社員が女性のお尻に触ったということでした。運が悪かったのか、触られた女性が兵庫県警の21歳の女性警察官であり、チカンですね、と言って、触った手を握って上に上げたそうです。いわゆる現行犯逮捕をされたわけです。

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 また、26歳の学校の先生が、女生徒たちの着替えをするところをカメラに収め、インターネットに乗せたとのことです。そういうことをしたら、折角の人生が、全く駄目になってしまうのです。思うに、学校で道徳教育を徹底すべきだと思うのですが、私の考えはおかしいでしょうか。私は道場に御稽古にくる子どもたちが、人生をあやまらないよう厳しく指導しているのです。
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『大学味講』(第18回)
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 現に、私どもが、何事かに熱中して、その理想達成のために懸命の努力を続けている時には、意識するとせざるとは別として、必ずこの三綱領的状態になっていることは、誰でもが自覚するところでありましょう。
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 かくてこの三綱領は、私どもが真剣な精進の生活をしている時の、ありのままのすがたを、三つの部面から見たむもの----いうならば、一人の人のすがたを三面鏡に写した、三つの映像みたいなもの---であって、三にして一、一にして三なる、三位一体的のものであり、それは決して別々のものではなく、同時存在的のものであります。
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 後に出て来ますが、「身が修まる」「修まった身」という「修身」とは、われわれの心身が、この三綱領的状態にあるのをいうのでありまして、大学では、これが一切活動の「本」であるとするのでありますが、そのことは、「八条目」のところで詳しく講究することと致しましょう。
 
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『論語』(第118)
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 子曰はく、巳んぬるかな。吾未だ能く其の過ちを見て内に自ら訟むる者を見ず。
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 孔子が言うには、「駄目じゃのう。わしはまだ、自分で自分の過ちを発見して自分で自分を責める者を見たことがない。
. 選挙が終わり、負けた人々は、力が及ばなかったといっていますが、政策といろいろ進め方が稚拙だと私は思います。民主党の代表をレンホウ女史にすればよかったという議論もありますが、それでもダメなのです。
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『農士道』(第3回)
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 病気の手当はゆきとどいても、腎臓や胃腸の慢性病は増加する。體格肉附きは好くなっても神経はいたいたしくなり、風采態度は快活明朗でも、薄志弱行、事に堪へぬ者が多くなる。歴史は文明衰亡史であり、それは先ず都市に於て化膿する致命的膿物を発見するを常とする。文明都市は實は素朴健全な農村生命を栄養として発育し、誤って之を酸敗せしめるのである。農村を如何に健全にし、天眞を発揮せしめるかは、實に民族国家永遠の根本問題である。余は農村に三種の住人あるべきだと思う。
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 第一は、未だ都市文明に馴染まない純朴な山野の民である。
 第二は、都市文明の落伍者である。
 第三は、都市文明に馴染みきれぬ剛骨を持ち、人の世の煩はしさ厭はしさを出来るだけ避けて、叡智と純情とを守りつつ、自由を好み、最も深く山野を愛し、山野を知る人である。單に人といふより、かういう人をこそ士といふべきである。
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短歌の紹介
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         7009

志士は溝壑に在るを忘れず。

2014-12-15 10:24:30 | ブログ

第2179号 26.12.15(月)
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志士は溝壑(こうがく)に在るを忘れず。有士は其の元(こうべ)を喪うを忘れず。『孟子』
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 義を守る志士は、常に溝や谷に屍をさらすことになるかもしれないことを忘れず、また、有士はいつも自分の首が打ち落とされるかもしれないということを忘れない。すなわち、日常、その死を覚悟している。(孔子のことば)109
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 【コメント】今の日本は平和でありますが、そういう時こそ、上の『孟子』の言葉をかみしめて、日々を誠実に生きたいものです。私はそのようにしているし、空手道場の門下生たちにもそのように諭しています。
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 戦時ではない日々になぜか、という人がいるかもしれません。人の行いが悪ければ、天の制裁があるからです。あまりビクビクする必要はありませんが、人様と協調をはかりながら日々を過ごせればいいと思います。
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 総選挙が終わり新体制が発足しました。当選された方々は、選挙民に訴えたように、真面目に仕事に打ち込んで欲しいものです。
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『大学味講』(第17回)
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 (三) 三にして一、一にして三
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 この理想追求の情熱と前進があってこそ、「明徳を明らかにする」という対内的の「我づくり」の努力も、そして「民に親しむ」という対地的の「人づくり」「物づくり」の努力も、やむにやまれずして、自然に行われるのでありまして、この「止至善」は草木における生長点の活発な作用にもたとえられるもので、これこそが、一切を誘引する原動力なのであります。
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 こうしてみると、三綱領は一体不離のものであり、同時存在的のものであって、決して従来の多くの学者のいうような、まず第一に「明徳を明らか」にして、しかる後に第二段階として「民に親しみ」、そして第三段階として「至善に止まる」のである、というようなもではない、と実践上から私は把握するのであります。
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『論語』(第117)
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 顔淵季路侍す。子曰はく、「盍ぞ各爾の志を言はざる。」子路曰はく、「願はくは、車馬衣軽裘を、朋友と共にし、之を敝るも憾みなけん。」顔淵曰はく、「願はくは善に伐るなく、労を施いにするなけん。」子路曰はく、「願はくは子の志を聞かん。」子曰はく、「老者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少者は之を懐けん。」
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 【訳】顔淵と子路が孔子の左右に侍っていたとき、「どうだ、お前たちめいめいの志を言ってみないか」と言った。すると子路が直ちに「車でも、馬でも、上等の上衣でも、毛皮の外套でも、友人と融通しあって、それをぼろぼろになるまで使われても、惜しがらぬようになりたいと思います」と答えた。
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 顔淵は「善いことをしても自慢せず、苦労ないやなことは自らやって人におしつけないようにしたいと思います」と答えた。そこで子路が「ひとつ先生のお志を伺いたいものであります」と言ったので、孔子は「わしは天下の人々に各々その願うところを遂げさせてやりたいと思う。老人はこれを養うて安楽にし、朋友とは信をもって交わり、年少者は恩をもってこれを懐けるようにしたいと思う。」と言った。

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 若い時から艱難辛苦を嘗めてきた私は、門下生に人生に処する心構え・態度等々を教えたいと思っています。
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『農士道』(第2回)
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 達人は常に山水の間に高臥せんことを思ふ。如何なる人も世に住んで或る年頃になると、いつの間にか植木や盆石を愛するようになる。人間も花木や竹石を好くやうになると、最早年をとった證據であるといはれるが、穿った観察である。それは單なる老成ではない。餘り人間になるから自然に還りたくなるのである。生命の本然に還るところに眞がある。餘り人間に為ることは偽りである。文明には偽が多い。なるほど醫學衛生の進歩に依って子供の死亡率は減らう。平均に長生きも出来るであらう。然し、民族全體の人口増加率は減退し、清健な長壽者は少なくなる。
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短歌の紹介
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人の世は 和やかにして 努力せば 
 相手も協力 すべて万全 7008 向上心123  

明々たる上天。下土を照臨す。

2014-12-14 15:32:18 | ブログ
第2178号 26.12.14(日)
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明々たる上天。下土を照臨す。『詩経』
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 明らかなる天の神は、常に下界を照らし下界に臨んで、われわれを監視している。人は悪いことをすれば必ず罰せられ、善いことをすれば必ず認められる。179
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 【コメント】上の『詩経』の言葉は、本当だと思うようになりました。仮に本当でなくても、悪い行いをするよりか善い行いをした方がいいと思います。日々に私と付き合うのは、子どもたちですが、上の『詩経』にある言葉を念頭において、善い行いをしましょうと呼びかけています。とにかく人様と喧嘩をしないこと、罵倒しないこと、が大事だと思います。
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 至らない私ですが、『南洲翁遺訓』を毎日口づさみ、そして漢籍を繙くことによって、自らを叱咤しているのです。

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 私が知っている人に、会社でもどこでも喧嘩ばかりしている人がいました。相手が悪くて怒りたいという気持ちになることもあるでしょうが、そこをグッと我慢して、人には親切に対応したいものです。
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『大学味講』(第16回)
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 (二) 「止」は「歩む」ことである
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 「止」という字を、なぜ歩むと解するのか。ここでもまた、文字学的研究から入りたいと思います。
 「止」という字の古い形は「止」であり、これは足あとであります。ですから、この字の本来の意味は、「あしあと」なのであります。この字に更に「足」をつけて「趾」として、これを「あと」と訓んでおりますが----「城址」などと用いられるように---本来は「止」だけで「足あと」---「あと」なのであります。

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 一体、そこにあしあとがつくということは、一旦そこに止めた足を、更に前進させる時に起こる現象でありまして、止まりっきりに止まってしまったのでは、足あとがつくなどということはないでありましょう。
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 そこで面白いのは、この「止」を二つ重ねると「歩」という字になるのであります。止は左の足あとであります。これに止という右の足あとを重ねると歩となり、これが「歩」という字なのでありまして、つまり「歩む」ということは、左の足あとと右の足あとをつけて、交互に足あとをつけて、前進するすがたなのであります。さきに私が「止」をストップ(とどまる)よりも、ステップ(歩む)という意味に解したいといったのは、こういう文字学的の意義をふまえてのことであります。
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 英語で、よくステップ・バイ・ステップ(step by step)といいますが、「止至善」は、理想に向かって、ステップ・バイ・ステップすることでありまして、語を換えていえば「理想追究の前進」---「到彼岸の精進」---と申してよいでありましょう。
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『論語』(第116)
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 子曰はく、巧言令色恭は、左丘明之を恥づ。丘も亦之を恥づ。怨みを匿して其の人を友とするは、左丘明之を恥づ。丘も亦之を恥づ。
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 孔子が言うには、口先だけがうまくて、顔色をやわらげ愛想笑いをし、度にすぎた鄭重さということは、うわべだけを飾って人に接することで、わが先輩の左丘明はこれを恥じたというが、自分も亦これを恥ずかしいと思う。心の底に怨みを抱きながら表面だけ友達づきあいをするのは、左丘明は恥じたというが、私も亦恥ずかしい。
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菅原兵治著『農士道』(第1回)
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      序 
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 枝葉は木の繁茂であると共に、又一面根幹から分れて先端化するほど枯れやすく、散りやすい。美しい花も亦さうである。絶えず根本の培養を怠らず、時には枝葉を刈り、花實をまびかぬと佳い木にならぬ。
 生物進化の跡を木に譬えるならば、人類の生活は正しくその繁茂であり、その文明は花とも實とも稱することが出来るであらう。然しながら人間が漸く自然を離れるに随って、生命の衰退を招き、文明の栄華の裡に滅亡の影の濃くなりゆくことを深省せねばならぬ。故に人間は本能的に自然を慕ふ。          安岡正篤識

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 十数年前に読んだ菅原兵治先生のご著書に吸い込まれています。今回からご紹介致します。大変、難解ですが。 
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短歌の紹介
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世の指導するは天分なくてよし
 目的只管目指す者なり 7007 自助論229
 

天に顕道あり。

2014-12-13 12:56:48 | ブログ
第2177号 26.1.13(土)
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天に顕道あり。『書経』
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 天にはごく明らかなる道がある。天道は決して誤りのあるものではない。(部王の誓言)209
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【コメント】「人」という文字は人が支え合っている文字であります。だから、自分の主張があっても、世の人々を無視したやり方は好ましいものではないと思います。
 論理矛盾したやり方をおし通した場合、自分の思いとは真逆な天の裁きがあるでしょう。

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『大学味講』(第15回)
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    第三節  止至善(至善に止まる)
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 佐藤一斎が言志録に「学は立志より要なるはなし」と説いているが、人生はまさにこの通りで、一切の活動は、志(理想)に向かって進められるものであります。それはあたかも運動会の時に、選手がゴールを目がけてまっしぐらに走り続けるようなものでありまして、この理想に向かって努力精進することを、大学では、「止至善」----というのであります。
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 (一) 「止至善に止まる」とは何か
 まず「止至善」----即ち「至善に止まる」----とはどんなことか、ということから申しましょう。「至善」とは、「至高の善」「最善の善」でありますから、まあ「理想」と考えてよいでありましょう。

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 次に「止まる」とは何か。これについてはいささか詳しく説明しておきたいと存じます。「止まる」というとちょっと考えると、英語のストップ(STOP)と思うでありましょうが、そうではありません。私はこの「止」という字を、むしろステップ(STEP)---即ち---「歩む」---と把握しているのであります。
 ですから「至善に止まる」とは、「至善に向かって歩むこと---理想に向かって、一歩また一歩、確実に歩み続ける---」こととなるのであります。
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『論語』(第115)
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 子曰はく、孰れか微生高を直と謂ふ。或人醯(す)を乞ふ。諸を其の鄰に乞うて之に与ふ。
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 誰が微生高を直だと謂うのか。ある人が醋を貰いに来た時、己の家に無かったので、ひそかに隣の家から貰って来て、己の家の物のような顔をして、その人に与えた。これは人の美を奪い己の恩を売るのであって、直とは言われない。
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『禅とは何か』より
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 「無心」とは心をどこにもおかないということである。ぼんやりしているのではない。ところが私たちは毎日毎日心をどこかにおいている。金があっても行き詰まるし、金がなくても行き詰まる。勉強しても行き詰まる。ありとあらゆるものが気がかりになる。気がかりになることをやめようというのが無心である。これは難しい。朝から晩まで気掛かりにならないことはないわけである。気掛かりになっていて、気掛かりにならないようしなければならないのだ。(これはブログ480号にも書きました。)禅45
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短歌の紹介
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剣交え 敵に勝とうと 思うなら
 心どこにも おかぬことなり 7006 禅46
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 昨日は超キリキリマイでしした。昨日のブログ未完成分を14日、午前11時5分に書き終わりました。


天道は親なく、常に善人に与す。

2014-12-12 12:03:50 | ブログ
第2176号 26.12.12(金)
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天道は親なく、常に善人に与す。『文章規範』
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 天道は、決して特殊の人だけを親しみ愛するというかたよったものではない。善人でさえあれば、常にその人と親しむものである。(司馬遷「伯夷伝」)520
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 【コメント】昨日は鹿児島市議会を傍聴するため、ブログは途中で休み、今先(12月12日、午前11時半)書き終わりました。鹿児島市議会で『南洲翁遺訓』改竄事件に関する質問がなされたからです。
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 質問事項は、お聞きした範囲では、私どもが疑義を感じていたことを明快に質問してくださいました。答弁した鹿児島市当局もマアマアの解答でした。質問事項は下記のとおりです。
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 1.西郷南洲顕彰館(顕彰館)の運営と「南洲翁遺訓」(遺訓)について
  (1)顕彰館設立の目的と経緯
  (2)顕彰館の運営について
   ①運営の方針
   ②運営状況は適切か、または管理の指導等
  (3)西郷南洲顕彰会(顕彰会)の概要と運営状況
  (4)「徳の交わり」、そして本市と旧庄内藩(山形県鶴岡市)との交流の歴史と現状、そして今後について
   ①「徳の交わり」とは
   ②鹿児島市と旧庄内藩との交流の歴史と現状認識、そして発展についての見解
  (5)「南洲翁遺訓」について
   ①「南洲翁遺訓」の成り立ち
   ②「南洲翁遺訓」の意義
   ③庄内の人々にとってどのような意味を持つか
  (6)「南洲翁遺訓」に手を加える鹿児島サイドの試み
  (7)荘内南洲会等からの抗議とそれへの対応に関する教育長見解
  (8)改めて、西郷南洲顕彰館の運営に懸念なきや
  (9)市長の見解を
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 (2) ② 運営状況は適切か、また管理の指導等については、「適切だ」との教育長答弁であったが、これは断じて適切ではありません。
 平成22年に発行された機関誌『敬天愛人』に「百年の成功急ぐべからず」新『南洲翁遺訓』を編纂 と題して掲載した論考については、掲載する以前に、西郷南洲顕彰会「評議員・理事・専門委員」には事前の説明はなかったのです。
 そして西郷隆盛の掛軸とされるものが本物かどうか、鑑定依頼があるのですが、それについ、鑑定料が入るため、複数人で鑑定することを評議員会(味園はじめ他の評議員出席)でも議決したのですが、昨年、単独で鑑定したものが荘内南洲会に持ち込まれたのであります。これらの収入は顕彰会収入しとしているのか否か、疑問なしとしないのです。
 それこそ数え上げれば枚挙に暇がありません。
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『大学味講』(第14回)
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 (七) 「親民」と「新民」
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 この「親民」を、朱子は「新民」の誤記であるとして、「民を新(あらた)にする」と読んでおるのであります。随って日本でも、徳川時代には朱子学を官学としたので、昌平黌を始め、各藩の藩校でも大概皆朱子定本を用いたので、現在でも朱子本が多いのであります。だから、今この講究で「親民」を取ったことについては、あるいは疑問をもたれる方もあるかも知れませんので、このことについて一応私の態度を明らかにしておきたいと思います。
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 私は「親民」も「新民」も結局は一に帰すると存じます。即ち、本当に民に親しんでおれば、その結果として、民はおのずから新になるものと思います。このことは、お互い自分の仕事の上の体験から、必ず納得出来ることでありましょう。大学の本文の治国の章に、
「国を治めるのは、あたかも赤子を保育するようなものである。誠からその方法を求めるならば、まだ口をきかない赤ん坊の泣き声を聞いたり、様子を見たりして、その要望するところの見当がつくもので、----中らずとも遠からずで----その子は育っていくものである。昔から、まず子を産んで、それを育ててみてから、お嫁にいく者はない」
とありますが、これは、国を治めるのに、本当に「民に親しむ」ならば、自然に「民が新になって」いくことを説いたものと見てよいでありましょう。

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『論語』(第114) 
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 子曰はく、伯夷叔斉は旧悪を念はず。怨み是を以て希なり。
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 孔子が言うには、伯夷と叔斉とは潔癖な性格で、不正不義をにくむことが甚しかったが、悪をにくんで人をにくまず、過ぎ去った人の旧悪をいつまでも根に持つような狭量ではなかつた。だから、人を怨んだり、また人から怨まれることが少なかった。
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『禅とは何か』
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 無念無想とは、『菜根譚』につぎの言葉がある。
 欲にしたがふもこれ苦、欲を絶つのもこれ苦なり。
 物欲にがんじがらめに縛られ、捕らわれるも苦しみであり、それでは物欲を断ち切れば、楽であるかといえば、物欲を断ち切るのもまた苦しみであるのだ。このうるさい世間の真っ只中で生きるのがわずらわしいといって、山林に住めば、静かであるかとそうではない。昔の歌に、
     波の音聞くがいやさに山住居
       こわいろかはる松風の音
 というのがあるそうだが、海辺にいると波の音がうるさい。それでは山に住めばよいかというとそうではない。松風の音がさわがしくてしかたがないのだ。どこまでいってもきりがない。人間所詮苦しみに縛られて生きねばならぬ。禅40
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短歌の紹介
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なきものを欲しがり立場考えず
 あれこれ欲しい不徳の根源 7005 向上125