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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

我が生を観て進退す。

2014-12-08 13:14:33 | ブログ
第2172号 26.12.08(月)
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我が生を観て進退す。『易経』
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 自分の生活、すなわち自分がいかなる地位にあるか、いかなる時、いかなる場所にいるかということを観察して、それに順応するように身を処する。
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 このことが可能な限り、人の道をはずれることはない。225
 
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【コメント】上の『易経』が教えるとおりだと思います。空手道暦65年、指導歴50年、その間いろいろの人から甘言を交えたお誘いがありました。
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 全日本空手道連盟公認6段に40年前合格した時、貴方は空手道界の第一人者です、吾々と一緒にやりましょうという誘いを数多く受けました。「機会がございましたら、どうかよろしくお願いします」と言って、私は一切動きませんでした。そういう言葉に乗って、利害を求めて動いたら、必ず悲劇が待っているのです。
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 特に私は『南洲翁遺訓』を通じての「人間学」を探究したいという気持ちがございますので、普通の人は『南洲翁遺訓』が難解ですからやらないのです。私の天職は『南洲翁遺訓』を子供たちに伝授することだと思っています。

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『大学味講』(第10回)
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   第二節 親 民(民に親しむ) 
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 大学の三綱領の第二は「民に親しむ」---「親民」---であります。
 (一) 「親民」とは何か
 そこで、まず「親民」とは何かということから申しましょう。一体「大学」は、政治の原理を説いたものでありますから、「親民」とは為政者が民に親しむことであります。一国の首相としては、国民に親しむ。一県の知事としては県民に親しむ。市町村の首長としては市町村民に親しむ。更にこれを拡大して解釈すれば、社長としては社員に親しむ。教師としては学生に親しむ、親としては子に親しむ、等々となるでありましょう。

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 (二) 「民」とは何か 
 
 しかし、「民」を単に人にだけ限定することは、いささか狭きに過ぎるではないかと思います。一体東洋の学問は、西洋のそれとは特色を異にするものがあり、いわゆる「科学」のように、政治は政治の部門、倫理は倫理の部門、物理は物理の部門、化学は化学の部門というように、その部門だけの知識を取扱って足れりとせずに、万事に通ずる普遍的原理----即ち「道」---に立っての学なのであります。ですから、大学は政治の書であるといっても、その中には、教育にも、産業にも、経済にも通ずる普遍的原理が蔵せられてあるのであります。
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 そこで、この「民」を「民とは我に対するもの」の意味に解した雉先の説などを参考として、人のみに限定せず、稲を作る農民は、稲がその「民」であり、器を作る工人は、器がその「民」であるとして、「民に親しむ」を、自分の仕事の対象となるものに親しむことである、というところまで拡大し、応用して、講究していきたいと存ずるものであります。
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『論語』第110
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 子張問うて曰はく、「令尹子文は三たび仕へて令尹となれども喜べる色なく、三たび之を已めらるれども慍れる色なし。旧令尹の政は必ず、以て新令尹に告げたり。何如。」子曰はく、「忠なり。」曰はく、「仁なるか。」曰はく、「未だ知らず、焉んぞ仁を得ん。」
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 「崔子、斉の君を弑す。陳文子は馬十乗あれども棄てて之を違る。他邦に至りて則ち曰はく、猶吾が大夫崔子のごときか」と。之を違る。一邦に之きて則ち又曰はく、「猶吾が大夫崔子のごときか」と。之を違る。何如。」子曰はく、「清なり。」曰はく、「仁なるか。」曰はく、「未だ知らず。焉んぞ仁を得ん。」

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  子張が「楚の子文は、三度令尹に任ぜられましたが喜ぶ様子もなく、三度免職されたが不平の色もなく、辞める時には新令尹に詳細の事務引継ぎをしました。其の行いはいかがですか。」とおたずねした。孔子が言うには、「忠実なことである。」「仁ではありませんか。」「さぁ、どうか知らんが、それだけでは仁とはいへまい。」
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「今一つ伺いますが、崔子が齊の荘公を弑したときに、陳文子は、馬の四十頭もあるような富を捨てて國を去りました。そして他の國へ行きましたが、「ここにもわが大夫崔子の如き悪人がいる」と言って、そこを去りました。又他の國へ行きましたが、そこでも「なお、わが大夫崔子と同じものがいる」と言って立ち去りました。これは如何ですか。」「清廉潔白なことである。」「仁ではありませんか。」「サア、どうか知らんが、それだけでは仁とはいえまい。」
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先に亡くなった円心会の高弟・岩坪清美範士は「見事なり、清なり」でした。
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『禅とは何か』より
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人間のすがたの修行は顔だけではない。身体、動作すべて修行によって勝れたすがたとなる。真箇の禅僧が長い年月修行していると、歩き方から普通の人と異なるようになるという。武道にしろ、剣道にしろ一芸に達した人のすがたはやはり普通と異なるものだ。人間のすがたにその人なりの威厳、力量が現われるものであることを『葉隠』は説く。
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   打ち見たる所に、その儘、その人々の長分の威が顕わるるものなり。引き嗜む所に威あり、調子静かなる所に威あ 
   り、詞寡き所に威あり、礼儀深き所に威あり、行儀重き所に威あり、奥歯噛して眼差尖なる所に威あり、これ皆、外に顕れたる所な

   り。

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 こうしてご紹介しながら、長年修行はしてきたつもりですが、未熟なる自分に煩悶しています。
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短歌の紹介
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行を積み 礼儀行儀に 威があるか
 年輪に添う 威ほしきもの 7001 禅とは150

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