味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

中和を致して天地位し、万物育す。

2016-11-13 10:11:45 | ブログ
第2875号 28.11.13(日)
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中和を致して天地位し、万物育す。『中庸』
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 中和の道を実現すれば、天地貴賎の位も正しくなり、万物はみな正常に発育を遂げるものである。
「中」は「ほどよいこと」、喜怒哀楽の情の中庸をえたものをいう。「和」は事を行っていくばあい、なごやかにやっていくこと。すなわち、「中」は体(原理)、「和」はその用(働き)である。154

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 【コメント】昨夜の空手道教室も賑わいました。私をいれて16人でした。来週は見学者が来るとのことでした。夕方4時に自宅を出発して宇都総一君を迎えに行きました。
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 老体の私の前蹴りは高く上がらなくなっていましたが、森永礼弥君に3本組手を教えだしたので、少しく若返ってきました。20年前、指宿の大師範、福岡の大師範と3本組手の稽古をしていた頃を思い出し稽古に励まなくてはならないと思うことでした。
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 上にご紹介した『中庸』も30年間読み続けています。漢籍は素晴らしいの一言です。

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『史記』のことばより。
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 富貴なれば士多く、貧賤なれば友寡きはことの固然なり。(孟嘗君列伝)
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 (出世すればまわりに人が集ってくるし、おちぶれれば友人も減るのは人情の自然である)
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 ここまで醒めた見方をして人間関係に処していれば、まちがいない。
 戦国時代、斉の宰相であった孟嘗君(もうしょうくん)は食客三千人を抱えるほど人材を大切にしたが、失脚したとたん、ほとんどが去っていった。が、馮驩(ふうかん)という食客の働きで宰相に返り咲くと、かれらはまた戻ってこようとした。孟嘗君が「どの面さげて」と怒ったところ、馮驩がこう言ってたしなめたのである。
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 私の道場でも同様のことがありますが、門弟には自由に出入りさせる度量があっていいのではないかと考えます。いろいろの所を視て、それぞれに成長していくからです。
 ただし、腰の据わらないのは、自ら墓穴を掘ることになります。それと一定の知的能力も欲しいものです。私がつきあった男に、空手はうまかったが、全く漫才みたいな人がいました。既になくなりましたがあの世で学問に精励していればと願うばかりです。

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『臥牛菅実秀』(第410回)
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    (四) 
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 時代は再び戻って、ドイツで兵学と法学を研鑚していた酒井忠篤、忠宝は、明治十二年にいよいよ日本に帰ることになった。忠篤は二十才から二十七才までの八年間、忠宝は十八才から二十四才までの七年間の貴重な青春時代をベルリンで送ったのである。
 忠篤の渡独当初、ベルリンには日本からの留学生が七十人ほど来ていたが、政治学や医学を目指す留学生がほとんどで、軍事学を勉強する留学生は珍らしい例であった。それは当時の日本陸軍がフランスの軍事学を主流としていたからであろう。
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 忠篤に随行した長沢顕郎の日記によると、ある日、桂太郎(日露戦争のときの首相)が忠篤の下宿を訪ねてきて『これまでベルリンへ参り侯書生は皆々医者とか政治学とか申して兵事に掛り侯人は一人も参らず、甚だ残念に思い居り侯ところ、よく御出掛けに相成りたり』と非常に喜んだ。そして戊辰戦争のときに桂太郎が清川口をはじめ秋田口で散々、荘内兵から苦しめられた懐い出話なども出たりして、二時間ほど話込んで帰っていったという。

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