平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2006年6月18日 間も大いに語る

2007年04月17日 15時20分03秒 | Weblog
    間も大いに語る

  人は、それぞれの間を持っている。ゆっくりした間の人もおれば、少しの間も我慢できない人もいる。おしゃべりということで言うと、のべつ幕なくしゃべっていないと安心できない人。逆に、何分でも黙っておられる人もいる。
 私は、どちらかというと間が長い方だろうか。もちろん、ときに饒舌になることもある。相手による場合も多い。夫婦の場合は、どちらかが多くを語り、片方は受けに回ることが多い。二人の時はそれでいいのだが、これに第3者が加わると、妙な現象が発生したりする。
 例えば、夫の間が待てなくて、一人でしゃべっていた妻が、二人になったときにこう言うのだ。どうして、あなたは何もしゃべらないの、と。夫には、夫の間があって、その間を妻が奪っているのだ、と夫は言うだろう。すると、妻は、「私は待っているが、あなたがしゃべらないからだ」、と切り返す。
 人は、時と場合によって、言葉を選ぶ。夫の間を妻は待てないし、夫も妻に合わせられない。聞き上手とか、話し上手というのは、話の内容もあろうが、相手の間に、うまく合わせてやることのできる人なのではないだろうか。
 イエス様が意識的に間をとられたことがある。姦淫の現場で捕らえられた女性を訴え出た人々に、罪のない者からこの女に石を投げよと言われて、自分は地面に何かを書いていた。そうしたら、年長者から始めて、一人また一人とその場を去っていったというのである。間も大いに語るのだ。


平良 師