晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠考(3) 7/28

2011-07-29 | 上林地名考

2011.7.28(木)曇

  寛政十一年丹波國大絵図では、街道は長野~弓削~大国峠~細谷となっている。志古田、鳥垣は街道から少しはずれ、上粟野も街道からずれている。大国峠は角川地名辞典、仏主峠(ほどすとうげ)の覧に、「江戸期園部藩の巡見道であったが、一般の往来は少なく、上粟野から大国峠を経て、上林谷への往来が多かったようである。(丹波地区民俗資料調査報告書)」とある。従って大国峠=大栗峠であり、もともと大栗峠であったものが訛って大国峠と書かれたものであろう。
 「北山の峠」の中で金久氏は
 「
この峠の峠道は上粟野からは尾根を上る一本道だが、峠から上林側へは尾根道と谷道の二つに分かれる。尾根道は弓削に至り、谷道は志古田に到る。だが京街道の本道は弓削に下る尾根道の方である。このことは村人も云うし、歩いてみれば道の風格で肯ける。云々」と書いている。京街道の本道が弓削道というのは丹波國大絵図でも示しているところだが、私は志古田道が本来の京街道だったのではと考えている。その理由は以下のとおりである。
 (1)峠の石碑に「右わち左志こた」とある。
 この石碑は随分立派なものだが、お地蔵さんの石室の後ろに倒れている。そのままその場所に立てると方向が逆になるか、石室の後ろ側が峠道となり、大変不自然な状態となる。乗越(のっこし)となっている部分はお地蔵さんの前であり、当然そこが大栗峠そのものなのだろうが、そうすると石碑は峠道の東側に、つまり石室と向かい合わせに峠道を挟んで存在しなければならない。そこだけが方向が一致するのだ。Img_3359
 
大きな石碑が石室の後ろに倒されている訳が判明。


 このことを考えついた後に再度「北山の峠」を読み返すと、金久氏も同じことを言っておられる。しかし氏は弓削道が本道とするあまりに、この転倒した石碑や石室の背後にある弓削に向かう道のことを不思議なこととして一頁近くをさいて書いておられる。私は今回の文章を書いている間に気づいたことなんだけど、本来の京街道は志古田道であって、なんらかの理由で弓削道にその座を譲ったということに気づいたのである。
 石碑は和知側から上がってきた人が志古田に降りないよう倒されたのだろう。そして石室の裏側の弓削に続く道は、同様に志古田に向かって降りないように作られた道であって、本来の峠には木で作られた案内板が掛けられていたのかも知れない。
 (2)奥上林村誌にある「左京道・右弓削」の石碑について
 奥上林村誌の3.徳川時代の奥上林、交通の項に次の記述がある。
 
道の別れた所には道案内の石碑を立てゝ旅人の便に供した。今も志古田の山中に「左京道・右弓削」と書いてある石碑が残り、大町の橋のたもとに君尾山への近道を教える石碑が残っているのはその名残である。Img_2697
 
君尾山への石碑
右君尾山 本堂三十丁の文字がある。
近道というより参道そのものではなかろうか。
 この石碑については「北山の峠」やその他の大栗峠に関する文にも出てくるが、いづれも未発見に終わっている。もっとも石碑の発見を目的として行かれているわけでないので無理もないが、本来街道を通行する人々に案内するためのものだから、年月は変わっても街道を歩けば見つかるはずのものである。それが見つからないのは、盗難にあった、道が変わった、自然災害で流出埋没したなどの理由が考えられる。特に村誌が発行されたのは昭和31年であるが、取材執筆されたのはそれ以前と考えられるので、28水(昭和28年台風13号による大水害)による紛失は充分に考えられる。この石碑の探索については是非やりたいと思っているので、それについては稿を改めるが、「左京道・右弓削」という石碑が志古田の山中にある限り、志古田道こそが京街道の本道であった証左である。つづく

【作業日誌 7/28】
庭木剪定の後片付け
玉切り、薪割り

今日のじょん:綾部では手に入らない貴重品のよしずをかみさんが福知山まで行って買ってきた。原始的とはいえ随分涼しくて、昔の人の知恵を偲ばせる。じょんはいつものようにぼ~っと外を見られず、部屋の内からあご乗せじょんをしている今日この頃である。Img_3378



 

コメント
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