◆嵯峨野
奈緒美は、夫の車に見知らぬ女が乗っているのを目撃してから、そのことが気になってしょうがない。気づかれないように陰から見ていたが、二人の表情や仕草から、はっきり分かる。あれは絶対に男と女の関係。女の勘というやつだ。どうしても気持ちを落ち着かせることができず、佐藤を誘った。これまでは必ず佐藤からだったが、今回は初めて自分の方から。
隣りにいる佐藤のことを忘れてぼんやりしていると、タクシーがゆっくり止まった。着いたのは、嵯峨野にある宝筐院(ほうきょういん)。平安時代に白河天皇の勅願寺として建立され、その後貞治五年(1367)、足利義詮が没した時に菩提寺に。名前は義詮の院号である宝筐院にちなんでいる。晩秋のこの時期でも、ここだけは紅葉が残っていると友人から聞いて、是非見たいと思っていた。
古風な門をくぐると、そこは別世界。自然に感嘆の声が出る。友人の言葉が納得できた。散りかけた紅葉やカエデと、散った落ち葉とのコントラストが見事。心のもやもやが、しばし遠のいて、季節を楽しむ素直な気持ちが溢れてきた。
「どうしたんですか、わざわざ呼び出して」「忙しかったでしょ、悪かったわ」「いや、まあちょっとは無理したけど、出張に合わせることができたんで、気にしなくていいですよ」「良かったわ、実はね、ちょっと相談したいことがあって・・・」、平日の夕方のせいか、見物客も少ない。まさに秋が終わって冬がはじまる、そういう雰囲気が二人を包んだ。
「あのね、こんなこと言いにくいんだけど、なんか夫がね、浮気しているみたいなの」「浮気?、画廊を経営しているっていう旦那さん?」「そう、この間ね、出張するっていって家を出たのに、京都の街中で偶然見かけたのよ。綺麗な女の人と一緒のところを」「でも、それだけで浮気してるって?」「女ってね、特に私はね、そう言う所が鋭いの、すぐに分かるのよ」「へえー、そうなんだ」
そう答えながら境内を歩いていると、向こうから中年の男と女の二人連れが歩いてきた。佐藤は別段何も感じなかったが、すれ違った後に奈緒美は立ち止まり、振り返りながら話しかけた。「あの二人ってカップルよ、間違いないわ」「ええっ、そうなの?」「ほら、今手をつないでいるでしょ?」「ほんどだ、さっきはちょっと離れて歩いていたのに」「ねっ、女の人の目つきが違うんだから、潤んでいて・・・」「なんか、細木数子みたいだなあ」
「それでね、頼みたいのは、二人の関係を確かめたいのよ」「今から後を追いかけるってこと?彼らの?」「違うわよ、あの二人じゃないの、夫とその女性」「ああそうか、そうだよな、何勘違いしてるんだろ」「ううん、いいの、それが佐藤さんだから」「でもどうするわけ?」「今度夫が出張するって言い出したら、佐藤さんに連絡するから、二人で夫の車の後をつけたいの」「ええっ、それって、なんか探偵みたいだね」「そうね、でも私もう、このままじっとしていられないから」
そういう奈緒美の話を聞いて、佐藤は自分の仕事の都合を心配している場合じゃないなと思った。「わかったよ、それじゃ連絡を待ってる」「助かるわ」「いや、奈緒美さんのためなら何でもするよ」「ありがとう・・・」、佐藤はまだ奈緒美と男と女の関係になっていないのに、それ以上の緊密な絆を感じた。
佐藤は教訓を学んだ。自分の大事な都合を犠牲にできなければ、浮気をする資格はない。
◆銀閣寺
ある平日の昼間、広之は美和子に誘われ”哲学の道”を歩いていた。亭主が神戸へ出張したと、美和子から連絡があったのが一昨日。亭主の片瀬には、それを事前に電話で連絡していた。
それにしても不思議なシチュエーション。友人の妻の誘惑を頼まれるなんて。しかもその妻が、魅力的な美人。アプローチが、あまりにも順調すぎて怖い。ホテルで一夜を共にしてからというもの、美和子は自分に対しビックリするぐらいオープンになっている。あくまで友人からの依頼に基づく演技、それをつかの間の遊びとして楽しめばいい、と割り切ってはいるが、片瀬にも美和子にも、なんとなく後ろめたい気持ちは湧いてきていた。
小川のせせらぎの音を聞きながら、小さな土産物屋が連なる細い道を歩いていくと、右手に広い参道が見えてきた。
「広之さん、良かったら最後に銀閣寺を見てから帰りませんか?」「ええ、いいですよ・・・」「なんかね、お天気もいいし、ぽわんとしたい気分になっちゃった」「ぽわんですか・・・」、南禅寺を始点とするならば、銀閣寺は哲学の道の終点。広い境内に入ると、飾り気のない素朴さが、落ち着いた風情を感じさせる。東山文化の、さりげない“わび・さび”の世界が漂っていた。
「私ね、金閣寺よりも銀閣寺の方が好きなの」「へえー、でもどうして?」「なんか、落ち着くでしょ、こっちの方が」「確かにそうかもしれない、女性の美しさが引き立つような気もするなあ」「うまいわね」「いや本当にそう思うから・・・」
そう笑って話しながら、広之が銀閣の由来にもなっている二層楼閣の観音殿を見上げた時に、曇った空がちょうど明るくなり始めていた。太陽の近くの雲が銀色に輝いている。銀閣寺で銀色の雲かあ、なんかつながってるなあと苦笑いしながら、有名なヴォーカルアルバム、「Chet Baker sings」の古いミュージカルナンバー、”Look for the silver lining”を思い出していた。
「ねえ、広之さん、今度良かったら温泉にでも行きませんか?」「へえー、美和子さんから誘ってくれるなんて、なんか嬉しいな」「別に特に行きたい所がある訳じゃないんだけど、1泊ぐらいでゆっくりしたいの」「いいですよ、ちょっと心当たりがあるから」「へえー、何処?」「山陰ですよ、日本海に面した温泉、鳥取県にある・・・」
広之は、数ヶ月前に書店で立ち読みした雑誌の特集記事を思い出していた。こんな所にカップルで来て、二人で貸切露天風呂なんかに入ったら、さぞかし楽しいだろうなあと、ちょっとした妄想をしたのを思い出す。それがどうだ、今まさに実現しようとしている。美和子と旅行、それも京都を離れて山陰へ。ちょっとした妄想というのは、ほとんど現実にちかい。
広之は教訓を学んだ。自分の些細な妄想を現実にできなければ、浮気をする資格はない。
Chet Baker Sings
奈緒美は、夫の車に見知らぬ女が乗っているのを目撃してから、そのことが気になってしょうがない。気づかれないように陰から見ていたが、二人の表情や仕草から、はっきり分かる。あれは絶対に男と女の関係。女の勘というやつだ。どうしても気持ちを落ち着かせることができず、佐藤を誘った。これまでは必ず佐藤からだったが、今回は初めて自分の方から。
隣りにいる佐藤のことを忘れてぼんやりしていると、タクシーがゆっくり止まった。着いたのは、嵯峨野にある宝筐院(ほうきょういん)。平安時代に白河天皇の勅願寺として建立され、その後貞治五年(1367)、足利義詮が没した時に菩提寺に。名前は義詮の院号である宝筐院にちなんでいる。晩秋のこの時期でも、ここだけは紅葉が残っていると友人から聞いて、是非見たいと思っていた。
古風な門をくぐると、そこは別世界。自然に感嘆の声が出る。友人の言葉が納得できた。散りかけた紅葉やカエデと、散った落ち葉とのコントラストが見事。心のもやもやが、しばし遠のいて、季節を楽しむ素直な気持ちが溢れてきた。
「どうしたんですか、わざわざ呼び出して」「忙しかったでしょ、悪かったわ」「いや、まあちょっとは無理したけど、出張に合わせることができたんで、気にしなくていいですよ」「良かったわ、実はね、ちょっと相談したいことがあって・・・」、平日の夕方のせいか、見物客も少ない。まさに秋が終わって冬がはじまる、そういう雰囲気が二人を包んだ。
「あのね、こんなこと言いにくいんだけど、なんか夫がね、浮気しているみたいなの」「浮気?、画廊を経営しているっていう旦那さん?」「そう、この間ね、出張するっていって家を出たのに、京都の街中で偶然見かけたのよ。綺麗な女の人と一緒のところを」「でも、それだけで浮気してるって?」「女ってね、特に私はね、そう言う所が鋭いの、すぐに分かるのよ」「へえー、そうなんだ」
そう答えながら境内を歩いていると、向こうから中年の男と女の二人連れが歩いてきた。佐藤は別段何も感じなかったが、すれ違った後に奈緒美は立ち止まり、振り返りながら話しかけた。「あの二人ってカップルよ、間違いないわ」「ええっ、そうなの?」「ほら、今手をつないでいるでしょ?」「ほんどだ、さっきはちょっと離れて歩いていたのに」「ねっ、女の人の目つきが違うんだから、潤んでいて・・・」「なんか、細木数子みたいだなあ」
「それでね、頼みたいのは、二人の関係を確かめたいのよ」「今から後を追いかけるってこと?彼らの?」「違うわよ、あの二人じゃないの、夫とその女性」「ああそうか、そうだよな、何勘違いしてるんだろ」「ううん、いいの、それが佐藤さんだから」「でもどうするわけ?」「今度夫が出張するって言い出したら、佐藤さんに連絡するから、二人で夫の車の後をつけたいの」「ええっ、それって、なんか探偵みたいだね」「そうね、でも私もう、このままじっとしていられないから」
そういう奈緒美の話を聞いて、佐藤は自分の仕事の都合を心配している場合じゃないなと思った。「わかったよ、それじゃ連絡を待ってる」「助かるわ」「いや、奈緒美さんのためなら何でもするよ」「ありがとう・・・」、佐藤はまだ奈緒美と男と女の関係になっていないのに、それ以上の緊密な絆を感じた。
佐藤は教訓を学んだ。自分の大事な都合を犠牲にできなければ、浮気をする資格はない。
◆銀閣寺
ある平日の昼間、広之は美和子に誘われ”哲学の道”を歩いていた。亭主が神戸へ出張したと、美和子から連絡があったのが一昨日。亭主の片瀬には、それを事前に電話で連絡していた。
それにしても不思議なシチュエーション。友人の妻の誘惑を頼まれるなんて。しかもその妻が、魅力的な美人。アプローチが、あまりにも順調すぎて怖い。ホテルで一夜を共にしてからというもの、美和子は自分に対しビックリするぐらいオープンになっている。あくまで友人からの依頼に基づく演技、それをつかの間の遊びとして楽しめばいい、と割り切ってはいるが、片瀬にも美和子にも、なんとなく後ろめたい気持ちは湧いてきていた。
小川のせせらぎの音を聞きながら、小さな土産物屋が連なる細い道を歩いていくと、右手に広い参道が見えてきた。
「広之さん、良かったら最後に銀閣寺を見てから帰りませんか?」「ええ、いいですよ・・・」「なんかね、お天気もいいし、ぽわんとしたい気分になっちゃった」「ぽわんですか・・・」、南禅寺を始点とするならば、銀閣寺は哲学の道の終点。広い境内に入ると、飾り気のない素朴さが、落ち着いた風情を感じさせる。東山文化の、さりげない“わび・さび”の世界が漂っていた。
「私ね、金閣寺よりも銀閣寺の方が好きなの」「へえー、でもどうして?」「なんか、落ち着くでしょ、こっちの方が」「確かにそうかもしれない、女性の美しさが引き立つような気もするなあ」「うまいわね」「いや本当にそう思うから・・・」
そう笑って話しながら、広之が銀閣の由来にもなっている二層楼閣の観音殿を見上げた時に、曇った空がちょうど明るくなり始めていた。太陽の近くの雲が銀色に輝いている。銀閣寺で銀色の雲かあ、なんかつながってるなあと苦笑いしながら、有名なヴォーカルアルバム、「Chet Baker sings」の古いミュージカルナンバー、”Look for the silver lining”を思い出していた。
「ねえ、広之さん、今度良かったら温泉にでも行きませんか?」「へえー、美和子さんから誘ってくれるなんて、なんか嬉しいな」「別に特に行きたい所がある訳じゃないんだけど、1泊ぐらいでゆっくりしたいの」「いいですよ、ちょっと心当たりがあるから」「へえー、何処?」「山陰ですよ、日本海に面した温泉、鳥取県にある・・・」
広之は、数ヶ月前に書店で立ち読みした雑誌の特集記事を思い出していた。こんな所にカップルで来て、二人で貸切露天風呂なんかに入ったら、さぞかし楽しいだろうなあと、ちょっとした妄想をしたのを思い出す。それがどうだ、今まさに実現しようとしている。美和子と旅行、それも京都を離れて山陰へ。ちょっとした妄想というのは、ほとんど現実にちかい。
広之は教訓を学んだ。自分の些細な妄想を現実にできなければ、浮気をする資格はない。
Chet Baker Sings
怖いわ~、流血するの?(ふふふ)
自分で相関図作って読んでます。楽しい~♪
ちょっと気が抜けた感じで、私も大好きです。(ぽわん笑)
でも、実は僕もそれがないと小説が書けないんですよ。
いつも首っ引き。関係がかなり入り組んでるから。
流血かあ、考えてなかったなあ、血が出るとコワイんですよ。
ホラーとか、戦争、ヤクザ物、だめだから。
チェット・ベイカーはアンニュイの代名詞かも。
昼下がりのカフェかなんかで流れると最高ですよね。
そんな雰囲気の中で、ぽわんとしてみたいなあ。(笑)