或る「享楽的日記」伝

ごく普通の中年サラリーマンが、起業に向けた資格受験や、音楽、絵画などの趣味の日々を淡々と綴ります。

フォーライフ(17)

2006-05-26 06:25:05 | 020 小説「フォーライフ」
◆黒田清輝
広之は、自分の画廊で1枚の油絵を見ながら、妻を誘惑してくれないかと頼んできた片瀬の顔を思い出していた。

実は二人は同じ大学の出身。片瀬は工学部で、広之が文学部。総合大学といっても、理系と文系の学生は、クラブでも一緒でない限り知り合いになる機会は少ない。出会ったのは、教養部1年の時。十数年前に大学設置基準の大綱化に伴い、教養部が廃止されたため、今では幻の学部。教養部の2年間は、理系の人間が文系の講義を受けに来ることも珍しくなかった。

当時片瀬は深層心理に興味を持っていて、文系を対象に設定された講義を受けにきた。そのうちグループ討議をすることになり、4人ずつに分けられて。顔を見たのはその時が初めて。いかにも理系で頭の固そうな雰囲気。広之が所属する軽音楽部のバンドでドラムを叩いていた同級生がいたので、たまたま同じグループに。

こんないきさつだから、半期の授業が終わればグループも解散、メンバーともそれっきりというのが普通だが、このグループは今でも続いている。それはマージャン仲間になったから。授業が終われば必ず雀荘に行ってマージャンをした。負けるのは、いつも決まって片瀬。テンパると、顔の表情に露骨に出るし、手が小刻みに震えだす。実に分かりやすかった。

卒業しても、年に1、2回は集まっている。ただしつきあいはマージャンだけ。勤務先ぐらいは知っていたが、年賀状を出す訳でもなく、それだけのつきあいと言っても過言ではなかった。そんなある日、片瀬から電話が。話を聞いてビックリした。最初は神戸の女と別れたほうがいいと忠告したが、結局しぶしぶ引き受けた。今は舞い上がっているので、一度痛い目に会った方が後々いいかもしれない、いざとなれば自分が出て行って収拾すればいい、そんな考えもあった。

それで驚いたのは、美和子が美人だったこと。華道教室が終わった後、ビルから出てくるのを待ち伏せ、和服姿の彼女を初めて見た時に、ちょっと複雑な気持ちに。学生の頃からそうだったが、女を外見で選り好みするタイプ。冴えない相手だと、どうしても手抜きで雑になる。その点は問題ないと安心したが、逆にこっちがのめり込みはしないか、それが心配になった。

それと、もっと驚いたのは、彼女が最近手に入れた油彩画「婦人肖像」の女性によく似ていたこと。黒田清輝の作品で、有名な「湖畔」と同じ照子夫人がモデル。100年も時代が違うんだぞと自分に納得させるのに少々時間がかかった。

◆ABC理論
芦屋で植田と会った数日後、久しぶりに夫婦がそろった休日の朝。マンションの台所で、貴美子は朝食を作っていた。天気が良くて爽やかな朝なのに、どうもあの夜のことが頭から離れない。

「おい、何かボーッとしてないか?」「ううん、別に。そろそろできるわよ、ダーリンの好きなホットケーキ。きょうは蜂蜜たっぷりにしてあるからね」「お前に朝飯作ってもらうなんて、いつ以来かなあ、久しぶりだよな」「そうかな、けっこう作ってあげてる気がするけど・・・」、と朝刊を読みながら話かけてきた亭主に、強気で笑顔を返した。

「この記事、面白いよ、心理学についてのコラムなんだけど」「どういうの?」「いやね、なんか目からうろこっていうか、いろんな物の考え方があるんだなってね」「もったいぶらないで教えてよ」。亭主は記事の内容をかいつまんで説明してくれた。「簡単に言えば、“人は、物事によって悩まされるのではなく、物事をどう捉えるかによって悩むものだ”、なんてところかな」

内容はアルバート・エリスが唱えるABC理論を引用したものだった。出来事(A)を、自分のビリーフ(B)というフィルターを通して受けとめた結果、自分特有の感情や行動パターン(C)が起きる。
A=Affairs(Activating Event)=出来事、
B=Belief(ビリーフ)=思い込み、信じ込み
C=Consequence=結果、結果として起きる感情や行動

貴美子はその話を聞いて考えた。A=この前の芦屋での夜、植田のBMWに乗っている時、亭主に似た男を道で見かけた。B=あれは亭主に違いないと思い込んでいる。C=バレたらやばい、もしそうなったらどうやってごまかそうかと心配している。

しかしその時、亭主も同じようなことを考えいているとは夢にも思わなかった。A=出張先で、パンフレットを持ってきていないことに気づき、急拠芦屋の本社に戻った時、事務所の側で女房に似た女がBMWに乗っているのを見かけた。B=あれは女房に違いないと思い込んでいる。C=もし女房だったらどうしよう、もしそうだったらどうすればいいのかと心配している。

「なんか、よくあるよな、思い込みって人間って心配症だから」「かもね、ちょっと気持ちを切り替えれば、心配しなくて済むのにね」「そうそう、もっと気楽に生きなきゃ、それが人生をうまくやる鍵かもな」「そう、その方がハッピーだし、あはは」、そんなアバウトな話をしながら、二人はくすくす笑い始めた。久しぶりに話が噛み合っている。今日はいい日だとお互いが思った。

コンポーネントステレオからは、スティービー・ワンダーの名盤「Key of life」が流れていた。

Songs in the Key of LifeSongs in the Key of Life

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2 コメント

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朝食ホットケーキがの甘い香りに誘われて。(意味不明。笑) (ワルツ)
2006-05-27 01:06:09
ハンコックさん、こんばんは。

だんだん人間関係とかいろんな事が明らかになってきて、読ませてもらっていてとても面白いです。楽しませてもらってます。(感謝)

それにしても、自分の妻を浮気するように友人に頼むなんて、その気持ちが分からないわ・・。それで、浮気して帰ってきた妻に対して嫌じゃないのかなぁ。

などと、真面目に感想を書いてみたりして。(笑)



この黒田清輝の女性、照子夫人なのですね。「湖畔」のイメージとは全然違いますね。憂いを帯びた瞳に情念のようなものを感じます。後ろの褐色のせいでしょうか。彼女の着物のくすんだ紫色と褐色がとよく合ってますね。

ハンコックさんの小説は、登場してくるものがすごく美しくてとても勉強になります。

一つ先なんですが、18の最後の写真、「トルコ式サウナ」ですか?

不思議な感じで、どうなってるのか興味深いです。
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そうですね。 (ハンコック)
2006-05-27 07:16:20
だんだんといろんな事が分かってきますよ。

なんて言っても、そのいろんなことをこれから考えなきゃね。(笑)



いや、そういう気持ちが分からないのは素晴らしいなあ。

ってことは浮気しないってことだと思います。はい。

もうこのぐらいの年になると、男対女というより人間対人間。

まあ男と女の違いってところもあるとは思うんだけど。



いいでしょう。この絵。確かに「湖畔」と同一人物とは思えませんね。

彼はいろいろ夫人を描いてますが、どれもけっこう違うんです。



トルコ式サウナは海外で経験があります。

壁も床も大理石でできていて40度ぐらいになってます。

普通のサウナより、部屋の中にいるのが楽なんです。

一応断っておくと、中央の台はプレイ用じゃありません。(笑)



ネットで捜したら三宮から徒歩3分の所にあったので、片瀬に入ってもらいました。(笑)

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