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田村史郎「岩村通俊之像」旭川の野外彫刻(47)

2021年09月29日 08時56分21秒 | 街角と道端のアート
(承前)

 常盤公園の最後に紹介するのは、人物彫刻です。

 岩村通俊は、北海道大百科事典に次のように書かれています。

 1840(天保11)~1915年(大正4) 開拓判官、初代北海道庁長官。土佐藩(現高知県)宿毛すく も 出身。戊辰 ぼ しんの役に奥羽に転戦、1869年(明治2)東久世長官の下に開拓判官となり、函館を担当、ガルトネル事件などを処理した。また場所請負人を廃止し、各地に海官所を設けた。


 長くなるので、事典の記述から以下、箇条書きで続けます。

・島義勇の後を受け札幌本府を経営。札幌周辺に村落を配する

・札幌の円山にいまの北海道神宮を建立

・開拓次官黒田清隆と意見が対立し、一時東京に戻る

・西南の役で鹿児島県令となり、難局にあたり、会計検査院長、司法大輔に進む

・上川地方を視察し、改革意見を提出

・1886年(明治19年)北海道庁が置かれると長官に就任。赤れんが庁舎を建築

・囚徒を使い上川道路を開く

・88年、元老院議官に転出、後に農商務大臣に就任。

 旭川を北の都にしようとさまざまな政策を行い、旭川開拓の基礎を築いた人物です。


 「旭川彫刻たんさくマップ」によると、この彫刻は3代目。
 初代は戦争中に金属供出され、2代目は戦後にコンクリート製で作られましたが風化して傷んでしまい、1991年にブロンズで制作されたものです。
 高さは150センチ。

 3代目の作者、田村史郎は1947年、岩手県生まれ。
 東京造形大学造形学部美術学科に第1期生として入学。佐藤忠良や岩野勇三らに指導を受ける傍ら、舟越保武のアトリエにも通っています。
 その後は母校で長く教壇に立ちました。


 初代は1938年(昭和13年)11月12日に除幕式。
 作者は本山白雲。
 碑文に
「昭和十一年、昭和天皇の行幸を記念し」
とありますが、なぜ行幸の記念が岩村の銅像につながるのか、これを読んだだけではわかりません。

 昭和18年7月10日に金属供出。

 本山白雲は1871年(明治4年)生まれ、1952年歿。
 高知県の海岸に立つ坂本龍馬像で知られる彫刻家です。
 生まれは宿毛で、東京美術学校(戦後の東京藝大)に進むにあたり、岩村通俊の援助を得たということですから、作者としてはまさに適役でしょう。
 美術学校は彫刻家の第1期生で、上野の西郷隆盛像の木型作りなどにも携わっているそうです。

 2代目は昭和26年(1951)10月5日除幕式。  
 本山白雲の原型から、高橋北修と板東陶光が制作したとあります。

 北修は道展と全道展の創立会員の画家だし、坂東はその号のとおり陶芸家です。
 旭川には彫刻家はいなかったんでしょうか。

 3代目は田村の前に
「監修 佐藤忠良」
と明記されています。 

 進歩派陣営だった佐藤忠良があまり手がけたがらない人物なような気もしますが、なぜ白雲の原型を再利用しなかったのは不思議です。



 銅像の左側に歌碑も建っています。

 世の中に涼しきものは上川の
 雪の上に照る夏の夜の月 通俊

 いくら旭川の気候が冷涼とはいえ、夏に雪はありません。
 大雪山系あたりで詠んだのかな?


 さて、公園から、隣接する図書館へと歩みを進めます。



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田村史郎「大きなズボン」 苫小牧の野外彫刻(8)



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