
(承前)

山口牧生は1983年、第14回中原悌二郎賞を受賞しました。
旭川叢書の『あさひかわと彫刻』によると、受賞作の「15度」は、第8回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に出品され、受賞したときにはすでに作家の手元にはなく、かわりに設置したのがこの作品です。
同書に作者の言葉が引用されています。
高さ3.5メートルもあり、黒御影石の棒状です。
徳島県立近代美術館のサイトによると、山口牧生は1927年(昭和12年)、広島県生まれ。2001年歿。
京都大文学部哲学科美学美術史専攻を卒業し、1952年から58年頃まで大阪市立美術研究所で彫刻を学ぶ、とのことです。

先に述べた大成浩「風の塔 №8」との位置関係は、この写真を見ると分かります。
近づいて見ると、表面は平滑ではなく、自然な波のような凹凸模様が、いくつも並行してならんでいます。
なんだか、ムハンラビ法典を刻んだ古代の石碑のようにも見えてきます。
傾いているので、当然のことながら、見る角度によって印象が刻々と変わるのが興味深いです。

山口牧生は1968年、小林睦一郎、増田正和とグループ「環境造形Q」を結成しました。
「環境造形Q」は88年に解散しましたが、その少し前の86年、札幌芸術の森野外美術館に「北斗まんだら」を設置しているので、ピンとくる人もいるでしょう。
設置当時は、アカエゾマツの苗木の間に、おびただしい石が規則正しく並んでいる作品でしたが、その後すっかりアカエゾマツが生長して、石の姿は、外側からはほとんど見えなくなっています。
長い時間の経過による変化も、この作品の大事な要因なのでしょう。
前項の「風の塔」と、この「傾くかたち'84」は、石という素材も手伝い、非常に長い時間と対峙しているような、はるかなたたずまいを漂わせています。

山口牧生は1983年、第14回中原悌二郎賞を受賞しました。
旭川叢書の『あさひかわと彫刻』によると、受賞作の「15度」は、第8回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に出品され、受賞したときにはすでに作家の手元にはなく、かわりに設置したのがこの作品です。
同書に作者の言葉が引用されています。
少年時代、五寸釘を大地になげうって突きさす遊びをしました。突きささらず倒れてしまうこともあり、うまく突きささることもあります。うまく突きささった五寸釘は、大地に直立するというよりは、おおむねある角度で傾いて立った記憶があります。いま旭川の地に、その傾いて立った五寸釘のような細長い石を立てます。神々が大地になげうった五寸釘――天の逆鉾・くさび形の原点――と見て頂けるならうれしいのです。
高さ3.5メートルもあり、黒御影石の棒状です。
徳島県立近代美術館のサイトによると、山口牧生は1927年(昭和12年)、広島県生まれ。2001年歿。
京都大文学部哲学科美学美術史専攻を卒業し、1952年から58年頃まで大阪市立美術研究所で彫刻を学ぶ、とのことです。

先に述べた大成浩「風の塔 №8」との位置関係は、この写真を見ると分かります。
近づいて見ると、表面は平滑ではなく、自然な波のような凹凸模様が、いくつも並行してならんでいます。
なんだか、ムハンラビ法典を刻んだ古代の石碑のようにも見えてきます。
傾いているので、当然のことながら、見る角度によって印象が刻々と変わるのが興味深いです。

山口牧生は1968年、小林睦一郎、増田正和とグループ「環境造形Q」を結成しました。
「環境造形Q」は88年に解散しましたが、その少し前の86年、札幌芸術の森野外美術館に「北斗まんだら」を設置しているので、ピンとくる人もいるでしょう。
設置当時は、アカエゾマツの苗木の間に、おびただしい石が規則正しく並んでいる作品でしたが、その後すっかりアカエゾマツが生長して、石の姿は、外側からはほとんど見えなくなっています。
長い時間の経過による変化も、この作品の大事な要因なのでしょう。
前項の「風の塔」と、この「傾くかたち'84」は、石という素材も手伝い、非常に長い時間と対峙しているような、はるかなたたずまいを漂わせています。
(この項続く)