ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「日韓併合」は1910年

2010年08月10日 | 感じたこと
 中学時代の社会科の歴史で「1910年に日韓併合」と習ったので、年号だけは覚えていたが、それ以来100年が経ったというので、民主党の菅直人首相が首相談話という形で、この歴史的事実に関して、「植民地支配について、痛切な反省と心からのおわびの気持ち」という形で、95年の村山富市首相談話以来の明確な姿勢を示した。

 この「日韓併合」という歴史的事実は、1910年8月22日に告示された「韓国併合に関する条約」に基づき、大日本帝国が大韓帝国を併合したというもので、「朝鮮合併」、「日韓合邦」などと表記される場合もあるが、韓国では当然「韓日併合」、中国では「日韓併合」と称されている。

 この「日韓併合」により、大韓帝国は消滅し、大日本帝国はその領土であった朝鮮半島を領有し、1945年の第二次世界大戦終戦に伴い、日本の実効支配が喪失し、1945年9月2日のポツダム宣言の受託によって「降伏文書」が調印され、正式に日本帝国による朝鮮支配が終了したのである。

 この歴史的事実の背景には、日清戦争、日露戦争があり、当時朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮が鎖国状態にあったために、中国、ロシア、そして日本などが開国を要求し、西欧列強と共に、朝鮮に圧力をかけていたのであった。

 朝鮮半島をはさんで日本と清国の関係が緊張する中で、李氏朝鮮内部の内乱の鎮圧を名目に朝鮮半島に出兵したが、農民勢力と政府が既に和解したため、清国の圧力排除の好機として、陸奥宗光など、日本帝国政府は李氏朝鮮に駐兵を続け、1894年に日清戦争が勃発し、勝利した大日本帝国が清国との下関条約を締結し、日本が朝鮮での独占的利権を得て、清国の影響力を排除した。

 その後の日露戦争を勝利した日本が、桂太郎首相と小村寿太郎外相の下、「韓国を併合するより外に他策なかるべき」と当初反対だった伊藤博文公を説得し、「韓国併合」の大綱を是認させたのだが、伊藤博文は後に暗殺された。

 近くて遠い国のひとつにさせてしまった歴史上の事実が、今もなお日本と韓国、また北朝鮮の人々の間の「蟠り」や「偏見」「差別」「批判」になどに繋がっているのだが、よくよく考えれば、日本にとっても朝鮮半島にとっても、長年の人々の行き来を中心として、「文化」「芸術」「物資」「言葉」「食べ物」「習慣」など多岐にわたっての交流や影響をお互いの歴史で交わってきたのである。

 この20世紀前半の約半世紀の間の「ワダカマリ」が今もなお、両国の間に暗い影や重たい気持ちを抱かせていることは事実なので、菅直人首相を中心とする現政府の「談話発表」を契機に、少しつづでも新しい「未来志向」の日韓関係を築いて行くことが出来ることを期待し祈りたいと思う。

 

 

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする