ここ数年、マスコミが作り出した言葉に、「勝ち組」「負け組」がある。
女性、男性いずれにせよ、適齢期と言われる年齢に「結婚」にゴールインすると「勝ち組」で、30歳を過ぎても「結婚できない」と、「負け組」だそうである。
また「一流企業」に就職できれば、「勝ち組」で、中小企業への就職やアルバイト、パート、ニートは、完全な「負け組」らしい。
「結婚」や「就職」だけでなく、日本社会にあって、素晴らしい出世と言われる「芸能人」「医者」「政治家」「弁護士」「国家公務員」「大学の教員」などと共に、小さくても「社長」となったり、ベンチャービジネスでも儲ければ「勝ち組」となるのである。
いずれも、「勝ち組」と呼ばれる根拠は怪しいものだが、たいていは「金銭的安定」もしくは「儲けた方」なのである。
つまり、資本主義社会にあっては、経済的に豊かになったものが「勝ち組」であり、低収入や日々の生活に余裕がない場合は「負け組」と称されてしのまうのである。
しかし、本当に「勝ち組」、「負け組」など存在しないのである。
マスコミの報道や取材を中心に、「セレブ」や「金持ち」の特集が続くので、庶民はいつのまにか「負け組」のような気になってしまっているだけなのである。
あるNPO法人のリーダーの話が興味深かった。
かつては「登校拒否」とか「不登校」と呼ばれた、現在の公教育の上での「学校」になじめなかった青年たちが集う、フリースクール的な「居場所」を運営していた社会的にも著名な方の講演での話であった。
フリースクール的な居場所の運営のために、「ラーメン店」を経営して、そこに集う青年たちが時間を決めて互いに協力し合って、店の運営がなされていた。
しかし、ある青年はいつも決まった時間に遅刻してきて、彼はその度に叱っていたそうである。
「働かざるみ者は食うべからず」と幼い時から言われていた、この法人の代表は、いつも決められた時間にも遅刻してくる青年にも、そう言っていたそうである。
ある時、ラーメン店の営業時間をが終わって自宅への帰途についた時に、いつも遅刻の常習犯であった青年の下宿の下を通ると、二階の彼の部屋から楽しそうな笑い声が聞こえてきたというのである。
何がそんなに楽しいのかと、二階の彼の部屋に立ち寄ってみると、いつもの仲間たちが、彼の小さな部屋に集まって笑い声が耐えない「鍋を囲んで」楽しんでいたそうである。
彼はやっと気づいたそうで、「働かずとも人を和ます」ことの出来る彼の人間的魅力、すなわち彼自身の役割は、決して経済的な意味での「金儲け」ではない隠れた「才能」を生かしての、仲間たちの憩いの場作りであった。
経済的な金持ちが決して「勝ち組」でなんかなく、低収入の庶民も決して「負け組」なんかじゃないのだ。
自分らしく、自分の役割を誠実に果たして、助け合い楽しく暮らせる人間が「まともな人間」としての普通の生き方なのである。
女性、男性いずれにせよ、適齢期と言われる年齢に「結婚」にゴールインすると「勝ち組」で、30歳を過ぎても「結婚できない」と、「負け組」だそうである。
また「一流企業」に就職できれば、「勝ち組」で、中小企業への就職やアルバイト、パート、ニートは、完全な「負け組」らしい。
「結婚」や「就職」だけでなく、日本社会にあって、素晴らしい出世と言われる「芸能人」「医者」「政治家」「弁護士」「国家公務員」「大学の教員」などと共に、小さくても「社長」となったり、ベンチャービジネスでも儲ければ「勝ち組」となるのである。
いずれも、「勝ち組」と呼ばれる根拠は怪しいものだが、たいていは「金銭的安定」もしくは「儲けた方」なのである。
つまり、資本主義社会にあっては、経済的に豊かになったものが「勝ち組」であり、低収入や日々の生活に余裕がない場合は「負け組」と称されてしのまうのである。
しかし、本当に「勝ち組」、「負け組」など存在しないのである。
マスコミの報道や取材を中心に、「セレブ」や「金持ち」の特集が続くので、庶民はいつのまにか「負け組」のような気になってしまっているだけなのである。
あるNPO法人のリーダーの話が興味深かった。
かつては「登校拒否」とか「不登校」と呼ばれた、現在の公教育の上での「学校」になじめなかった青年たちが集う、フリースクール的な「居場所」を運営していた社会的にも著名な方の講演での話であった。
フリースクール的な居場所の運営のために、「ラーメン店」を経営して、そこに集う青年たちが時間を決めて互いに協力し合って、店の運営がなされていた。
しかし、ある青年はいつも決まった時間に遅刻してきて、彼はその度に叱っていたそうである。
「働かざるみ者は食うべからず」と幼い時から言われていた、この法人の代表は、いつも決められた時間にも遅刻してくる青年にも、そう言っていたそうである。
ある時、ラーメン店の営業時間をが終わって自宅への帰途についた時に、いつも遅刻の常習犯であった青年の下宿の下を通ると、二階の彼の部屋から楽しそうな笑い声が聞こえてきたというのである。
何がそんなに楽しいのかと、二階の彼の部屋に立ち寄ってみると、いつもの仲間たちが、彼の小さな部屋に集まって笑い声が耐えない「鍋を囲んで」楽しんでいたそうである。
彼はやっと気づいたそうで、「働かずとも人を和ます」ことの出来る彼の人間的魅力、すなわち彼自身の役割は、決して経済的な意味での「金儲け」ではない隠れた「才能」を生かしての、仲間たちの憩いの場作りであった。
経済的な金持ちが決して「勝ち組」でなんかなく、低収入の庶民も決して「負け組」なんかじゃないのだ。
自分らしく、自分の役割を誠実に果たして、助け合い楽しく暮らせる人間が「まともな人間」としての普通の生き方なのである。
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