ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

沖縄復帰40年

2012年05月15日 | ちょっと可笑しいよ
 沖縄県が1972年に本土復帰をして以来40年を迎えて今夕、政府と沖縄県の共催で宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで記念式典を開催し、野田佳彦首相と仲井真知事が式辞を述べるらしいが、さて何を語るのだろうか。

 沖縄返還を実現した功績でなんとノーベル平和賞なるものを間違って授与されてしまった当時の首相であった佐藤栄作氏は今はなく、当時の返還交渉に絡む事実は「思いやり予算」と称される多額の米軍への税金投入をはじめとして米軍の沖縄への軍事基地を常駐化したし、その弊害とも言える米軍関係者による犯罪や事故、そして沖縄本島の約2割近くを占める基地関連施設による土地の強制収用が今も続いている。

 その代表的な基地として嘉手納基地と普天間基地が本土に住む我々日本人にも馴染み深い基地名だと思われるが、その普天間基地のすぐそばの宜野湾市の海岸に近い施設で今夕の記念式典が開催されるというのは、何とも皮肉と言った方が良い問題提起そのものではないだろうか。

 自民党政権時代に日米合意されたといわれる普天間基地の名護市辺野古への移転問題は、その後の民主党政権の鳩山、菅両首相のその都度の思いつき的発言もあって、右往左往して結局結論は常に先送りという、日本政府の常套手段とも言うべき迷走ふりを示していて、アメリカ政府も半ば諦め気味の昨今だと報じられている。

 ともかく、日本全土にある米軍基地の73パーセント強の施設と収容された土地が沖縄県にある現実は、ほとんど大きくは変化していなくて、米軍のアジア太平洋地域における要の基地としての存在は、戦後67年も経った今も変らないという、独立国としては何とも恥ずかしいと言っても過言ではない状態の継続が余儀なくされているのである。

 1947年の8月に敗戦を宣言する日本だったが、その年の4月に米軍が沖縄の読谷村海岸に上陸するや三ヶ月に及ぶ悲惨な沖縄本島での地上戦が展開されて、兵士以外の沖縄に住む住人の10万人近くを含む20数万人の人間が、この地沖縄で戦病死したことは間違いのない事実であり、その爪あとは沖縄の人々の心に深く今も残っているのである。

 いくら10兆円を超えるという沖縄の振興費が戦後投入されて、見た目には沖縄県の社会資本やインフラは整備されたとしても、日本政府に対する不信感は、当時の日本軍が現地の住民に与えた屈辱的な銃と火炎放射などの攻撃を伴う逃避行で、米軍よりも怖い日本兵とも言われた状況もあったらしく、その深い心の傷も簡単には癒えてはいないはずである。

 沖縄に住む沖縄人というアイデンティティを持つ人々にとっては、本土に住む普通の人々との交流はとても盛んになってはいるが、政府関係者や特に政治家に対する不信感や一定の距離を抱いた関係は、まだまだ当分は続くだろう。

 今回の40周年も沖縄県民にとってのお祭りムードはたぶん少なく、野田首相も含め多くの政治家が沖縄入りを繰り返しても、底辺に流れる日本政府への不信感は簡単には拭い去ることが出来ないほど、戦中、戦後も含む、沖縄差別とも言える感情は、よほどの政策転換、つまり米軍基地の返還、撤去への道筋が見得ない限り変って行く術はないのかもしれない。

 40年前の今日、私の親友が結婚式を挙げ、私もその年の6月に結婚したので、私たちの世代にとっても結婚40周年という節目の年となるので、幸い健康には恵まれて40年を暮らして来れたことを妻に感謝しつつ、長男が縁あって沖縄の女性と結婚し現在那覇で生活しているので、久しぶりに来週にも沖縄への旅をしようと計画している。

 自分たちの沖縄との心の絆を確かめながら、何ができるのかを考えて、愛する沖縄の人と自然を満喫してこようと心ときめく今日の節目なのだが、しっかりとした政府の沖縄差別の現実からの脱却の施策に期待する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする