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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

五線譜がわからない!!!

2006年03月05日 | ファミリーイベント
同志社女子大学音楽学科オペラクラスの卒業公演「フィガロの結婚」を、京田辺キャンパスにある新島記念講堂に、内モンゴルからのかわいい留学生、ナランゴリと一緒に鑑賞に行きました。

 毎年、卒業年度の学生が出演するのだが、衣装、舞台、装置、道具、照明などと歌の伴奏のオーケストラ、その他を合わせた総合芸術としてのオペラとして、多くの音楽科の学生らと卒業生、大阪音大の有志やプロの声楽家たちの協力も得て、公演がなされているのである。

 昨年は、フィガロの結婚に出演していた女子学生の一人が、その後の痛ましいJR福知山線の電車脱線転覆事故で亡くなったこともあって、今年で19回目の公演は例年と違う思いも感じられた。

 この「フィガロの結婚」はモーツァルトの作曲であり、今年は生誕250周年ということもあり、いっそう出演者や関係者に強い思いがあったのではないかと、観客席からも感じていたのである。

 伯爵をはじめ、フィガロ、バルトロ、アントニオなどの男性役は、大学の先生や声楽家たちが演じているのだが、女性役の伯爵夫人、スザンナ、ケルビーノたちは、女子学生たちが何人かで一役を演じているのである。

 四幕に及ぶ長時間の舞台は登場人物の複雑な関係性とストーリーの難解さもあって、まだ日本に来て一年しかたっていない留学生には、日本語の歌の歌詞もわかりにくく理解できず上演途中も、つまらなそうな表情になることがあった。

 舞台鑑賞を終えてから、友人と一緒にお茶をしてから、ナランゴリと我が家に戻り、前から頼まれていた「五線譜学習」を、家人がピアノで彼女にイロハから教えることとなった。

 中国内モンゴル出身のナランゴリは、あの馬頭琴も演奏するし歌も歌うし、モンゴルやウイグルの民族舞踏もする音楽好きなのだが、中国の故郷での学生時代や舞踏芸術団で習ったり使用した楽譜は、五線譜ではなく数字を書いた独特の特殊な譜面だったそうであり、西洋式の五線譜音階がよく読めないのだそうだ。

 そこでピアノを使って、初めてト音記号や音符の長さや音階などを、実際に音を出しながら学ぶ機会となったのである。

 白い鍵と黒い鍵の位置を確認しながら、ハ長調のドを確認してドレミファを順に弾き、音と共に音符で表記しながら♯や♭や休符も学んだ。

 日本の子ども達は誰もが小学校の音楽の授業で教えられ、五線譜の音符は読めるはずなのだが、意外や中国での音楽教育は少し前までは、まだ五線譜を使っていなかったのである。

 彼女は日本で日本語を学び、来年には日本の大学で教育を受けて、いずれは故郷に帰って、日本語や音楽を教えたいとの夢を持っているので、現代音楽の表記方法である五線譜を学ぶことは必要なのであった。

 「フィガロの結婚」の日本語によるオペラは、まだ難解だったようだが、まず五線譜と音楽記号や呼称をピアノで学ぶことから、より音楽の幅が彼女の脳裏と心に広がっていくことだろうと、私は楽しみに見守っていくつもりである。

 ひょっとしたら、「フィガロの結婚」以上に、彼女にとっては、初めての五線譜の音階も難しいのかもしれない。
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オペラ「こうもり」を鑑賞。

2006年02月12日 | ファミリーイベント
 ヨハンシュトラウス作曲の喜歌劇「こうもり」を、地元のNPO法人舞台芸術トレーニングセンターが、昨日と今日の二回、京都府精華町のけいはんなプラザメインホールを舞台に上演された。

 舞台芸術トレーニングセンターは、数年前に発足したアマチュアの人たちによる、舞台芸術に関する人材育成、舞台芸術作品の企画と上演、舞台芸術に関する団体への協力や情報提供を主な事業として行う非営利法人で、2001年12月にも「ヘンゼルとグレーテル」の公演を行っている。

 今回は我が家人も「こうもり合唱団」の一員にオーデションで選ばれて、昨年夏から半年間、多忙な練習を重ねてきたので、今日の午後の公演には、一家総出で応援のつもりで鑑賞に出向いたのである。

 「こうもり」は全三幕構成の日本語上演で、脚色に「耐震設計偽装」や「堀江社長逮捕」などのトピカルな話題やギャグも交えた演出で、主なキャストは音楽大学の声楽科を卒業したプロが演じているが、日本では「オペラ」そのものを観る機会も少なく、なかなか手づくりの作品の上演には骨が折れただろうと推察できた。

 オペラオーケストラの指揮は牧村邦彦氏、舞台演出は平岡秀幸氏が担当されて、長丁場の練習の指導もされてきたわけだが、昨年11月にがんで亡くなられた俳優、演出家の芦田鉄雄さんが裏方として、制作アドバイザーに就任され、昨年7月の一般オーディションには、入院先の許可を得て、審査に立ち会われていたそうで、彼への追悼の意をもこめた上演となったようである。

 日本人には、まだまだ馴染みの薄いと言うべきか、なかなか実際にはオペラを観る機会の少ない人が多いと思われるので、身近で鑑賞できる機会を作ろうと、舞台芸術と音楽の大好きな愛好家達が、手作りで作り上げた喜歌劇「こうもり」を三時間余堪能することが出来た。

 ラウンジでは休憩の時間に、ワインやハーブティーと薬膳ケーキが用意されていて、日頃の多用な日常的生活空間では味わえない「舞台芸術鑑賞」のひと時を家族で愉しむことが出来たのである。

 舞台の進行は、主人公アイゼンシュタインの我が家、舞踏会場、監獄の三幕で構成されており、華麗な舞踏会は参集したみんなが好き勝手にするというルールであり、登場する紳士、淑女たちに纏わる「こうもりの復讐劇」が仕掛けられていたのである。

 プロ、セミプロ、アマチュアが入り乱れての舞台なのだが、全ての出演者がいかにも楽しそうに演じ、自信を持って歌っていた様子を観ていると、ついつい「舞台の喜歌劇に引きづり込まれた自分に気づかぬぐらいの感動を覚えた」と言いたいところだが、やはり家人が舞台に立っていたために、そうもいかず、どうも不安をぬぐいきれずに観ていた自分に苦笑いしてしまった。

 とにかく、ヨハンシュトラウス作曲の洋物歌劇を日本的にアレンジし、日本語による脚色、演出されたご苦労と共に、皆様の練習と努力の成果を愉しませていただいたことを感謝する次第である。
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留学生とのクリスマス

2005年12月24日 | ファミリーイベント
 皆さんクリスマスイブの今夜は、どの様にお過ごしでしたか。今テレビでは、オードリーヘップバーンの名作「ローマの休日」が上映されていて、モノクロだけれど、とってもロマンチックな映画である。

 一昨日の夜、このロマンチックを体感するような「クリスマスディナー」を、内モンゴルからの留学生の兄妹と共に豪華に?食したのである。

 この兄と妹の留学生にとって兄妹で日本で迎える初めてのクリスマスなので、ちょっと雰囲気のあるレストランで夕食を共にしょうと思ったのだが、日本語を学び出して八ヶ月の彼女にとっては、「ロマンチックなところでクリスマスを!!」との希望もあったので、ドライブしてレストランへと向かったのである。

 ちょうど女性のピアニストがクリスマスソングをメドレーで奏でており、案内されたテーブルはレストラン中央のクリスマスツリーのまん前だったのである。

 そりレストランでは、各々が好みの特別ディナーを注文したのだが、焼きたてのパンをその度にテーブルまで持って来てくれるので、ついつい美味しそうなので、ひとつひとつは小さなパンだが、気づけば一人十個以上も食べていたのである。

 前菜のオードブル、サラダ、スープと順々にテーブルにお料理が運ばれてくるのだが、メインデッシュが来るまでに、おなかは一杯になってしまった様であった。

 みんなお酒は苦手なので、ジュースや紅茶でパンをたくさん食べて、ローストチキンや、シチュー、カツレツ、ハンバーグなどがキレイに盛り付けられて運ばれた時は、お互いの顔を見合わせて、苦笑いしながら頑張ってお互いのメインデッシュを少しつづ分け合って、味見をしながら無理やりおなかに運んだのである。

 それからレストランを後にしたのだが、中国内モンゴルから始めて日本にやってきて、京都で八ヶ月を過ごした彼女は、実は今朝関西空港から、郷里の内モンゴルへと里帰りの旅に飛び立ったのであるが、その夜は「とっても楽しい」を連発しながら、「今のレストランは高かった」「今度はもっと安いお店にいきましょう」と日本では決して高級でもない、ふつうのファミリーでも行くレストランだったのだが、ご満悦であった。

 その夜は、近くのカラオケ店に二次会として向かって、中国では誰もが知っている日本の曲である「四季の歌」や「北国の春」だけでなく、テレサテンの「時の過ぎ行くままに」も歌って、中国語の流行歌も数曲歌ったのである。

 兄は「河島英伍」が大好きで、日本滞在も五年目になるので、日本語で「酒と涙と男と女」「天秤ばかり」などを熱唱していた。

 私たちは、日中、日蒙の友好交流を、お互いの歌を通じて、賛美しあって喜びながら、楽しいクリスマスの夜を過ごしたのである。


 

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今年の三作目はポッター。

2005年12月19日 | ファミリーイベント
今年は映画を観る機会が何故か少なく、今日三度目の映画鑑賞となった。その映画タイトルは「ハリーポッターと炎のゴブレット」であった。

 家人によれば正月早々の一月に、トムハンクスの「ターミナル」を観て以来、ご無沙汰で、戦後60年の平和記念事業の映画としての宮沢りえ、原田芳雄の「父と暮らせば」を市民会館で観たが、映画館では今年二度目であったという。

 映画はとっても好きなのだがなかなか映画館で鑑賞する時間がなく、ビデオやDVDでの自宅鑑賞も、あまり集中して観れないので、結局、今年は少なくなってしまったのである。

 衛星放送の「寅さんシリーズ」は、時折夜間に帰宅してテレビをつけた時に気づいて少しだけ後半部を観たことが数度あったとは思うのだが、しっかり一本の映画をちゃんと観る機会は少なかった。

 あと今年も二週間を切ってしまったが、今日観た「ハリーポッター」をきっかけに、あと二本は観たいと思っており、「Allways三丁目の夕日」と「Mr.&Mrs.スミス」がその候補である。

 「ハリーポッターと炎のゴブレット」は、J.k.ローリングの世界的ベストセラー作品の映画化で全世界的に話題になっているが、初登場の作品から四作目ということもあって、主人公のポッターのラドクリフをはじめ、ウイズリー、ハーマイオニー役の二人も少年から青年へと成長してきており、何だか子どもらしさから大人へと変身する過程を辿っていて、少し違和感を感じるのである。

 ストーリー的にも少し設定がややこしくなってきていて、私など単純に映像とストーリーを愉しみたい者にとっては、やや難解というか、わかり難い場面が多いのである。

 家人が必ず鑑賞直前に購入する「映画パンフ」を帰宅後観て、写真と解説を見直して「そうかなるほど」と少しは理解度が向上する程度である。

 今回の作品の映像は、前作と違って一番困難だったと解説本にも書いてあったが、ハリーポッターの在籍する「ホグワーツ魔法魔術学校」と「ボーバトン魔法アカデミー」「ダームストラング学院」と三大魔法学校の白熱の対抗試合と悲喜こもごものクリスマス舞踏会を展開するのである。

 この三大魔法学校の対抗戦の映像のスケールは、さすがCGを駆使し他映画の醍醐味だったが、いろんな魔法を掛けられた人物や動物たちが出て、しかも水中と墓場の「おどおどしい映像」は好きではなく、早くすっきりしたエンディング、すなわちポッターの元気で明るい笑顔で終わることだけを待望していた。

 このハリーポッターシリーズだけではないが「ハッピーエンド」と「勧善懲悪」が映画の王道であり、どんなとんでもない展開が途中にあっても、結局観終わった後に、すっきりした満足感といい気分、すなわち「夢の世界」を擬似体験させられて『愉しかった』となるのが映画鑑賞の素晴らしさのはずなのである。

 今回の『ハリー』も、結論は勧善懲悪のハッピーエンドなのだったが、途中の映像には夢見が悪いというか、思い出したくもない何場面か含まれていたので、今晩の夢に現れないことを祈りつつ、かわいいハーマイオニーを演じたエマ・ワトソンと私の知る少年U.T.君に良く似たポッター役のダニエル・ラドクリフ君だけを思い出しながら眠りにつきたいと思うのである。
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クリスマスがやってくる。

2005年12月10日 | ファミリーイベント
 クリスマスが近づいてきた。言うまでもなくX'masは、イエスキリストの生誕を記念する日であるはずである。しかし日本では全くと言っていいほど、クリスマスはキリスト教とは殆ど縁のない季節イベントとなっている様である。

 今日、12月10日は、実は阪神タイガースの創立記念日であり、我が息子の誕生日でもある、私にとっては大変記憶に深い日なのである。

 昨日の八百屋の夜の部で出会ったお客さんの若い夫婦は、幼い男の子がまだ四歳のご両親であり、私がその男の子に「もうすぐサンタさんが来るクリスマスやね」と話したら、つかさず傍にいたパパが「うちは仏教徒やから」と冗談だが、子どものクリスマスへの夢にちょっかいを入れていた。

 私の息子がたぶん小学生の五年生か六年生のクリスマスが近づいたある日の思い出が蘇ってきた。

 それまで幼かった息子は、クリスマスイブの夜、サンタがやってきて枕元にクリスマスプレゼントが置かれているのを、朝目覚めて見つけていたのであるが、小学高学年になった彼は、一考を講じてサンタに手紙を書いたのである。

 ある夜遅く仕事を終えて帰宅すると、茶の間のテレビの上に、息子が出した「サンタへの手紙」があったのである。

 その手紙を家人に教えられて読んでみると「サンタさんに僕はプレゼントにファミコンがほしい。もしサンタがお父さんでなければ叶えてもらえる」と記されていて、彼のお年玉にもらった一万円が同封されていたのである。

 私は、しばらく考えたが、ファミコンを息子のために買うことはしたくなかったので、私は彼のためにたぶん別のクリスマスプレゼントを用意したように記憶しているのである。

 彼にとっては、「やっぱりか」と思う、サンタは実在しなくて、お父さんだったのだと認識するに至った年齢となったのである。

 その息子も大きくなって、今は沖縄で温かいクリスマスを彼女と共に送ろうとしているので、もう相当昔のお話となってしまったのである。

 ともかく「クリスマスが近づいた」から、皆さん年齢相当の愉しいクリスマスを愛する人やご家族で迎えてもらいたいと祈っている。たとえ、イエスキリストを思わなくても、大きな神様は許してくださるのではないかと思うものである。

 ちょっと早やめのMerry X'mass!!
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中村ブンって知ってる?

2005年12月07日 | ファミリーイベント
以前のブログでも「かあさんの下駄」というタイトルで、シンガーソングライター中村ブンを紹介したことがあるが、今、ほんとに久しぶりに彼の歌声をCDで聞きながら、このブログの原稿を書き出したのである

 約30年前にシンガー中村プンと出会い、彼のマネージメントを80年の春までしていた関係で多くの思い出が蘇ってきたのである。

 彼の代表曲は私にとっては「かあさんの下駄」なのだが、中村ブンを知る人たちにとっては個人の感性や曲との出逢いの違いによって、「たわし先生」「夕焼け空が逃げてくぞ」「雷おやじ」など様々だと思いますが、彼を愛するファンがたくさんいるはずである。

 彼とはワーナーパイオニアからのLPレコード発売時の前後から、全国と言っても限られた地方だったと思うが、ドサ周りと言った感じのコンサートツアーを何度かした記憶があるし、二度か三度リサイタル的コンサートを主催した記憶があるのである。

 その中で彼の『冬』というタイトルの曲をシングルとして発売した後に、東京のとある会場でコンサートをした時、わが息子がまだ三歳ぐらいだったと思うが、会場でブンちゃんの歌声に体を揺らせて一緒に「ふゆ、ふゆ、ふゆ・・・」と歌っていたことを思い出す。

 彼の作詞作曲の歌の数々は、ちょっぴりセンチで、ちょっぴり郷愁を誘うようなテーマが多くて、その時々の人生の途上で同じような経験やしんどさ、辛さを感じたことのある人にとっては、全く自分の歌として共感を覚えるような世界が多いのである。

 実は彼は元役者?であり、昔は柔道一直線や宇津井健主役のテレビドラマにも脇役ながら存在感のある役柄で出演していたこともあり、現在も役者魂を持ちつつ、歌やエッセイにも心をこめて地味だが仕事をし続けているのである。

 ぜひ機会があれば、上記のタイトル曲や『自転車にのって』をきいてほしいものである。

 『自転車にのって』 中村ブン作詞、作曲

 自転車にのってゴロちゃんが走る
 サチオくんも走る コージくんも走る マリッペも走る みんな走る
 チリンチリンと ベルをならしながら ぼくに手をふりにがら 
 ぼくも大人になったら 一番先に自転車を買おう 自転車を買いたいよ

 背番号のついた そろいのユニホームで みんながよびにきて
 「野球をしよう・・・」 ぼくもやりたいけど トレパンしかないから   
 広場の草むらに ねころんで ぼくはひとりで シラヶてる
 ぼくも大人になったら 一番先にユニホームを買おう ユニホームを買いたいよ

 夕焼けの町で かくれんぼをしてると だれかがよびにきて 
 サチオくんがかえ マリッぺもかえる カラスもかえる
 材木のかげに かくれて ぼくはひとりでかくれんぼ
 ぼくも大人になったら 一番先にかあさんを買おう かあさんを買いたいよ

 ぼくも大人になったら 一番先にかあさんを買おう かあさんを買いたいよ
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いい夫婦ってどんなん?

2005年11月22日 | ファミリーイベント
 今日は11月22日。この日を「いい夫婦の日」として提唱している団体がある。

 最初は1988年に財団法人余暇開発センターが、夫婦のライフスタイルを提唱した際に、あわせて『いい夫婦の日』を制定したのだそうである。

 現在は、『いい夫婦の日』をすすめる会と言う団体があって、ホームページを持ち、シンボルデザインとふたりの感謝祭2005と入った意匠登録されたイラストがあり、うつみみどり、愛川欣也夫妻が今年のベストカップルらしい。

 何故か、「いい夫婦の日」をすすめる会の名誉会長は、桂文珍氏になっており、にこやかな笑顔の師匠の写真入挨拶は掲載されているが、肝心の「いい夫婦」をイメージするための桂文珍の奥様の顔は載っていませんでした。

 ゆとりのある生活や生きていくことの意味を、夫婦と言う単位から見つめようと「いい夫婦の日」が制定されたらしいのだが、ふたりがお互いを尊重し感謝しあう、365日分の一日であり、それは新しい夫婦の記念日なのだ。とあります。

 私も、その日の月日に意味や記念すべきことを重ねて楽しく暮らすことには異議がなく、「11月22日」の1122の数字を「いい夫婦」と読んでしまうことは分かりますが、何故、この日でなくてはいけないのか、つまり今日なのかは『遊び心』以外では理解できません。

 ところで私たち夫婦も33年余の結婚歴を経験してきましたが、「いい夫婦」かどうか定かではありません。

 今晩も所用で四時頃から市内に外出していて九時前に帰宅したのですが、夕食を食べるか否かを伝えていないことで、帰宅後に叱られてしまいました。

 こんなことは年に数度しかないのですが、家内にとっては「とんでもない」誠意のない行動の様で、そのたびに叱られてしのまうのです。

 私にとっては外出する時は早く帰るつもりでも、その時の仕事や人に会う都合で、予定通り行かない場合もあり時には帰宅が予定より遅くなったり、知人、友人と食事を共にすることになってしまうこともあるものなのです。

 しかし家人にとっては、朝のうちから夕食がいるのか、いらないのかはっきり告げておいてほしい。との要望なのです。

 年に数回しかなくても、彼女にとっては大変な苛立ちと、どっちかわからない待ち時間の経過がたまらないのでしょう。全ての予定が未定とは言いませんが、あくまで予定は、予定通り行かない場合もあるものと言っても理解されないのです。

 例えば、こうしたささやかな行き違いも、夫婦間のちいさな感情のズレや、葛藤となる場合もあって、なかなかいつでも「いい関係」の「いい夫婦に」はなれないものなのです。

 人間の感情のズレや、ちょっとしたボタンの掛け違い等は、どんなに長く連れ添った夫婦でもないとは言えないでしょう。

 私たちも、そうした長い年月を、ちょっとしたボタンの掛け違いや感情のズレを『お互いへの信頼と思いやり』で乗り越えて、少しでも「いい夫婦」だと自他共に認め合える関係性へ、より成長し努力したいと思う「いい夫婦の日」でした。

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おとうさん、親父、チチ。

2005年10月05日 | ファミリーイベント
 

 おとうちゃん、父、親父。自分の父親が亡くなって、もう36年になる。

 幼児の頃から中学生の頃までは「おとうちゃん」と呼んでいた。中学を卒業する15歳の頃からは「おやじ」と呼ぶように自然になっていた。あらたまった時とかには「父」と呼称していた。

我が娘は何故か、ある時期から、私自身のことを「チチ」と呼ぶようになって、チチの父、すなわち娘の「おじいちゃん」は、こういう人やったと伝えなければならない時期になっている様に思う。

 明治生まれの私の父は、大阪で育ち、大高、三高の出身で、大阪市役所に勤め、戦時中は海軍技術職として徴用され、主に土木関係の道路や橋の設計、建設に従事していたらしい。

 岡山出身の母と結婚して後、戦後の新制大学に招ねかれて、工学部土木工学、橋梁研究室の教授として20年間をおくり、工学博士として研究と教育に専念していた。

 子煩悩な父で、少しのお酒をたしなみ手頃な山歩きが好きだった。

 ちょうど私が大学生になった頃、親父は70年日米安保の自動延長と言う政治的課題と大学の自治、学園闘争の渦中の時期に、気軽に受けた手術のために69年2月に急逝してしまったのである。

 私の20歳の時の出来事であった。

 贅沢は出来なくとも何不自由のない普通の楽しい家庭生活が、正月明けの「ちょっと念のため胃のポリープ除去手術をしてくる」と言って入院した父だったのだが、手術はうまく終わったはずなのに、術後の腸の癒着のため再度手術となり、再々度別なところの癒着が起こり、三度目の手術後帰らぬ人となってしまったのである。

 私は、その当時大学の寮生活をしており、入院中の父を幾度と見舞いながらも、父の死が、このような形で訪れることになろうとは全く予期していなかったのである。

 しかし、三度目の手術承諾書は、もう母は書けないと言い、家族の一員として「助かるためには医師に委ねるしかない」との思いで、私自身が家族を代表してサインした記憶があり、最期の時が近づいた父のベッドの横でのひとつの光景を、今でもくっきりと覚えている。

 2月の病室で、母が入れてくれた暖かいお茶を呑もうとした時である。小さな湯呑み茶碗のお茶に、一本の茶柱が立っていたのである。

 若い20歳の息子の僕の心に、「茶柱が立ったら、願い事をすればいい」と言う、言い伝えがよぎったのである。暫く見つめながら私は何と「父は亡くなるであろう。この死を自らの試練として乗り越えたら、少しは大きな人間になれるかも知れない」なんて気持ちがよぎったのである。

 「父が良くなって、再び元気になれます様に」と祈ったわけではなかったのである。

 亡くなった父と、ゆっくり交わした会話、若い息子とのひとつの議論を覚えている。

 「お父さんが造る橋は、人が人と出会ったり、物資をトラックに積んで行き来して、人の生活が豊かで平和になるためのもの」であるはずである。なのに「戦いで傷ついたり、肉親の死や悲しみに涙する人々が行き来する」ための橋であってはならないと。

 父は黙って息子の意見に耳を傾けて、返事はせずに僕の目の前から姿を隠したのである。

 今も、その父の姿と何も言わなかった気持ちと、無言の言葉を心の中で反芻することがあるから不思議である。

 チチと私を呼ぶ我が娘にも息子が出来て早や4年。義理の息子にあたる婿は偶然土木工事をする会社員であった。孫が自分の父のことを「おとうさん」と呼び、父の仕事を理解出来る様になった時に、自分の祖父、つまり私の父である、ヒイジイサンの人となりをも伝えることが出来るのではないかと思っている。

 お父さん~親父~父と、呼び方は変っても、父は偉大であり大きな存在であってほしい。
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お盆の墓参り

2005年08月14日 | ファミリーイベント

 先祖代々と父親と兄が眠る、我が家の墓所に、年に何回お参りするだろうかと考えれば、私の21歳の時に父親を亡くしているので、それまではあまり積極的ではない「墓参り」だったが、父親や家族と共に年に一度は行っていた。

 自分が結婚し所帯を持ってからは、若い頃東京に8年間生活していたので、この間は夏休みに帰る時と、年末暮れに帰郷した時の2回だった様に思う。

 近年は母親が高齢化し、実家でずっと一人住まいなので、自分ひとりで墓参りには行かないので、私が春と秋のお彼岸の前後と、夏のお盆前と年末の一年の締めくくりと、都合がつきさえすれば、年に4回も「墓参り」をすることになっているのである。

 今回の「墓参り」も、母と共に都合のつく姉妹に呼びかけて、本日11時に「お墓」に集合と携帯メールでお知らせしたところ、三姉妹のうち二姉妹が夫を伴って参加してくれたのである。も一人の姉夫婦も2日前に「お墓」に立ち寄ってくれたそうで、今年は母と共に、兄弟全てが連れ合いを伴って「墓参り」してくれたことを大変喜んでいる。

 戦前は大阪阿倍野の斎場周辺にあった先祖の墓だが、大阪市営墓地として戦後東住吉区の瓜破の墓地に移され今に至っているのである。我が家の墓所には、先祖代々の墓と釈名がついた、私にとっては祖父、祖母と伯父さんたちの墓が正面左右に並んでおり、その小さな墓所の北側に、新たに父が亡くなった1969年5月に、父と兄を納骨した墓石を立てたのである。

 いまどきの墓といえば、多くは小さな区画の墓地が整然と並んでいる墓所が多くて、先日、久しぶりに行った家内の父の墓所も、大阪市が建設した巨大な「泉南メモリアルパーク」と称する墓地公園であり、まったく違った印象の墓地である。

 中にはお寺さんの納骨堂の中に、コインロッカーの様に収められている「墓所」もあるし、一方では沖縄で有名な「亀甲墓」と称される巨大な墓所を、各家が所有している地方もあって、「お墓事情」は千差万別である。

 幸い、わが実家の墓所は、我が実家から車で20分程度の場所にあるために、現在89歳になった母にしても、私たちが車で送迎さえすれば、気軽に「墓参り」ができる距離なので、大変ありがたく年に4回も行く気になれば、行けるから感謝である。

 日本人にとっての「お墓」は特別な意味を持っており、今日も多くの「お墓参り」の家族連れの姿が周辺を行き来して、いつもは殺風景な墓地周辺が色とりどりの花で飾られて賑わっていた。

 昼前に「墓参」を終えて、母と三夫婦の七人で、賑やかな昼食の時を外食で持ったのだが、日曜日の昼下がりの少し広めの和風のレストランが満員で20分ほど待たされたが、ゆっくりと歓談することができたのも幸いであった。

 実は、お盆の墓参りは私にとっては恒例となっている、中国内蒙古へのツアー前の恒例行事となっており、明後日から10日間「命の洗濯に」に、7人の参加者メンバーと共に、中国内蒙古自治区克旗のモンゴル大草原に生活する遊牧の民との交流を求めて、旅立つ前の「祈りの時」なのである。

 今年も元気に内モンゴルへ旅立ちます。感謝と安全への祈りを、日頃の健康と幸せの感謝の祈りと共に墓前に捧げて、いつも出発しているので、これもライフワーク的ファミリーイベントとなっているのである。

 やっぱりお盆に先祖代々のお墓をお参りすると、何故か気持ちが落ち着くし、現代を生きる子孫としての最低の努めと感謝の証として、納得できる行為であり、ほっとできるものである。感謝。
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久しぶりのプール!

2005年08月11日 | ファミリーイベント
 ほんと何年ぶりかでプールに遊びに行きました。

 幼稚園が夏休みの孫と、一緒にプールに行こうと誘ったためなのです。

 水泳パンツがいるので探したところ、最近の水着は短パンスタイルが主流で、インナーがついているだけで、普通の短パンが1000円であるのに、三千円から五千円するが、奮発して若者向きの中から、ちょっと地味なのを選んでニットのランニングシャツと共に、前日に買って備えました。

 当日は朝からあいにくの曇り空で、プール日和とは言えませんでしたが、屋外レジャープールは、開場前から既に多くの家族連れや祖父、祖母と共にやってきている子どもたちであふれていました。平日だったため、まだ空いている方とのことでした。

 早速着替えて、プールサイドに出ると、毎日の様に来ている常連さんもいるようで、ビーチパラソルや中にはアウトドア用のサーフテントを持ち込んで、朝10時から夕方5時までの営業時間を、めいっぱいプールで過ごすつもりの人たちもいました。

 思い思いの浮き輪やビニールのマスコット的エアーマットなども持ち込み自由で、狭い流れるプールは、色とりどりの、まるで海水浴の海岸線の様な賑わいでした。

 大きな全長100メートルものウォーターライダーというのか、鉄塔を30メートル近く上って、水と共に滑り降りる長いスロープがあって、子供達や若い人たちの人気があって、いつも列をなして、滑る順番待ちといった感じでした。

 しかし、せっかく入場料を払ってやってきたのだからと、一回このスライダーにチャレンジしようと思いましたが、メガネの着用をしての利用は禁止ということなので、止むを得ず、私は毎日の入浴でも外さないメガネを外して、チャレンジしました。

 どちらかというと高所恐怖症の方の私ですが、幸いあまり見えずで、スライダー初挑戦をこなしました。結構なスピードで長いスロープを下り降りて、最後は勢いよく水中に投げ出されました。

 遠い昔に海水浴で、勢いよくもぐって水上に戻った時のような感覚を、久しぶりに味会うことができました。

 孫と娘も、大変喜んで、約三時間でしたが屋外プールで遊んで、食事をして帰ったのですが、曇り空が、いつのまにか晴天にもなったために、顔と肩、胸、背中が結構日焼けしていて、夜のシャワーで気づいて以来、ひりひりと共に痒くなってきました。

 久しぶりのプールは、とっても気分よい疲れをもたらしてくれて、何と夜は珍しく10時過ぎには床につくという、健康的な一日となりました。
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