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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

劇団四季のアイーダ

2005年06月19日 | ファミリーイベント
 日本でのミュージカルの専門劇団として名高き、劇団「四季」の「アイーダ」を京都劇場で一年ぶりに鑑賞した。

 今月7日からの「京都劇場」での「アイーダ」のアンコール上演が好評だと聞き、33回目の結婚記念日の思い出にと、何とか指定席を予約して期待して鑑賞に向かったのである。

 地元の京都FM、アルファステーションでも、番組パーソナリティである女性DJが、この「アイーダ」を観て、最後に感動で涙を抑え切れなかったと言っていたので、日本のミュージカルも、そこまでのレベルに達したかと、ある種の期待を胸に会場に入り休憩20分をはさんで前後半、約2時間30分の上演を見守ったのである。

 ストーリーは、古代エジプトの若き将軍ラダメスと侵略されて奴隷となった小国ヌビアの王様の娘アイーダを中心としたエジプトを舞台にしたお話しなのだが、幕が開いた最初の舞台は、現代の博物館であり、そこで出逢う二人の男と女が古代エジプトを舞台にしたストーリーの主人公だったのである。

 もともとの「アイーダ」はヴェルディの作曲の作品だったのを、エルトン、ジョンの音楽とディズニーのスタッフが現代的にプロデュースし上演したブロードウェイミュージカルを、浅利慶太氏が企画、監修し、日本語版の作詞、台本を書いて製作したものである。

 ラブストーリーをテーマにしたミュージカルとしては、それなりに完成しているのだけれど、どうも日本人の感性には、しっくりくるような演出とはなっていない様に感じたのである。

 主演のアイーダの濱田めぐみ、ラダメスの阿久津陽一郎、ラダメスの婚約者エジプトの王女アムネリスの佐渡寧子と各々の出演者は、充分な演技力と歌唱力で演じているのだが、どうも全体的にはしっくりと行かない感じであったのである。

 以前に見た、ライオンキングや美女と野獣の舞台は、ステージエンターテーメントとしての迫力と舞台の大掛かりな仕掛けと共に、やはり舞台ならではの迫力とショーマンぶりを堪能できたのだが、今回の「アイーダ」は少々期待はずれに終わってしまったようである。

 日本でのミュージカルの長期公演の先駆者である、浅利慶太氏が企画、演出するミュージカルは、既に一定以上の市民権を得ていると思われるが、前売りチケットが1万円を越すお値段と内容の満足感としては、前作と違って少し物足りなさを感じたと正直に記しておこうと思うのである。

 まだまだ日本でのミュージカルは、文化、芸術活動としては日が浅く、外国作品の日本語化や歴史、文化の違いから来る、受け取り方の未成熟さもあると思われるが、絶対的な迫力と舞台芸術としての圧倒的な驚異があれば、値打ちを感じられるものなのだと思うのだが、まだまだ日本語と曲の違和感や舞台衣装と日本人のギャップ、またマイクを通しての歌唱の限界など、多くの課題がある様である。

 笑っていいともの司会者、タモリこと森田一義氏は、以前より何故か日本のミュージカル上演の「歯がゆさ」を語り、あまり見たくないと語っていたように思うのだが、私は日本にも日本人の精神風土や感性にぴったり来る様な作品と脚色演出によっては、日本人が拍手喝采するミュージカルが育つと信じてやまない一人だが、まだ違和感を拭いきれない舞台だった。

 心からの感動に満たされて拍手をおくる感じではなくて、一曲を歌い上げた舞台の役者に「ご苦労様」と健闘をたたえる労いの拍手が、それなりにはあるのだが、もうひとつ盛り上がりには欠く舞台だった。

 舞台のフィナーレも、興奮と喜びがあふれる様な仕掛けやダイナミックな舞台演出も感じられないままに終わったのに、出演者全員がかわるがわる出て来ては、何度も何度も並んで観客に挨拶をする儀式が続き、さらにしらけた雰囲気を感じてしまったのである。

 がんばれ、日本のミュージカル!、劇団「四季」の舞台に今後も期待するものとして少し苦言を呈しておくこととする。
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誕生日や記念日をどう過ごす?

2005年06月18日 | ファミリーイベント
 誰にも誕生日はあるはずである。一歳、二歳の誕生日を覚えている人はいないだろうが、三歳ぐらいからは、記憶に残っている人がいるのでビックリしてしまうことがある。

 私の場合だけでなく、幼い時の誕生日や記念日のお祝いごとや食事を、いつもよりご馳走だったり、外食をしたりするために、最近はスナップ写真や、時にはビデオで撮影されたりしているので、後に何度も見ることで、記憶ではなくても自分自身の記憶の様に、いつのまにかなってしまっている光景も多い。

 実は今日は、私達夫婦の33回目の結婚記念日なのであるが、やはり結婚式の一部始終が記憶として残っているわけはなくて、教会での手づくりの結婚式に備えて、前日、その当時仕事をしていた東京から,ふるさと大阪に帰って、結婚式の準備と披露宴というか、ささやかなお祝い会の段取りを、あたふたと友人達の協力でしたことを覚えている。

 結婚式の式次第を、まだ現在の様なワープロやパソコンのない時代だったので、自分でガリ版で鉄筆で原稿を刻み込んで、謄写印刷で刷って色画用紙で表紙をつけて、自分達の結婚式に参列してくださる方々の手元に配れるようにした覚えがある。

 お祝い会は、教会付属の幼稚園の部屋を借りて、簡単な軽食で、お祝いに駆けつけてくださった方々の椅子も折りたたみ椅子だったと記憶している。中には予定していた友人、知人以外の参列者もいて、申し訳なかったが、幼児の座るような小さな椅子で、ずっとお座りいただいていた方もいたと記憶している。

 誕生日の記憶では小学生だった頃の、誰か兄弟か家族の誕生日会を、家で行い、8歳年上の姉が、たぶんその当時幼稚園の先生になるための大学に通学していたこともあって、妹や私達は、姉の指示と演出に協力させられて、演目や衣装が簡易ではあったがあてがわれて、お祝いの歌や演技をした覚えがある。

 その様子は、まるで幼稚園の学芸会のような感じで、姉が幼稚園の教師になって、結婚するまで続いていたように記憶している。私は4人兄弟の中で唯一男の子だったため、他の女兄弟と共に、お遊戯や歌を歌うのは、何とも恥ずかしかった記憶もあるが、それなりに演じたり歌ったりしていたようである。

 もうひとつ記憶に残るのが、父方のおばぁちゃんのお葬式である。同居していた祖母が亡くなり、あわただしい中で、告別式用と思われる、新しい半ズボンとシャツの着替えが枕もとにおかれて、なにやら遠足の前夜のような感じであった。また通夜の自宅の祖母の祭壇の前のテーブルに、大きなお皿にいなり寿司とニシンの昆布巻きがうず高く積まれていたのを、今もはっきりと覚えているのである。

 昭和30年代の半ばで、まだまだ成長盛り真っ最中の小学生の私にとっては、おばあちゃんの通夜、告別式といった、葬儀の悲しみや暗い雰囲気よりも、新しい上下の服装で、たくさんの弔問客が来られ、祭壇前の、この二つの食べ物が気になってしょうがなかったことを覚えているのである。

 よくよく、いろんな記念日やファミリーなイベントの実際の記憶や内容は定かではないものも多いのだが、やはりはっきりと覚えているのは、食べたものやご馳走だったりするのである。

 結局、食い意地というか、成長過程での一番の関心事が食事だったのだろうと、今でも何とも懐かしく思い出すことがしばしばあるので、おかしくて笑ってしまうこともある。

 何処かのすし屋のテレビCMに「嬉しいことがあった時は、お寿司だった」とあるのだが、僕の場合は遠足の前夜に、母が自宅で太巻きを捲いてくれたのだが、その海苔巻のかんぴょう、人参、ほうれん草、卵焼き高野豆腐の具の味が忘れられないし、煮て味付けした干瓢を胃袋まで入れて噛まずに出したりして遊んだことや、太巻きの端を切られるのを待って、口にほうばっていたことが懐かしい。

 今は、家でお祝い事やお寿司を作ることも珍しくなったので、時代が30年から50年近く経って、各々の記念日の持ち方が、大きく変わったと驚きと共に、明日の日曜日、家族でやはり外食で祝おうと約束しているのである。
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亡くなった義兄が虹で昇天!

2005年06月12日 | ファミリーイベント
 先週の水曜日の朝、私の妻の姉の夫である、義兄がガンのため横浜の病院で、62歳の若さで亡くなった。

 当日が友引だつたため、金曜日の夜に通夜式を、翌土曜日の昼前から告別式を行ったのだが、私は仕事の都合が時間的につかず、通夜の前に弔電を打った上で、告別式も失礼をさせていただいて、今日、早朝から日帰りで横浜のご自宅に伺い、一日遅れで故人の霊前にお参りをさせていただいた。

 私の家人は義兄が亡くなった日から跳んで行き、娘も昨日の告別式に間に合う様にと、出かけていたので、遺族となった義姉と3人の子供達と一緒に、義兄の遺影の前で再会となったのである。

 そこで私は,なくなられた当日の様子から、通夜、告別式の様子などを伝え聞きながら、暫くして5人のそれぞれが、告別式の夕方に、西の空に珍しい虹を目撃して、各々が義兄が昇天するための「虹」が出たと感動を覚えた話しを聴かされて、各々が撮影した携帯電話のカメラによる、「虹」のスナップを見せてくれたのである。

 携帯写メールのためもあって、少しくっきりとはいかないが、うっすらとした虹が地平線に対して180度の弧を描いている「虹」ではなくて、ほぼ垂直に近い形で、勢いよく天まで届けとばかりの角度で現れていて、しかもくっきりと明確な虹の弧と共に、二重に弧を描いたもうひとつのうっすらとした「虹」が写っており、ご遺族ならずとも、故人の昇天の道筋の様に感じられるものであった。

 告別式が終わって、多くの参列者と共に、ご遺体を荼毘に付して、お骨を収めた骨壷と遺影を胸に、故人が再び帰ることが願わなかった、永年住み慣れた自宅に、ご遺族や身内のものが帰って、暫くして西の空に出た、珍しい虹を発見し、誰もが心から、故人が天に昇る道筋と感じるものであったらしい。

 残された義姉と2人の姪と一人の甥、そして我が家人と娘が5人全員、しっかりとこの虹を見届けて、各々の携帯カメラに収めていたのである。特に故人の息子であるお兄ちゃんは、車を運転中に姉妹から知らされて、虹を確認して、車から降りてわざわざ撮影していたのである。

 見事な弧が独特の形で、天まで延びており、心から故人の冥福を祈ると共に、見事な道筋を天上の神様が自然現象である、虹の形で導いて下さったのだと、思わざるを得ないグッタイミングな「虹」であったようだ。

 私は以前にも、このような見事なタイミングの虹に遭遇したことがある。その話しはまた別の機会に。

 天の神様、天国への虹を示してくださって、ありがとうございました。

 

 
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お墓参り!

2005年05月04日 | ファミリーイベント
 昨年暮れに1年の終わりの恒例の墓参りに行って以来、久しぶりに自分の父と兄弟の眠る墓と先祖代々の墓のある墓所へ、春のお彼岸に所用で行けなかった為、ゴールデンウイークの一日に時間を作って、4世代で出かけた。

 天気は快晴、申し分ない天候の中、年老いた母と、私達夫婦と嫁いだ娘と3歳半の孫の5人での墓参りである。母にとっては最愛の夫である、私の父を亡くして36年目の春であり、父が死んでからも幾度となく墓地を訪れているのだが、毎回新鮮な思いで、草抜きやらお墓の清掃に精を出していた。

 しかし高齢のため、自分ひとりでお墓に行くことは、ここ数年できないので、必ず私が車に乗せて、一緒に出かけられる時だけが、墓参りのチャンスであるので、毎回墓参りが終わると、お墓参りが出来てすっきりしたと言っているのである。

 曾孫にあたるK君にとっては、まずお墓がどういう所なのかも分からないし、ましてや自分のひいじいさんが眠っていると言われても何の実感もないのだろう。バケツに汲んできた水をひしゃくで汲んでは、私がやることの真似事を繰り返して、水をお墓やお花にかけて愉しんでいたようであった。

 当然である。娘にとっても我が連れ合いにとっても、私の父は写真しか知らない存在感のない人なのであり、「先祖」としての繋がりは意識したとしても、他人とあまり変らない存在なのであろう。しかし同じ娘にとってのおじいちゃんでも、生前をよく知っている私の妻の実家の父に対しての実感は全く異なるリアリティがあるから、思いは格段の違いがある様で、妻の実家に墓参りの後、訪れると神棚に祭られた娘にとってのお爺さんには、手を合わせて挨拶をしていた様であった。

 私達、日本人にとって「お墓」とは何を意味するところなんだろうか。先祖代々と言っても、自分が生前をはっきりと知っている故人が眠るとされている「お墓」に参る時と、全く知らないが先祖としての血の繋がりや大切な絆や縁を意識して、お参りする時もある。

 どちらにせよ、私たちが今、現代を生きていられるのは、自分達の家族の出会いや縁があっての絆が、今に続いているからであって、日頃忙しさや仕事にかまけて、どうしても遠くに墓所がある場合は、墓参りが遠のいてしまうことが多いが、大切な節目、節目には、ちゃんと「墓参り」をして感謝と報告を心の中でしておかないといけないと言う気持ちになるものである。

 若い頃の「墓参り」は何処か退屈な儀式であったが、自分が結婚をして家庭をもって、子どもを与えれ、今や孫まで恵まれて、生かされていることを思うと、長い時の流れと共に、親やご先祖様に感謝と祈りを捧げる機会を大切にしなければならないと、改めて思うことしきりである。

 私の父や私が誕生する前に生まれて、幼いうちにこの世を去った戸籍上の兄の埋葬されている墓は、私の実家から幸いにも、車で20分程度の大阪瓜破墓地にあり、現在私達が住まう町からも1時間余で行ける距離にあるので、年に2、3度は必ず「墓参り」に行くことにしているのである。

 世間的には、春、秋のお彼岸とお盆と年末年始に行かれる場合が多いと思われるが、毎月の様にお墓参りされる方もいるし、特定の故人の月命日を定期的に、きっちり墓参りされている方もいて、日本人の墓参りは多様だが、みんな熱心であると思われる。

 今回の墓参りでも感じたことだが、こうした日本人の墓参り好き?を商売としてサポートしている、石やさんや花やさんが、墓地周辺にはたくさん店を開いていて、結構な値段の花や墓前の捧げ物などを売っているものである。

 数年前、中国内蒙古自治区で、毎年の旅行の際に世話になっていたモンゴル人の墓に詣でたことがあったが、現代的な墓所が建物の中にきれいに並んでいて、未亡人と亡くなった人の元同僚の友人と墓参りをしたのだが、造花の花と共に紙で作った偽の紙幣の束を墓前に供えたのには驚いた記憶がある。

 中国では亡くなった人があの世でも、幸せに暮らせる様にと「お金」を捧げると言うのである。
 日本人にも菓子やお酒や故人が好物だった食品や物を捧げる人もいるので、お墓に野良犬や猫が出没していると聞くので、お墓参りでは食べ物や腐る供物は避けた方がいいのではと思う。

 いずれにせよ、故人を想いながら現代を生きる我々が先祖の墓参りをする機会は、大切な今を生きる者の務めであり、これからも生かされていることの感謝と共に、ご先祖への報告の機会を忘れず墓参りを続けていきたいと思っている。

 



  
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竹の子会が集う。

2005年04月10日 | ファミリーイベント
 晴天に恵まれたサクラ満開の日曜日の昼下がりに、私達は小学校1.2年生当時の同級生との同窓会を、同じクラスだった頃から数えて50年目の、その当時のS先生のお誕生日である今日4月10日に、母校の近くに集まって開いた。

 サクラ咲く池の辺を散策したり、小学生の頃登校時に通った小さな路地や懐かしい商店街をぞろぞろと50代の男女が歩く姿は、何やら孫の小学校を見に来た、おじいちゃん、おばぁちゃんの姿に近いが、私たち自身のお互いの会話は、50年前にタイムスリップしたようで、ここに誰誰が住んでいたとか、ここには何があったとか、全く昔のままであった。

 今は大阪にいない同窓生も当然おり、遠くは広島県から旧友が参加してくれたが、東京、仙台、静岡、アメリカと、郷里を離れた者や仕事の関係で海外生活の者もいたが、約30名の判明している仲間たちの内、約1/4の参加者に留まったが、消息なり現状が分かっている者が10数名他にもいて、別の機会であれば、また出逢えるのではないかと言う期待感が持てた。

 もうこの年齢ともなれば、飛び出す話は子どもの結婚や、親の介護、そして孫の存在などが多いのだが、小学生から中学生にかけての、自分達が抱いていた淡い恋心や、だれだれが好きだったなどと言う話も、今や笑い話としてお互いが恥じも遠慮もなく話せるから、とっても愉しいものである。

 実は恩師の女のS先生は現在91歳になられ、健在ではあるが病院に入院中であり、何時なんどき訃報が届いてもおかしくない状態におられるのだが、みんなの祈りと共に今朝方お誕生日の花束を持って、病院のベッドに横たわっておられる恩師をお見舞いさせてもらったのである。

 先生のか細い手のひらを握りながら、「先生、お誕生日のバラの花束の香りが分かりますか」と呼びかけながら、嬉しさと悲しみが入り混じった複雑な心境の中、涙があふれてきてしまった。

 つい2年前までの先生のお誕生日のことや、振り返って見ると何度となくご自宅へうかがったり、先生にご足労を願ったりして度々お会いした、一コマ一こまが甦り、先生の温かくやさしい言葉やしぐさが、思い出されて、感無量な思いに胸がいっぱいであった。

 懐かしい友の顔、顔、顔と、いろんな先生を巡るエピソードなどを話しながら、ほんとに友達はいいもんだと改めて、心から嬉しく感じたものである。

 私たちの同窓会「竹の子会」は、実は小学4年生の春、ちょうど竹の子が頭をもたげる季節に、1.2年生の時期に担任して下さった、女性教諭である佐竹先生を敬愛する仲間が自然に、先生のお誕生日4月10日を覚えて始めた有志による会で、佐竹の竹からも「竹の子会」と名づけた経緯があります。

 今、それから50年が経過して、私達は、敬愛する先生のご病状を鑑みながら、今を生きる先生の命と今までの熱い思いの数々を思い出しながら祈っています。「先生の安らかな日々と、天命の命が一日でも長く続きますようにと。
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エイプリルフール!

2005年03月31日 | ファミリーイベント

 
 早くも2005年の1/4の3ヶ月が終わろうとしている。月日の経つのは、ほんとに速い。一月行って、二月は逃げて、三月去ってとはよく言ったものだ。

 そして迎える4月1日。子どもの頃から何となく愉しみにしている日でもあるのだが、なかなかエイプリルフールと称される、「嘘をついてもいい日」を具体的に愉しむことが毎年出来ないでいるのは、私だけではないだろうと思う。

 毎年、4月1日の午前中に一回は、誰かに罪のない嘘をついてみようと思うのだが、後腐れのない、かわいい嘘というのか、冗談だよと、後で笑えるような嘘が思いつかない内に、時間が経ってしまって、あぁ、今年も何も実行できなかったとなってしまうのである。

 しかし逆に、見事にエイプリルフールの罠にはまってしまって、してやられた経験ならあるのである。

 それは、もう20数年前のことだが、私が東京は杉並区浜田山に居住していた頃の話であるが、朝いつもの様に出勤のために、仕事の事務所が渋谷にあり、仕事上始業時間が比較的遅かったのだが、9時30分頃自宅を出て、井の頭線の最寄の小さな西永福という駅まで歩いて行ったのである。

 何故か、その日は駅の時計が故障していて、9時40分頃なのに、まだ8時台を示しているのである。少し首をかしげながらも、何の疑いもなく電車に乗って15分くらいで終点の渋谷駅に着いて、いつもの様に急ぎ足で改札を出て、職場に向かおうとして、渋谷駅の時計を見た。

 何と渋谷駅の時計も、まだ9時前を指しているのである。自分の左腕にはめてある愛用の腕時計は既に10時5分前で、急ぎ足で歩いて、やつと始業時間の10時に間に合う時刻である。

 しかし、しかし京王線の全ての駅の時計が何故狂っているのかと、最初は不思議に思ったのだが、「あ、やられた!」と気づいたが後のまつりであった。その当時は今の様に携帯電話もない時代なので、駅の公衆電話から自宅に電話をかけると、「何時気づいたん?、西永福の駅で何で気づけへんの・・・」と電話口で妻の声。

 まんまとしてやられたのである。自宅の3つ4つはあると思う時計を全て1時間早めて、僕が起きる前に私の腕時計も1時間早めてあったのである。夜は遅くなる仕事だったため、朝は起きて急いで朝食だけ済ませて、何の疑いもなく家を出たというわけである。

 あまりにも見事にひっかかったために、私自身も怒ることもできず、1時間早く出勤しただけで、何ら他人に迷惑をかけたり、謝らなくてはいけないような事態は生じなかったので、笑うことしか出来なかったのだが、全くの不覚であり、奥さんの作戦勝ちの「エイプリルフール」完全エピソードとなってしまったわけである。

 それ以来、私自身もチャンスがあればと数年は、仕返しではないが笑えるような見事な、これぞエイプリルフールを仕掛けたいと思っていたのだが、その日が4月1日であっても、「冗談として笑えるような嘘」を演出する余裕もなく、時間が経過してしまい、夕刻や夜間のニュースや番組の話題として、そうか今日はエイプリルフールだったんだと、遅くに認識することが度々であったような気がする。

 いよいよ明日はと、前日の3月31日に、記してはいるが、さて明日の午前中に、何か愉しいひらめきやアイデアが浮かんだら、実行してみたい密かに思っているが、一晩寝ると忘れてしまうかもしれないだろうと、少し不安も抱きながら、床に付くまでの貴重な時間に、ちょっぴり企画を考えてみようと思っている。

 このブログを家族が今晩から明日の午前中だけは読まないことを祈りながら、真剣に愉しいアイデアを搾り出したいものである。

 エイプリルフールを愉しもう!

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年賀状!

2004年12月27日 | ファミリーイベント


 いよいよ今年も忙しない年の暮れとなった。
 年々「大晦日と元旦で何も変らんだろう」とか「今年の年末年始は特別なことはしないで過ごそう」なんて口々に言ってた人たちも「もう年賀状書いた?」となってしまう。

 私もやっと今、賀状を制作して印刷中である。数百枚刷るのに結構時間がかかるものである。
 しかし「年賀状なんかメールで済むじゃないか?」とか「年賀状は虚礼だ」と言われる方もいるだろう。
 
 私は年賀状は虚礼ではない!と言える。一年の始まりに友人、知人同士や親戚、家族が大切な心温まる一枚の葉書交換で、健康と近況等を確認し合える、とっても素敵な日本的伝統かつ実用的な習慣であると思っている。

 私自身も学生時代は賀状を数枚書いて投函していたに過ぎないので、いただく枚数もわずかだったと記憶している。しかし結婚して子どもが生まれ、故郷を離れた頃から書く枚数も増え続け、今は数百枚となっている。

 始めは手書きだった賀状も、ミニプリンターなる謄写印刷、プリントごっこと変遷し、今やインクジェットの年賀状にパソコンでデザインした3種類を創って出すに至っている。

 私にとって、元旦の我が家の郵便受けに賀状が届くのを今か今かと待つ時間は、至上の喜びの時である。
 届いた年賀状の束を、ゆっくりと時間の許す限り何度となく一枚、一枚、宛名の文字と差出人を確認しながら、裏面のデザインを見て、相手の顔や近況を想って文章を読む。

 小学校時代の女の先生は、もうずいぶん歳を重ねられて今は特別養護老人ホームに入居されている。
 先生から来る年賀状の宛名の文字は、毛筆からペン書きへと、ちょっとづつ変化し、今は家族の方の代筆となっている。

 また、出会った頃は幼稚園児か小学生児童だった、知人や友人の子どもたちやプレイスクールで一緒に遊んだ子どもたちも、もう立派な大人になって賀状をくれたりすると、自分の歳を改めて感じてしまう。

 人生は出会いの連続であり、その出会いを一年に一度は、お互いの文字でしっかりと確認したいものである。面白い賀状、真面目な賀状、素敵な家族、思い出の風景の写真、手書きのスケッチなどと共に、きれいなデザインの賀状など、来春のスタートを一杯愉しませてくれるだろう。

 友人、知人に「ガリバーも元気で生きてるよ」って明るく賀状に必ず一言添え書きして、元旦にコトンと相手の心に届く様に、早く投函したいと思っている。


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X'mas電飾点灯!

2004年12月02日 | ファミリーイベント

 昨夜、我が家の玄関横のささやかな蔦の壁面に、恒例の?クリスマス電飾を取り付けて点灯した。ここ数年前より、12月1日に飾りつけて、25日のクリスマスまで、気分を愉しみたいと思ってやっている。
 
 住宅街のしかも角地や目立つ人通りの多いところにあるイルミネーションとは違って、小さな電球の数も少なく、さほど派手ではないのだが、道行く人や私たち家族が出入りする時に、ちょっぴりとクリスマスが近づくことを嬉しく感じ、またこの世の中で、ささやかでも、こうして平和に幸せに暮らせることへの感謝の再確認にもなる様な気がする。
 
 今朝、新聞紙上に一面広告で、小泉首相へと題する、イラクへの自衛隊派兵をやめて!という意見広告が出ていた。アメリカ軍のイラク駐留は決して平和や民主主義的、国家の回復をサポートしているのではなく侵略であり、多くの市民の反発がある中で、多くの普通の国民、市民が殺傷されている戦争状態が続いているのである。
 
 我々平和を希求する日本人として、国際貢献や人道支援という名の下で、軍隊である自衛隊を海外に派兵し、駐留させていることに大いなる憂いと憤りを感じている。
 地球上では、いつの時代も多くのいざこざや戦いが起きている。宗教、経済、政治などの多種多様な価値観の対立や、歴史的かつ現実的な利害の対立は否めないが、どうして同じ人類がいがみ合い戦いあい、殺し合わなければいけないのか。 
  
 長い人類史に数々の汚点を自らつけるようなものであり、愚かであり憤りを感じる。
 与えられたこの世での自分の生命を大切に思う如く他人の命や生き方をも可能な限り尊重して、互いに共生、協働できる社会を目指したいものだ。
 
 ささやかなクリスマスイルミネーションだが、小さな存在の私たち一人一人が、神様に与えられた、この世での生命をいとおしく大切に、家族、隣人、知人、友人に支えていただきながら平和に、幸せに過ごせることを感謝する。
 
 これから3週間余りの間、この電飾を見守り、クリスマスを迎えたいと思う。


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明日は混声合唱団の定演だ!

2004年11月27日 | ファミリーイベント

 いよいよ明日は、私が所属する混声合唱団の定期演奏会である。
 団が発足して以来第7回目であり、私は何とか全回出演している。
 今回も約1年半の間、多くの楽曲の練習をしてきたが、明日がその集大成としての発表の場である。
 
 第一部は木下牧子さんの合唱曲を5曲歌う。なかなかいい曲が続くよ。第二部は、こうしたコンサートのメリハリとしてなくてはならない?モーツァルトの宗教曲が歌われる。ラテン語と思われる歌詞はなかなか覚えにくいし、楽譜に釘付けでもなかなかちゃんと歌えない。しかし4人のソリストが加わって、何とか体裁をなすのではと感じている。聴衆にとっては如何なものなんだろうか。
 そして第三部は、一番愉しいステージになるはずである。日本のポピュラーソングをメドレーで、遠くへ行きたいから、いい日旅立ちまで25曲。日本列島を北は北海道から南は沖縄まで駆け足に南下していく。合唱としてのオリジナルアレンジをしていただいた親しまれた歌の数々である。楽曲全部を歌うわけではないが、聴衆の多くにとっては懐かしく、また一緒に口づさみたくなる曲が次から次へと続く圧巻のステージとなるだろう。
 
 30代から70代までの男女50名足らずのアマチュア混声合唱団だが、一応10年以上続けているので、それなりに愉しく聴いていただけるのではないかと思っている。

 我が娘たち夫婦と義母さんも孫を連れて,聴きにきてくれるという。
 本日、実際の会場で3時から8時過ぎまで、前日のリハーサルを行った。やっと明日という日時になって、ようやくみんなも本気のやる気が出てきたようだ。本番に強い私たちの混声ガッシヨウ団だから、きっと愉しく元気な合唱曲を皆さんにお聞かせできることだと思っている。リラックスして、歌の楽しさを伝え、自らが一番愉しみたいと思っている。



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甥の結婚式

2004年11月22日 | ファミリーイベント

昨日、明石海峡大橋を真向かいに見る、舞子ビラで私の妹の息子である甥の結婚式がありました。私たち夫婦は、今年米寿を迎えた私の母、甥っ子にとっての祖母を連れて車で京都から大阪経由で兵庫県まで出かけて往復200キロ以上の結婚式に参加しました。
 母は、昨日の天気を何度も、結婚式にふさわしい日本晴れだと車内で語りながら、嬉しそうに結婚式、披露宴と5時間近くを瀬戸内海に面した秋の海風を感じるホテルとチャペル、お庭で過ごしました。
 
披露宴では私は親族を代表してトップバッターで祝辞を述べることとなり、その日をたぶん喜んでいるであろう、今は亡き父とこの場に出席できた母の思いも込めて語りました。
 11月21日でしたので、昨日11月20日は、イイ連れをつくる日で、明日は11月22日で、いい夫婦の日であることて゛今日は1人と1人が出会って、2人となり、1つの家庭をつくる日だと、日にちをもじって語った後、お互いの信頼と感謝と思いやりが夫婦生活には大切だと一応先輩として述べました。しかし理想はそうだけども、我慢やあきらめもちよつと必要だと現実も述べておきました。
 
人生には登り坂と下り坂がつき物ですが、これも、まさかという坂もあり、それを乗り越えて良い家庭をつくるためには、今日の日のお互いの笑顔を忘れず、思い出して先輩兄弟やご両親そして私たち伯父や叔母夫婦をお手本に、末永くお幸せにと、スピーチをくくりました。
 
 実は私たちの父、結婚した甥の祖父は、橋梁の仕事をしていたので、30数年前に、この明石海峡大橋計画を生前は、夢の大橋として、私たちに語ってくれていたので、これも何かの縁で、こうして明石大橋のふもとのホテルと教会で甥達の結婚式が行われたことを、亡き父と長寿の母が一番喜んでいるのではと、私たちにとっては二重,三重の喜びの日と場所となった様な気がしました。
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