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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

市民音楽祭

2006年10月22日 | ファミリーイベント
 秋晴れの一日、京都では時代祭り、鞍馬の火祭りなどが催され、全国的に秋祭りや文化祭などが盛んに行われたと思う。

 わが市にある同志社女子大学の新島記念講堂では、第21回目になる「市民音楽祭」が行われ、私も舞台に立ち、家人は三つのグループで、その都度着替えて合唱を愉しんだ。

 今は6万1千人の人口の地方都市となっているが、20年前にはまだ4万人程の田舎町であり、ここ20年近くの人口増で10年前に単独市として市制施行したのである。

 大阪、京都、奈良の中間部に位置し、母なる河、木津川の作った平野部と生駒山系の丘陵部を要する自然豊かな住宅都市だが、20年前に「京阪奈文化学術研究都市」の一角として「同志社大学と同志社女子大」のキャンパスが開校し、JR並びに近鉄線のアクセスの良さも手伝い住宅開発が進み人口増えて市になったのである。

 それまでは、晩年の一休禅師がお過ごしになった、名刹「酬恩庵」こと一休寺とお茶の最高級玉露の生産地として有名ではあったが、ごくありふれた田園風景と近郊野菜の農業の町であった。

 その町に私達が移り住んだのが26年前であり、家人はすぐに地元の「女性コーラス」に加わり今年で27年目であるし、私も所属している混声合唱団も来年14年目で、8回目の定期演奏会を開催するほどのキャリアとなっている。

 たくさんの音楽愛好家やグループがあるのだが、寂しいことに、この町にはまともな音楽の発表ができるホールがなく、同志社女子大学の礼拝堂を兼ねたパイプオルガンが備わった八百人程度の音楽にも適した「新島記念講堂」を毎年「市民音楽祭」では借りているのである。

 昨日から音楽連盟の有志たちによって、会場付近の案内やのぼりが設置されて、今朝を迎えたのであるが、今年は参加出場団体も25を数える盛況で、本番は午前11時から午後4時まで約5時間を要する規模となった。

 小学校の金管ジュニアバンドに始まり、中学校吹奏楽部、女性コーラス、少年少女合唱団、若手ブラス楽団、PTAコーラス、ハーモニカグループ、小学校合唱、女子大のハンドベル、地域コーラス、管弦楽団、民族楽器演奏、アカペラ混声、そしてとりはシンフォニックバンドと盛りだくさんで、最後には会場の全員で「大地讃頌」と「ふるさと」を吹奏楽団のバックで歌って閉会となった。

 今年の特徴は、老いも若きも元気に楽しく歌い、踊り、アクションつきのグループも多く、ただの練習発表会ではなく、グループ毎の特徴あるパフォーマンスが多かったように思い、大半を嬉しく拝聴した。

 ただ自分の舞台に関しては度胸だけは負けていなかったが、楽しい曲なのだが、英語の歌詞が覚えられなくて、リズムの速さについて行くのが精一杯であった。

 ただ楽しく歌うことだけは誰にも負けじと努めたが、会場で聴いてくれた娘や孫には伝わったかどうか定かではない。
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敬老の日の昼食会

2006年09月18日 | ファミリーイベント
 今日は「敬老の日」で、私も親孝行のひとつと思って一人住まいの母親を久しぶりに訪ねた。

 途中で季節の花々を選んだ『花束』を購入して、午前中に約一時間の実家に車で向かったのである。

 今日は嬉しいことに私の友人であるH君のお母さんが同じく私の母の古い友人と連れ立って私の母に久しぶりに会いたいと、わざわざ来て下さることを数日前に聞いたので、私の母が懐かしく思う二人のご婦人を迎えに駅に出かけたのである。

 私はH君のお母さんは昔から知っているのだが、もう一人の古い母の友人のYさんのことは、お名前しか知らず、ただ私の母よりもお若い方だと聞いているだけだった。

 私は新装なった最寄のJR駅で待ったのだが、H君のお母さんが着かれる前に、10数人の方が駅の改札口を出られ、その内のご年配のご婦人の一人がエレベーター付近で人待ち顔で立っておられたので、しばらく様子を見守った後、「失礼ですが、Yさんでしょうか」と声をかけたのである。

 私が名乗ったので、すぐに笑顔と共に、Yさんであることがわかり、もうずっと昔からの知り合いの様に、お住まいのことや昔の小学校のことなど、まるで今までにも何度もお会いしているかの様に話出したのである。

 その内に次の電車で約束の時間前に、Hさんが改札口から出て来られたのを見つけて、お迎えをして歓談しながら、我が実家へと向かった。

 駅からの道や風景を懐かしく語られているうちに、すぐに実家に着き、我が実家の狭い居間で、三人の久しぶりの会話が始まったのである。

 私は向かう途中で購入したお菓子を適当に菓子皿に載せて、この日のための?「祝・敬老の日」のラベルのついた煎茶の封を切って、三人にお茶を振舞おうと湯を注いでいたのだが、何故か最初は茶葉が多すぎて全くお出しできる「お茶」にはならなかった。

 何度も急須とお茶ッ葉と格闘しながら、三度目の正直で何とか三人にお茶を薦めることが出来たのである。お二人は「男はんにお茶まで入れてもろて」と恐縮されつつ、美味しいとお世辞の言葉もいただいた。

 その間、三人の年老いたご夫人たちの会話は、介護保険のこと、ご主人のこと、息子や娘や孫とひ孫のことなど、さすが年季の入った会話だと聞きながら、お互いは口々に「ちっとも変わりはらへん」という褒め言葉の連続であった。

 その後予約してあった小さな洒落た和風料理の店に、私が運転する車で三人と共に出向い、「敬老の日の昼食会」となった。

 なかなか洒落た料理が「ミニ会席」として出てきて、写真の如き美しさで愉しく食すことが出来たのである。写真以外にも、鯛ちらしやにぎりの寿司がついていて、天ぷらや初物のマッタケの土瓶蒸もあり、最後に季節のフルーツデザートと珈琲もついたセットだったが、充分満足できるお料理であった。

 三人は、私も含めた昼食会をたいへん愉しんでいただいたことと自負しているのだが、私にとっても大変愉しく有意義なひとときであった。
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今日は皆で餃子!

2006年09月17日 | ファミリーイベント
 久しぶりに内モンゴル出身のB君と妹のナラングリを訪ねて、今年の内モンゴルの旅の写真を見ながら、ゆっくりと食事をしようと午前中から出かけた。

 彼ら兄妹が住む隣町の公営アパートの部屋に行くと、ちょうど彼らは部屋の大掃除をしていて、古い机や大きなゴミをゴミ置き場に出しているところだった。

 他にもお客さんが三人ほど来るということなので、お昼には皆で特製の餃子を作ろうということになった。しばらくすると、団地の担当のおばさんが「大型ゴミの出す日じゃない」と告げに来た。

 私はたまたま、ちょっと固めの「昔もめん」とザル豆腐をお土産にと持って行ったので、餃子パーティーに私の特製の「マーボ豆腐」も作ることになった。

 神戸と京都市内で現在勉強中の同じ内モンゴル出身の若者の男女と、この夏初めてB君の故郷である内モンゴルの大草原に行ったTさんが来る予定で、6人での愉しい餃子パーティーになると期待していた。

 近くの駅に着いた友人達を迎えに出たついでに、近くのスーパーで食材の仕入れをするというナラングリとB君と、二人を迎えて全部で5人での餃子作りが始まった。

 女の子二人が主に餃子の具づくりをはじめ、白菜、韮、葱に羊肉が入手できなかったので、今回は豚ミンチを入れて塩、胡椒で味付けし、よく混ぜて寝かしておく。

 一方、B君はボールに小麦粉と水を入れて、よく捏ねて塩を少々入れて、餃子の皮の手作りを開始した。よく練って捏ねて、耳たぶより少し固めで丸めて、少々寝かしておいた。

 私はミンチ肉が餃子に全て入れられたので、バラ肉を小さく刻んでミンチ状にしたものをフライパンでいためて味付けをし、そこに固めの木綿豆腐を二丁、小さく角切りにしたものを混ぜ、葱を小さく刻んで混ぜ、最後に唐辛子を少々入れて片栗でとろみをつけた。麻婆豆腐の出来上がり。

 1時過ぎになって、ナラングリがアルバイトに出かけると言い、「一緒に食べようと思ってたのに」と私。後から大阪のTさんがやってくるとはいえ、やっぱりひとりでも多くの顔に囲まれての「餃子パーティー」がいいに決まっているのに。

 餃子の皮の仕上げに着手し、現在京都の私立大学に学びながら餃子屋さんでアルバイトを一年近くしているという女性が中心となり、麺棒と打ち粉をうまく使いながら大量の餃子の皮作りと具を包んでの姿が大量に出来だした。

 今度は神戸から来た男の子が急にアルバイトで帰ると言い出した。何たることか。せっかくの大量の餃子が出来上がる前に、予定していた人数の内の二人がリタイアである。

 急いで包み終えた餃子をあわてて鍋で湯掻いて、水餃子を作って弁当箱に入れてたれを入れ、神戸に帰る彼に持たせることとした。

 やっと3時近くに出来上がった大量の餃子を三人で食べ始めた時、大阪からのT君が到着し辛うじて4人の餃子パーティーとなった。

 私の作った麻婆豆腐とそのまま食べたザル豆腐も美味しく、デザートには巨峰とバナナのミックスフルーツが卓上を飾った。
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おしいれのぼうけん

2006年08月30日 | ファミリーイベント
 子どもたちの「夏休み」が終わろうとしている。

 長い夏休みだったかな。それともまだまだ「夏休み」が続く人もいるでしょうね。私の記憶に一番印象に残っているのは小学校の頃の夏休みであり、あと1日、2日という頃になって、あわてて「夏休みの宿題」を集中してやり遂げなければ始業式に間に合わないという、あせった気持ちが今も思い出される。

 幼少期から小学生の頃が、一番「ガキ大将」といわれたり、「やんちゃ坊主」の典型だったかもしれない。

 そうした記憶の中で、よく母や先生に叱られて、「押入れ」に入れられたのか、好んで入っていたのか定かではないが、「おしいれの冒険」の記憶が蘇ってきたのである。

 それは「ふるたたるひ作、たばたせいいち画」の昭和49年11月初版の童心社発行の絵本「おしいれのぼうけん」を久しぶりに声に出して読んだからである。

 たぶん我が子が生まれて幼児期から小学生になる頃に、わが子に対して読んだような記憶があるのだが、今となっては息子も30歳であり、確かではない。

 しかし、孫の4歳10ヶ月になるK君は、我が家で眠るときは必ず、自分で我が家の息子と娘が育った「子ども部屋」とも言うべき場所の所狭しと並んでいる絵本や近くの図書館から借りてきた絵本を「読んで!」とご指定で所望するので、読まざるを得ない立場となって、今回は「おしいれのぼうけん」だったのです。

 「桜保育園に怖いものがふたつあります」という書き出して始まる絵本は、ひとつは「押入れ」で、もうひとつは「ねずみばあさん」だと初めから種明かしをするのですが、先生の言うことを聞かなかったり、悪いことをする子は「押入れ」に入れられるのです。

 もうひとつの「ねずみばあさん」は先生がやる「人形劇」に出てくるのです。

 あきらとさとしという男の子が先生の「やめなさい」と言う注意を聞かずにひるねの時間に騒いだり、ミニカーの取り合いをして逃げ回ったために、先生に叱られて「押入れ」に入れられてしまうのです。

 その暗い押入れの中の上下の段に入れられた二人のやんちゃ坊主は、謝りたくなくて我慢しているうちに、ミニ機関車とミニカーが走り出して真っ暗闇のトンネルを通って、「ねずみばあさん」に会うのです。

 あやまりたくないと逃げ惑うふたりに容赦なく「ねずみばあさんとねずみたち」が襲いかかりますが、ふたりは汗ビッショリになって逃げ回ります。

 ふたりの「おしいれのぼうけん」は、デコイチとミニカーを持ったまま、疲れ果ててうとうとしていたときの夢だったようですが、手を繋いだあーくんとさとちゃんは汗ぐっしょりで先生たちに戸をあけてもらい救出されたのです。

 彼らの「おしいれのぼうけん」以来、子ども達は喜んで「押入れ」に入りたがって、押入れは大人気になりました。

 私の幼少期の夢にも同様の「おしいれのぼうけん」の記憶が鮮明にあって思い出されて嬉しくなりました。

 「ねずみばあさんだよ」と声を太くして、怖い声で読む絵本は素敵な世界に連れて行ってくれるものですね。
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いつも巻き寿司だった。

2006年08月08日 | ファミリーイベント
 今朝は所用もあったので電車で一時間ほどの私の実家に、長く独居生活をしている高齢の母を尋ねた。私の母は耳が聞こえにくいのだが、先日特製の補聴器を新調したこともあって、嬉しそうに玄関に出てきて私を迎え入れてくれた。

 居間にふたりで座って扇風機の風にあたりながら、ぼそぼそとデイサービスやホームヘルパーさんの話も交えて、いろいろと話す中で不自由なことや困ったことなどが見つかる場合があるので、気づいたことで出来ることは、その日に済ませて帰る様にしている。

 今日は独居の母の仲間でもある、人形の「ユメルちゃん」の電池が弱ってきたため同じ反応の声を繰り返すと言うので、近くの電気店に単2の電池を買いに出かけた折に、昼食用に母の大好物である「巻き寿司」「お稲荷」「バッテラ」の3種のお寿司と、冷たいお茶とデザート用のオレンジを買って帰った。

 母は戻ってきた私に、デイサービスで習ったという折り紙の何色かで創る飾りの様な作品を見せて、同じようにもうひとつ作ろうと苦心していたので一緒に折り紙をした。

 まだ昼前だったが一人暮らしの母は、日頃は朝食を摂らずに過ごしているので、早い目に昼食を一緒に食べることにしたのである。

 小皿に各々の「お寿司」を分けて、ひとつ、ひとつ口に運びながら、母の口からは、私が小学生だった昔の頃の「巻き寿司」の話が繰り返し飛び出してきた。

 私の思い出としても鮮明なのは、初夏や秋の遠足や運動会の前日の夜は、必ず母が狭い台所で、翌朝のお弁当用の「巻き寿司」を巻いてくれたことである。

 寿司米が炊かれて、うちわで扇いで冷ましながら、一枚のあぶった黒い海苔の上に寿司飯が手際よく乗せられて、卵焼き、にんじん、胡瓜、干瓢などが細く切られて、太い芯の様に並べられて、巻き簾で上手に巻かれていくのである。

 私は傍で手伝い?ながら、上手に巻かれた「巻き寿司」ではあるが、いくつかにカットされる時に出る、両サイドの切れ端というか、不ぞろいながら量的には大きな「巻き寿司」の余りを口に運ぶために待っていたのである。

 少し甘ずっぱい、「巻き寿司」の独特の匂いと共に、まだまだ欠食児童の如く、何でも食べたい盛りだった頃なので、明日のお弁当への楽しみと共に、前夜の「余禄」も大変な楽しみだったのである。

 ついでに甘く煮てある干瓢、人参、卵焼きなどの余りも、当然の如く「つまみ食い」の対象となり、干瓢は長い紐状のまま口から胃に飲み込んだ上で、口に残った端を逆に引っ張り出してみたりして遊んだ記憶も鮮明に残っている。

 その当時は、喜びごとや家族の愉しいイベントがある度に、食卓には手作りの「巻き寿司」が主役として並んでいたものである。

 懐かしい話に笑みを浮かべながら、年老いた母と久しぶりに市販品ではあったが、美味しい大好きな「巻き寿司」を一緒にいただいたのである。

 あの頃の楽しみは、いつも「巻き寿司」だったな。
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久しぶりの結婚式

2006年07月22日 | ファミリーイベント
 久しぶりに親族としての結婚式に列席した。

 神戸のとある式場、披露宴会場で、梅雨明け宣言がまだされぬ土曜の昼下がりであったが、お天気に恵まれて私の姪の結婚式が行われた。

 北は北海道から南は沖縄までの各地から、若い彼女と彼の結婚式と言う人生の最大最良のセレモニーに駆けつけた友人、知人たちと親戚一同は、約120名に及んだ。

 高校時代からの付き合いで約8年間、愛を育んでの晴れのゴールインと言った二人による企画での「人前結婚式」とマリッジコーディネイターのサポート、アドバイスもあっての式、披露の会であったようである。

 神戸の高台にある、遠くに神戸港と大阪湾が眺めるガラス張りの式場で、二人の結婚の誓いや指輪の交換などのセレモニーが行われ、結婚の認定書へのサインもされたが、既に二人の籍は一ヶ月前に入っているらしく、参集者たちに「形」で、結婚を報告するという、人前式であった。

 最近の若者の結婚式や結婚披露は、昔ながらの神前結婚式や大披露宴会場に招待客が丸テーブルの「寿」「福」「幸」などに分かれて座って、仲人さんの本人紹介に始まり主賓の挨拶などと続く「普通の結婚式、披露宴」が少なくなり、当人同士の意思を大切にして、プランナーやコーデイネイターのサポート、プロデュースの「形」が増えているらしい。

 今回も部分、部分に少し型破りの進行や新郎、新婦の動きなども見られ、何よりも感じたのは、二人を取り巻く友人達の盛り上がりと、やたら二次会的な一部の「乗り」であった。

 我々親族一同からは進行役の女性の顔も見え難く、また新郎、新婦の姿も見え難い位置であったこともあって、ふたりの表情を十分に見るには至らなかった面もあるが、ともかく「若さ」を感じた。

 やはり歳をとったせいもあって、ご両家のご両親の立場や思いに気を巡らせながら、せめて式後の披露の会なのだから、もう少しご家族にスポットライトを当てる演出があってもよかったのではないかと、老婆心ながら感じたのである。

 披露の会が約3時間近く進行し、その後二次会が企画されていると聞いていたので、余計に一次会の主役は二人の配慮で、ご家族に重点があってもよかったのではないか。ご両人の祖母たちも参列されていたが、ご家族の思いや言葉も列席者に伝わらず、ご両親の言葉もなかったのである。

 「若さ」は特権であり、「若さ」を批判しているのではないが、「結婚」という儀式が、言葉では「両親、家族、周りの人々のお陰」と両人からは語られていたが、幼い頃から育てられたご両親や見守っていただいたご家族の存在があってこそで、そうした気持ちや声をご本人達から殆ど聴くことができなかった。

 今頃、二次会、三次会?とより盛り上がっているかもしれないが、乾杯の音頭をとったボス、組長と呼ばれた知人の男性の言葉に、「年上の人は乗り越え、つぶす存在」と言う一言があり、最後まで気になったのである。
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夢から醒めた夢

2006年06月18日 | ファミリーイベント
 
 記念日のファミリーイベントとして、京都駅ビルにある京都劇場で一年ぶりに、劇団四季のオリジナルミュージカル、赤川次郎原作「夢から醒めた夢」を鑑賞した。

 劇場の入口付近のエントランスロビーに、長身?のピエロのような俳優達がお出迎えしてくれていて、あわててデジカメを取り出して撮影しようとした折に、デジカメケースに入れていた、別のSDカードを落としてしまったらしく、入場後に気づいて探したのだが、一枚が不明のままで舞台の幕が下りた。

 赤川次郎氏の同名小説を原作として脚色された作品であったが、タイトルの「夢から・・・」が気に入り鑑賞を決めたため、勝手にイメージした「夢」とは全く違う内容であった。
 
 夢の案内人に出会った主人公ピコが遭遇した夢は、とっても母親思いの娘マコが突然交通事故死し霊界から「ちゃんと母に別れを告げたい」ために一日だけピコと入れ替わるという設定のストーリー展開であった。

 私の気持ちは、夢の案内人の言葉と主人公ピコとマコという女性の「夢」に思いを巡らせながらも、現実の自分の大切なSDカードの紛失が心の中に大きく気になっていたので、舞台の上で演じられている「夢の世界」に没入するには至らなかった。

 そのためか、この作品そのものが過去に見た「劇団四季」の舞台と比べて、やや見劣りする様に感じざるを得なかったのである。

 パンフレットには、「一番愛されているミュージカル」として紹介されていたが、日常生活の中で起きた、ちょっとした気がかりのために、「夢」に没頭できなかったのかも知れない。

 ここ19年間、日本での本格的なミュージカルを、国内のいくつかの専門劇場で一年中上演続けている、劇団四季の浅利慶太氏を初めとするスタッフの熱意と情熱は素晴らしいと思えるのだが、私の心にはまだエンターテイメントとしてのミュージカルを存分に愉しむ余裕がないのかも知れない。

 いずれにせよ、「ライオンキング」「オペラ座の怪人」「美女と野獣」「アイーダ」などの作品と比べて、何故か和製ミュージカル故にか、しっくり来ないものを感じたのかもしれない。

 日本にミュージカル文化が渡来して何年になるかは知らないが、劇団四季の二十年に及ぶ歴史は尊く、これからの日本的エンターテイメントの、ひとつのスタイルを確立する形であることは間違いないのだが、私だけではないと思うが、まだ西洋かぶれの臭いと日本人の心とのギャップを少し感じたのである。
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心の四季を歌う合唱祭

2006年06月03日 | ファミリーイベント
 明日は第43回目を迎えた「京都合唱祭」が行われ、我々の混声合唱団は高田三郎作曲、吉野弘作詞の混声合唱組曲「心の四季」から、「愛そして風」と「雪の日に」を歌う。

 毎年六月のこの時期に京都合唱祭が開催されていて、今日と明日の二日間にわたって京都会館の舞台で行われているのだが、今日は「ママさんコーラス」、明日は「一般の部」と分かれて、多数の合唱サークルが出演して歌いあうのである。

 私の所属する混声合唱団も、今年で14回目の出場だと思うのだが、結団以来毎年連続出場しているのだが、私は仕事の関係で、たぶん途中三回ほどは出られなかったので10回目か11回目になるはずである。

 毎回出場するに向けて、混声合唱曲として大きな会場で歌うのにふさわしい楽曲を二曲か三曲選んで歌うだけなのだが、なかなか難しくて、暗譜すなわち歌詞とメロディーを暗記するのが大変なのである。

 舞台発表前夜の今夜も最終的な練習があって、指揮者の指導の下で細かい曲のニュアンスや強弱、そして肝心の歌詞の「心」を大切にしながらの練習が行われて、歌いあげていくのであったが、まだ歌詞の全ては頭に入っていなかった。

 自宅に帰ってから夕食後、あたふたと試験前夜の一夜漬けの勉強の如く、この二曲の楽曲の歌詞を書き写して、頭に叩き込む練習をしてから眠りに付くことにしようと思っている。

 私はベースのパートなので、以下のような歌詞である。

 「愛、そして風」は、
 ざわめいている。ゆれている。風に吹かれて、かれはしがそよぐ、
風が去れば、素直に静まる。歌いやめない、思い出を。
 と簡単なのだが、ハミングの言葉の無いところのメロディが難しい。

 「雪の日に」は、
 雪が激しく降り続ける。雪の白さをこらえながら。
 欺きやすい雪の白さ、誰もが信じる雪の白さ。
 信じられている雪は 切ない。
 何処に純白な 心などあろう。
 何処に汚れぬ 雪などあろう。

 雪が激しく降り続ける。
 上辺の城さで 輝きながら。
 上辺の白さを こらえながら。

 あとから あとから 降り続く。
 雪の汚れを隠すため。
 純白を  後から 後から 重ねて行って、
 雪の汚れを 隠すのだ。
  
 雪が激しく 振り続ける。
 雪は己を どうしたら 欺かないで 生きられるだろう。
 それがもはや 自らの手に 負えなくなってしまったかの様に

 雪は激しく 振り続ける 振り続ける 振り続ける

 雪の上に雪が その上から雪が
 たとえようの無い 重さで 音も無く
 重さなって行く 重ねられていく 重さなっていく 重ねられていく。

 とても繊細であって、堂々たる歌声として、京都会館ホールに響き渡るように、精一杯歌いたいものだと思っている。
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泊めないホテル!

2006年05月01日 | ファミリーイベント
我が家の幼稚園に通う四歳半の男の子は、じぃじ、ばぁばとも友達のような付き合いで、よく喋りよく遊び、いろんなエピソードが毎日の様にあって、笑いが絶えないのである。

 彼は毎夜寝る前に自分で選んだ絵本を一、二冊寝床に持ち込んでは、誰かに読んでもらって眠りに付くという贅沢な習慣を続けている。

 そんなある日、彼は「飛べない蛍」という絵本を持ってきて、「とめないホテル」を読んでと所望したのである。どう聞き間違えたのか、ほんとうにそう聞こえたのである。

 耐震構造設計偽装のニュースが連日報道される中で、「ホテルやマンションの危ない建物」という思いが、その様に聞こえたのかもしれないが、全くの聞き違いであり、子どもの絵本に、「泊めないホテル」などあるはずが無いが、宮沢賢治あたりだと、ありそうな童話のタイトルでもある。

 しばらくの間、偶然に飛び出したこのフレーズが気に入って、「飛べないほたる」と彼が言う度に、わざと「泊めないホテル」と言い返すと、「とべないほたる」と言い直して教えてくれるのである。今朝などはバァバは「飛べないホテル」と言う始末である。

 そんな聞き違いで、大変面白いエピソードを以前にも聞いたことを思い出した。

 あるお年寄りの施設に地域の障がい者作業所のスタッフと通所生たちが、交流と励ましをかねて「紙漉き」の実演をするために出かけて行った時のことである。

 約束の日、彼らが「紙漉き」の実演を、高齢者達の集まった施設ホールで始めたところ、あるお婆さんが何度も言ったのである。

 いつ「カニすき」が出てくるの? 「ウン?」今日は「蟹スキ」なんぞ出ないよ、みんなが「紙スキ」で葉書や名詞用紙や和紙のような趣のある紙を漉いて作るんだよ、と何度言っても、彼女の頭の中には「楽しみにしていたカニスキがいつでるのか」と一方的に所望し待ち続けられていたのである。

 たった一字の違いなのだが、「かみすき」と「かにすき」では全く違うことだったのだが、彼女は今日はカニスキが食べられると思い込んでいたらしいのである。

 美味しい「カニすき」を食べられると待っておられた高齢の女性には、全く気の毒なことであったが、たぶん、ちょっとした聞き違い、思い違いが、こんな「がっかり」に結びついたのである。

 スタッフや聞いた私たちには「笑い話」であり、面白いエピソードなのだが、このお年寄りや、また幼い子どもたちにとっても、ただの聞き違いではすまされない真剣な大問題だろうと、しばし反省と共に、聞き違いが一大事に至らないように、しっかり確認する必要があることも自覚させられたのである。

 ごめんね、そう聞こえたとしても、真意を受け止めて笑ってばっかりいると困るよね。ちゃんと間違いなく聞くことを心がけたいね。

 でも、ちょっぴり楽しいし、言葉遊びとしては面白い時もあるもんね。
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4と9はラッキーナンバー!

2006年04月09日 | ファミリーイベント
 今日は4月9日なので、ふつうの日本人は4と9の付く日として、ちょっと嫌な感じを持つ方がいただろうと思われる。

 特に病院やホテルなどでは、4(死)や9(苦)をイメージするため、四階九階の表示がなかったり部屋番号なども4や9が嫌われて無かったりする。

 私にとっては全く逆で、いつ頃からか他人が嫌がる4や9がラッキーナンバーと思える様になり、現在も好きな番号として四と九をあげるのである。

 昔、昔の小学校の何年生の時だったか忘れたが、ある学年の学芸会での出し物で電話番号遊びで、舞台発表していたことを今も鮮明に覚えているのだが、4444の番号を死、死、死、死と読まないで、よし、よしと読んだら病院でも問題はないと言うのである。

 私は、その発想にえらく感動したことを覚えており、私に関する数字についての意識の記憶では、自分が設立した事務所の電話番号が9684であり、「苦労はしよう」と呼んだのが最初で、一年ほど経って仕事が順調に展開し、事務所を移転したら電話番号が変更され今度は4714、すなわち「しないよ」となったのだが、どちらにも4と9があったのである。

 また自宅の電話番号や自動車の登録番号など自分に関わる番号に、何故かことごとく4や9が混じっていることに気が付き、この番号が自分にとってはラッキーナンバーなのだと思い始めたのである。

 それからというもの何かにつけて選べる番号の場合は4か9を選ぶし、与えられた場合もほとんどの場合4か9が混じっていることが多く、なんとなく嬉しく思える様になっている自分に気づきだしたのである。

 4と9の効能は「49を良く」と読む以外にもたくさんあって、四苦八苦などと言うけれど一生懸命物事にチャレンジする時などは四苦八苦してこそ、いい結果や成果が与えられるものなのであり、楽に物事が成就したり成功したりすることはまずいのである。

 私の八百屋の宅配用に使用している軽四輪ワンボックスと家人が乗っている軽の乗用車の両車両とも中古車として購入した時から、何故か9713(苦ないさ)と
9684(苦労はしよう)で、正反対の意味なのに4や9が含まれており、私にとってのラッキーナンバーが続いていたのである。

 しかし、今年に入って自家用中古車を乗り換えることになり、八百屋の営業車を8081(八百屋一番)で登録し4や9と縁がなくなると心配だったのだが、家人用の車は展示時から819(俳句)だったので、9があるのと覚えやすさでそのままで登録変更することにしたのである。

 私の住まう住居表示は4丁目だし、自宅の電話番号にも4049(世を良く)と4と9が入っていて、これからも4と9と仲良く付き合っていきたいと思っているのである。

 数字を何かにナゾラエテ読むことで、もっと人生や生活を愉しむことも出来るので、皆さんも4や9を不吉な番号としないで仲良く付き合えば、四苦八苦の末でもラッキーが舞い込むこと請け合いですよ。
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