マーベラスS

King Of Western-Swing!!
歌と食と酒、それに声のページ。

ククク~(泣く。が、一転して)ガチョーン!

2010-09-11 15:22:16 | 芸能
このところ身辺、年寄りたちが次々に逝き、不祝儀が続いた。夏の暑さが和らぎ、安心した頃が危ないというのがボクの見方。 そんなことを考えていると、またしても…有能なコメディアンでありミュージシャンであった谷啓さんが亡くなった。


ハナ肇、植木等、青島幸男、その前には安田伸、石橋エータロー、次々に彼岸に旅立っても、最後まで谷さんだけはボロボロのお爺さんになっても生きていて、フラつきながらも、「ガチョ~ン」とやってくれそうな気がしていた。 もうクレージーも、桜井センリ、犬塚博の二人だけになってしまった…。


あの「ガチョーン」をやってみてというと、大抵の人は手を前後に動かすが、あれはカメラのレンズを操作しているのであって、谷啓さんは前から後ろへと気を掴み取るように、「引いて」いる。イヤミのシェ―が挙げた手をまっすぐに伸ばすように、正しいコピーをやってもらいたいもんだ。


ひと頃、ショーで音楽ものをやろうと声掛かり、オヒョイさんとナベプロでの企画会議の席に立ち会った。「スパイクジョーンズが好きで、ああいうのをやりたいって思ってるんですがね」と、その時分にも言っておられ、三つ子の魂百までを感じて恐れ入った。長くスーパーマーケットというバンドを率いて、そこで抱腹絶倒のCocktail For Twoの口パク芸を披露されていた。 だが冗談音楽とはかけ離れていた。
結局その企画は実現を見ず、惜しいことをしたが、冷静に見ると谷さん、オヒョイさん、浅野優子、みんな歌えなんだのでショーはなかなかツライ。


数年前、MBSでバッタリ会った時に声かければよかった。ひとの出会いなんてこんなものである。縁がなかったと思うべき。お疲れ様でした、もっと見たかったけれど、引きの芸をもって知られる谷さんらしいっちゃらしい。
あの世でまたクレージーや渡辺晋やフランキーなどとジャムでも楽しんでください。(敬称略)
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ドンピンで会った人

2010-01-18 22:41:00 | 芸能


         


かもめ、かもめ、サヨナラあばよ~~
浅川マキ亡くなりし晩に、ミッキー安川もまた。

出会いは小学校時代のローラーゲームだった。プロレスになかばマンネリ感を感じていた頃、東京12チャンネルという新興チャンネルと共に忽然と現れたスピード感ある格闘技に圧倒された。サンフランシスコ・ジャイアンツ、東京ボンバーズ・・・


怪しげなアメリカ人たちの中で互角に渡り合っていたのがミッキー安川だった。米国留学時代に身に付けたスラングで、ポーキーなどとやりあっていた正体不明のバタくさいおっさん。トラブルに油を注がせたら天下一品だった。


横浜のセントジョセフカレッジだかの出身で、EHエリック、岡田真澄、ウイリー沖山なんかと一緒に舞台に出たとか言ってたな。ウイリーはヨーデルの名手なんだがインド人なんだぜと語っていた。

中野鍋屋横丁の21という店で一緒になった。ここは故エディ・タウンゼントの奥さんがやるスナック。ミッキーさんは一杯やりながら米国武者修行時代のことを語ってくれた。


彼がいた時代は人種差別の厳しい時代。生意気だったし英語はよく解らないし、とにかくコテンコテンに殴られ続けたという。ある時、ぶちのめされて、あんまり頭にきたので、カウンターの中で沸いているスープの寸胴を相手の頭から浴びせてやったという。それからはようやく「あいつはcrazyだ」と認められるようになったという。存在を認めさせるには本気でケンカしなきゃいけないんだ、とそんなことを言ってたような記憶がある。


べらんめぇ調だが、下町風でもなく堂々たる体躯に青い背広なんぞをシュッと着こなして、ハマ育ちの颯爽たる米国帰りだった。テレビでガチンコでリポーターを務めた最初の頃の人ではなかったろうか。そして最後まで右か左かもよくわからぬ正体不明な人だった。若き日、日劇ミュージックホールでショーの合間のコントなんかをやってたというから、そういう謎の部分は詳らかにしない方がいいと知っていたのだろう。

あの世でもひと暴れしてください。合掌。


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たよりにしてまっせ・・・

2009-11-11 01:34:21 | 芸能


        

誤解を招くのは本意ではないが、森繁さんの眼は嘘つきの眼をしているように思えてならない。演じてきた役柄からだろうが、どこか狡い、計算高いものを感じて仕方がない。完全な善人ではなく、どこかうさんくさい。そう映ることをご本人も自覚していたはずだ。

だがその眼は半端でなく超一流の嘘つきの眼だった。よってアナウンサーから転身、舞台に映画にと大成することができた。「夫婦善哉」の柳吉の眼、「社長シリーズ」の社長の眼は甘い汁を吸うためなら出し抜く眼をしているのが判るだろう。

晩年、多くの年下の俳優たちを見送りながらも、何処まで本気なのかトボけたことを言っては記者を煙に巻き、何処吹く風みたいな顔してボクの同僚の女性ディレクターの手を握り、尻を撫でまわした。ボクには小狡く老いてボケた老人を演じているようにしか思えなかった。

一流の嘘つき森繁さんは喜劇の後輩たちに、最初はドタバタを演じていても、長じてシリアスな演技者にならねばならない、と説いた。伴淳も三木のり平も渥美清もある年代から、喜劇的なものを排した演技をするようになり、中原弓彦(小林信彦)が「森繁病」と名付け悔しがったように、日本の喜劇に乾いたスラップスティックコメディが育たぬ土壌を作るのに寄与した。森繁さんと対極的な存在がエノケン、榎本健一であり、若き日ムーランルージュで一緒だった由利徹である。シリアスな演技に転じた森繁さんが文化勲章をもらい、エノケンはともかく由利は無冠に終わっている。


森繁さんの「知床旅情」には元歌がある。
もうひとつの知床旅情のことを記した、4年前の久世光彦氏の週刊新潮の連載の切り抜きが手元にある。偶然、昨日の夜引っ張り出していた。虫の知らせか。

それは昭和35年、森繁プロダクションを設立し映画製作に臨んだ「地の涯に生きるもの」(監督:久松静児)の主題歌に森繁さん自身が書いたものだ。メロディは知床…と同じ。ここに再録させていただき、巨大な俳優の追悼とさせてもらう。


オホーツクの海原  ただ白く凍て果て
生命あるものは  暗い雲の下
春を待つ心  ペチカに燃やそ
あはれ東に  オーロラ哀し


さいはての番屋に  生命の火ちろちろ
トドの啼く夜は  いとし娘の瞼に
誰に語らん  この寂しさ
ランプのほかげに  海鳴りばかり


オレオレ オオシコイ  沖の声 舟歌
秋アジ(鮭)だ  エリヤンサ  揚げる網ゃ 大漁


かすむ国後  我がふるさと
いつの日か詣でん  御親の墓に   

ねむれ 静かに



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個人的・織田作リバイバル

2009-04-06 12:20:39 | 芸能

このところ、私的織田作之助リバイバルである。

友人が秋に織田の「わが町」を舞台にかけるというので、そのために
織田作フェア状態なのだ。実家の書架から文庫本を取ってきて読み返している。オダサク倶楽部の講演にも出かけてきた。
これは織田が大阪の恩人、と書いた「五代友厚」の初版本。



昭和17年、西区阿波座の日進社が発行元。
こんな気骨のある出版社はなんぼもあったが、もはや絶滅した。




持主はオダサク倶楽部仕掛人、井村身恒さん。
博覧強記、織田のことではまず知らぬことはない研究者。





読書人でもないので、ほとんど全集物など持ち合わせていないが、
織田作全集だけは別。作品もさることながら、その人間に惚れた。
若き日、織田の足跡を追うようにミナミを歩き回った。

織田作之助は大阪天王寺区下寺町の出身。「夫婦善哉」で一躍注目され、戦後は太宰、安吾と共に無頼派をなのり、戦後の一時期を風のように駆け抜けていった文士。焼け跡から大阪の可能性を書き綴り、東京に負けまいと奮闘し、最後は「土曜夫人」執筆中に東京で客死。討ち死にと言われた。


        


織田熱にうなされ、銀座の「バー・ルパン」にもよく出かけた。上は林忠彦の写真。太宰の写真で有名だが、その時、織田も一緒に居合わせた。

ここは天王寺区にある楞厳寺(りょうごんじ)。作之助の菩提寺。





織田の高津中学時代の同級生、田尻玄龍上人が95歳にして今も
お元気だった。母屋を訪ね、しばし織田作の話を拝聴す。

織田作の墓。
閑静なといいたいところだが、北隣の高津中学のブラバンのラッパの音がけっこううるさいのだ。





墓碑銘は藤沢桓夫の筆による。
織田の戒名の左は、一枝が並ぶ。
二人は此処にて永遠の伴侶となれりか。





二人は所帯を北野田(丈六)で持ち、一枝はよくできた嫁だった。
毎夜、友人詰めかける宴会の後片付けを全て済ませ、仕事に向かう織田の後ろにペタンと座り、織田が小説で使う漢字を辞書で調べた。原稿が朝方出来上がると、「これ編集者に渡しといてんか」と寝てしまう作。
一枝は過労がたたり、体を壊し癌となった。


      


妻を亡くした織田作は、「ワシが殺したんや」と葬儀の日、住職に呟き、泣いたと、田尻上人のお話。
その憔悴ぶりは「高野線」、「競馬」に見られる。「競馬」では死んだ嫁の名前の一ばかり馬券を買い続ける哀れな男の話を描いている。
その後、2度結婚するが、生涯一枝の幻影は捨て切れなかったようだ。


墓参りの帰り、精進落としではないが、ちょいと時間がある。織田作ゆかりの店で仕上げようと、自由軒に向かったが、ちょうど定休日。では、と同じ洋食屋で、精華小学校裏の「重亭(じゅうてい)」へ。この名前は古く、明治時代にはあった。その名前だけいただいたという。



ポークチャップ  この甘い、ドミグラスとは全然ちがうソースが、
なんとも懐かしい。

ビールを飲もうっ!




ミックスフライ。

海老、カキ、ヒレの盛り合わせ。




照り焼きステーキ


織田がここを知ってたかどうかは知らんが、波屋書房へ行ったり、
法善寺界隈に向かう前後、この路地も歩いていたのは確実だ。

そんな昔から、ひとつも味が変わらないのだろう。
これは今どき、見上げたことなのかもしれぬ。




         楞厳寺   大阪市天王寺区城南寺町1

         重 亭    大阪市中央区難波3



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ヨッ!ご両人

2009-03-13 00:50:00 | 芸能

たまにゃ、こういう写真もよかろうて。

左の方とはほぼ二週間に一度お会いしている。

右の方は本当に久しぶり。かつて左の方の家で呑んだっきり。


      


右の方が現役バリバリだった頃、左の人の番組企画で武道館の試合を観に行き、終わって、西麻布の徐々苑で打ち上げし、そのまんまバスに乗って
大阪へ戻った一行は、朝方、多賀SAで車がガクンと動き目を覚ました。
その朝、関西は阪神淡路大震災に見舞われたのだ。


かつて番組で野球をしたこともある。元神戸製鋼の大西一平も加わり
相手は春團治一門チーム。愉快だった。

まともに酒席を共にしたら、とてもぢゃないが木端みじんにされる猛者たちだ。豪快な酒での話はなんぼでもある。
一度はその拳で天下に君臨したアスリートたち、スカッとしている。


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