今日は2日目です。
午前中が元岐阜県歴史資料館職員の吉田義治さんの講義で、「信長公記」第3巻を読み解くです。
今日の資料です。
信長公記は1巻から15巻に続いています。
吉田義治さん。
信長の記録には小瀬甫庵の信長記と太田牛一の信長記が有りますが、 甫庵の信長記は主観的な記述となっていて太田の信長記は客観的に捉えています。両者を区別するため、太田の信長記を「信長公記」として区別しています。
信長公記が1巻から15巻になっていると言う解説です。
今日の資料。
信長公記の第三巻です。
3行目。
人数の事。
百済寺ノ鹿 ならびに たいとう。
正権・・・・・・。
字が読めない、それで意味も掴めない。
難しいと思いました。
午後の部の担当。
講師は田中豊さんです。
氏は愛知県の中学校長を勤められた方で郷土史家です。
教材。
清和源氏土岐由来記(その九.)
こちらは解読集です。
資料を解読したものですが、これでも意味を解し難いです。
この文書の出だし部分を解説する田中さん。
古文書の面白さ。
右は信長公記の一部です。
一番左の行にへそ村と言う箇所が有ります。そして、左は栗東市の綣と言う集落です。この場所。中山道を歩いた時に通過しました。自分が歩いた所が古文書に出てくる。その関連性が面白いと思いました。
また、信長が通った経路で香津畑とか千草と言う場所が載っていました。香津畑は東近江市の甲津畑で千草は菰野町の千草です。関ケ原を通る道でなく、鈴鹿の山を越えたのでしょう。
中山道を歩いた時、神戸町と大垣市の境界。平野井川の堤防に有った道標です。
左は 左木曽路。
右は 右すのまた宿〇。とあります。
今回、受講して千草山中道筋と言う部分が出てきましたので、道標の一番下の文字は道だと判りました。
信長が山の中で鉄砲で狙撃されたと言う部分なのです。
石柱の文字の並びから道ではないかとは思っていましたが、今回、知らなかった字を知る事が出来ました。
こう言うことに面白さを感じました。
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