遅いことは猫でもやる

まずは昔メールした内容をひっぱってきて練習...
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満腹・満足焼き肉店の巻

2015-04-17 06:21:31 | 行ってきました
 三河島店
 たっぷりとしたタン塩2人前
 牛星サラダキャベツにごま油、タレが垂らしてあるだけだが美味い。

グルメの次男が推奨の焼肉屋がある。日暮里界隈は新大久保や大阪生野区に似て、韓国(朝鮮)人が多いので、当然美味しい焼肉屋もあるはずである。ところが最近焼肉屋が馬鹿に高くなってきた。次男夫婦は夫婦共食べることが趣味に近いので、当然ながらエンゲル係数は高い。

その次男が見つけてきた、となり町三河島にある牛星というお店。ここは日本人経営のチェーン店らしい。詳しいことは分からないが、いつも予約なしでは入れず、2時間でオーダーストップとなる。

我々も予約時間ぎりぎりで飛び込む。店内はほぼ満席。家族連れも多い。まず生ビールとナムル、子供のご飯と韓国のり、を頼み、あとはゆっくりと肉の選定にはいる。

定番の塩タン、カルビ、ハラミにハツ、続いてミノ、ホルモン、レバー、など、この夫婦と一緒だとついつい頼みすぎてしまう。散々食べた上に、おいしそうだからとカルビうどん(確かにピリ辛でうまかった)を頼み、その上冷麺も注文し、3人でシェアした。

タレも塩も美味しいし、レモン汁まで添えてあり、飲み物も安い。満腹の上大満足で、今回も店を後にした。

これでは減量はおぼつかないと少し後悔しつつ腹を擦った。

 皿からこぼれ落ちそうなナムルタワー(これで一人前)
 上カルビとレバー
 お腹が膨れさすがにペースダウン
 ハツとハラミ
 ホルモンと上ミノ

浅草演芸ホール

2015-04-16 14:57:26 | 行ってきました


夜行列車カシオペアに乗ってみようと、上京した機会があったので、ついでに浅草に寄って演芸ホールに入ってきた。

以前は東京で少し時間があると、すぐここに来て楽しんだほどの落語好きだったのだが、新宿末廣亭、上野鈴本、浅草東洋館、木馬亭とひと通り回った頃から少し熱が冷めたか、足が遠のいた。

 仲見世中門
 浅草寺本堂前
 五重塔前のピンクの桜が綺麗に満開だった

10時半頃に浅草に着き、まずは仲見世を通って本堂にお参り。人出はそれほどではないが、中国人、欧米人が半々くらい。3割が日本人と圧倒的に外国人が多い。これも円安のせいだろうか。線香の煙を被ったり、おみくじを引いたり、日本人と全く同じ仕草をして楽しんでいる。

そのまま、まっすぐ演芸ホールに向かったが、なんと開場は11時15分、隣の東洋館は12時00分だそうだ。演芸ホールは東洋興業(株)直営館だとのこと。東洋館は一体なんだろうか。
時間があったので、近所をふらふらとしたが、商店街はほとんど開店前で閑散としている。ホッピー通りもビニールの覆いがたたまれていた。この街は夜型なのだ。しかし朝飯を食べに定食屋に入ったら、朝からウイスキーの水割りを飲んでいるおっさんがいた。ご機嫌でおかわりまでして店のおばさんとやりとりをしている。いかにも下町の食堂だ。

 商店街を裏に回るとこうしたベンガラ色の外壁に黒のハカマを履いた粋な建物があった。
 園芸ホール前の桜はぽってりと花を付け、緑の葉が顔を覗かせている。ソメイヨシノではない。
 夢花の舞台

ホールに入るとさすがにまだ15人位がパラパラと座っていた。笛と太鼓の出囃子が幕の下がったままで鳴り、前座の稽古とおぼしきが定かではない。11時40分開演。前座が面白おかしく、携帯電話のスイッチを切ってくれと語る。次の演者も、その次の演者も同じことを言うが、言い方はみな違う。「私の出番の時はいいんだが、次の演者の時は、或いは真打ちの時は是非切ってくれ」とお願いする。笑いを誘うような話方なのでそれも芸のうちだ。

当日は4月上席後半最後の日であった。三笑亭夢花、笑福亭鶴光の千秋楽の踊り、東京ボーイズの漫談・語りなどそこそこ面白かった。小遊三はそれほどでもなかった。途中から静岡からの62人の団体客が入ったが、出入りの際ざわざわと客席がするのを、座布団を裏返しに出入りする前座がきっと前を向いて客席を見つめ続けていたのが、健気である。

ここは昼夜入れ替えなしなので引き続き聞こうと思えば、ずっと居られるのだが、孫を保育園へ迎えに行かねばならぬので、残念ながら昼席主任の三笑亭茶楽の落語を最後に外へ出た。

外はいつのまにか細かい雨が降っていた。

高雄の夜市

2015-04-10 04:12:25 | 行ってきました
 通りに広がる夜市
 イカ、タコの足の炙り

高雄で泊まった際、夜少し時間があったので、夜市見物に出かけた。ガイドは「歩くには一寸時間がかかります」と案内してくれたのだが、一日中バスで移動し、腹もふくれていたのでホテルから歩いた。早足で歩くこと20分、行けども行けども見えてこない。道端の屋台のおばさんに聞くとアッチだと指さして教えてくれる。道は間違っていなかったが、おそらく3km近く歩いたのではないか。やっと到着。

大通りを交通止めにして両側に露天が並ぶ。海鮮が多い。マンゴー、サトウキビジュース、野菜も売っている。お菓子やクスリ、健康器具など様々だ。入り口に占いの店もあった。商売熱心だけど、タイや韓国ほどしつこくない。行列ができている店もある。腹がいっぱいなのが恨めしい。今度来るときは腹をすかせてこよう。

蓮池潭の塔の階段登りと、ここまでの早足で足に張りが出てきた。帰りのタクシーの運転手も料金をふっかけるわけでもなく親切だった。

台湾は飯もうまいし、概ね親切な人が多いし、日本語もそこそこ通じる。穏やかな外国である。
また来よう。腹をすかせて。

 活海鮮物
 海鮮の揚げ物
 サトウキビジュース

駆け足台湾旅行

2015-04-09 03:35:28 | 行ってきました
 赤崁楼入り口

台湾は40年ぶりであったが、台中、台南は初めてである。二日目は駆け足で台中から台南、高雄までバスで走った。
台南は台北以前の都、200年強近く続いた。17世紀アジアのほとんどの国は日本同様、鎖国状態であったが、オランダ、ポルトガルは韓国、日本への中継基地としてこの地を統治した。

 赤崁楼
 目を引く亀の石碑
 鄭成功談判の像

時の提督鄭成功はオランダ政府を打ち負かし、この地から追放した英雄として有名である。赤崁楼は1652年オランダにより建てられた海岸沿いの建物で、、当時、プロ デンシャ城(紅毛楼)と呼ばれ、植民地行政の中心になっていたところである。

しかしオランダの名残はレンガ作りという以外殆ど無く、中には鄭成功の肖像画があるばかりである。小じんまりした建物で、蘭もそれほど力を入れていなかったのではなかろうか。

 湖畔に聳える七重の塔
 龍口と虎口
 最上階からの眺め
 この塔への通路

次は高雄の蓮池潭。龍と虎が口を開けており、龍から入って虎から出れば幸運が舞い込むとの言い伝えだそうだ。逆はくれぐれもダメですよ、とガイドに言われ同じような手順で潜るが、中の壁は沢山のフィギュアが貼り付けてある、いかにも中華風な廊下である。七重の塔へも急いで登ったが、10分しかないと息を切らせて7階まで登ったがなんてこともなかった。
卍橋のたもとには蓮の花が少し咲き、そこだけが落ち着いた色合いの一角であった。

ついでながら、極彩色のお寺は、何となく馴染めないが、その一方で台湾では拝観料はナシ、おみくじも無料、高速道路もタダ、消費税もないようだ。この点では日本より住みやすそうだ。 この後寿山公園に回ったが、夕暮れ迫る港に面した公園は、忠烈堂も併設され、指圧効果のある砂利道と[LOVE」文字の記念撮影モニュメントがあり、サービス精神に富んでいた。感心するほど大げさではないが、なにか微笑ましい善意が感じられる。

ご縁

2015-04-08 03:09:51 | 雑感


友Mを送った日の午後、参列した級友別れがたく、近くのレストランで昼食兼宴会をした。その際出た話で、亡くなった友が何故入院だと気がついたか。それは、友人Kが主催している句会へのMの2月の投句がなかったからだ、ということであった。

その席で、「気易い句会なので、よかったら貴男も参加しないか。師匠はいないけど切磋琢磨でいつの間にか上達するよ」と勧められた。全然自信はないが、佐伯泰英の吉原裏同心の俳句ぐらいならできそう、と気安く参加の約束をした。これもMが残してくれた縁なのかもしれない。

家に帰り、試しにつくってみると、今回は友の死というテーマはしっかりしているのだが、なにせ初めて、言い回しや季語など何分手が回らない。こりゃあ我流ではダメだと薦められた季語辞典を買い、ついでに(知識ゼロからの俳句入門」(金子兜太)を取り寄せた。

まだパラパラっとしかめくっていないが、なにやら細かいことが書いてある。そういえば俳句は、日本的な繊細なる感性を磨く芸術のジャンルだったと、今更ながら思い出す。迷い道にうっかり踏み込んだかとちょっぴり後悔する。

今回の習作は次の5つ


 宴果てぬ 友逝きし日の花の宵

 花朧 彼方で微笑む逝きし友

「春寂寥」(寮歌)終りて棺動き出し

 励ましの葉書還るや寒き午後

 ゆくりなく弔辞読む春声途切れ  *ゆくりなく=突然の


ちょっと恥ずかしいが、これもご縁である。読者の添削をいただければ幸いである。

粘り強く

2015-04-07 00:20:44 | 雑感


一昨日からパソコンの調子が悪かった。何度試みてもインターネットやメールがつながらない。原因がADSL接続なのか、ルーターなのか、ケーブルなのか、パソコンなのか機械に疎い私にはさっぱりわからない。

そこで、パソコンに詳しい二人の息子の中、より丁寧に教えてくれそうな次男に聞いてみた。勿論用件は長男でも果たせるのだろうが、暫く彼とは連絡が疎になっていたこともある。

遠隔地にもかかわらず、果たして彼は、粘り強く丁寧にチェックをし、原因を探ってくれた。まずはケーブルの接続の入念なチェック、次はパソコンの内部のチェック。私はメールと、ブログ書き、と若干の検索をするくらいなのだが、彼からは触ったこともないアンダーバーのアイコンを開くよう指示が飛び、ひとつひとつ丁寧に確認しながら点検してゆく。

電話でのやりとりでは、パソコン音痴に近い私は、何を指示されているのかが時々わからなくなるが、彼はそれを怒りもせず、バカにもせず、根気よく丁寧に指示をし答えを聴いてゆく。彼は子供に対しても奥さんに対しても、めったに怒らず、丁寧に対応している。仕事中の時間を割いて、20分ほど掛かった末に「ウインドウにその表示が出ているなら通じているはずだよ」という落ち着いた声が聞こえた。やってみたら無事回復しているではないか。

2重の意味でうれしかった。インターネットが復活したことの他に、彼の丁寧な応対、粘り強い点検と指示、電話でのやりとりでここまで複雑な点検をやってのけた、専門家としての技量と、よくわからない我々に対し粘り強く付き合ってくれた忍耐力に感謝した。

長男といい、次男といい、或いはその配偶者といい、私はとっても良い家族に恵まれている。勿論その淵源は一番身近な家内であることは言うまでもない。

週刊誌連載エンターテイメント

2015-04-06 12:31:21 | 

真保裕一「アンダーカバー秘密調査」小学館2014年刊
本編は2012年~2013年週刊ポスト連載小説である。週刊誌連載小説らしく、毎週興味を持たせるような進行と展開で、正にジェットコースターに乗せられているようなスピード感だ。

物語はライブドア堀江貴文を彷彿とさせる若きIT経営者がフィリピンで麻薬密輸の疑いで逮捕される。会社は破綻、資産は没収されるが5年後無実が認定され開放される。そこから何故自分が嵌められたか真相究明に立ち上がる。一方ヨーロッパでは麻薬捜査官が、マフィア幹部の惨殺事件に遭遇する。操作はイタリア、トルコ、スペインと舞台は移り、やがてアメリカ、日本へと飛び火しクライマックスを迎える。

最終場面の展開には、やや飛躍があるが、興味をつないでゆくストーリーの語り口はなかなかである。国益のために諜報活動と謀略を巡らすことは当たり前だとする欧米と、のほほんと暮らす日本人の対比はむべなるかなとおもわせる迫真の描写だが、一方警察組織の縄張り争い、自己保身傾向もうまく描き出されている。
間を置く時間が惜しいと思わせるアクションミステリーであった。

エンターテイメントとしては一級品であろう。



ターキー

2015-04-03 02:38:26 | 雑感
 浄土に咲くと言われる蓮の花

七面鳥。クリスマスのご馳走かと思っていたら「気の利かない役立たず」というスラングとしてもつかわれるそうだ。
昨日、長男の電話の受け答えに「よくぞ成長してくれた」と感激したのには、私自身の消え去らぬ苦い思い出があるからなのです。

32,3の頃だったか、正月休みを家族ぐるみで高山で過ごしたことがあった。雪の残る三之町で酒屋巡りをして、しこたま日本酒を買い込んだ帰り道、尊敬する伯父さんの家に立ち寄った。
商売もうまかったが、人情味が厚く、いつもお宅には人の出入りが絶えなかった。私は幼年時代一年近くこのお宅に預けられ、子供がいなかった伯父さんは、真剣に養子に貰いたいと私の親に申し込んだそうだ。厳しくも暖かく育てられた私は、その後学生時代もトラックの後ろに乗って、荷降ろしなどのなどのアルバイトをし、年末には静岡県まで集金をしに行ったこともあった。

とにかく人並み以上にこの家では可愛がられ、その後女房と婚約した際真っ先に報告に行った。突然現れた二人に伯父さんは狼狽し、我が家に電話をかけてその真偽を確認したほどであった。どうもその時まで、まだ婿養子に迎えるという心づもりをしていたと思われる。

それはさておき、正月四日に訪れた時、伯父さんはがんに罹っており、はやりの紅茶キノコなどを供してくれた。その効用などを説明しながら、「おい、このままもう一度みんなで高山へ行かないか?」と真剣に言い出した。勿論私は現役で、明日から仕事始めの忙しい業務が待っているので、また今度にしようと断った。その時の表情はいかにも残念そうで今でも目に浮かぶ。日頃はしつこくない伯父さんが二度も三度も同じことを言ったのに、それを断ったのは、まことに気の利かない男であった。いくら仕事はじめとはいえ、会社の仕事などどうにでもやりくりはつくはずであったが、「私がやらなくては」という若い者特有の自負心が、彼の心を忖度する余裕を失わせていた。おそらく伯父さんは病状を悟り、最後の思い出つくりにと私を誘ったのだろう。そんな気持ちを察することができなかった、未熟な自分を悔やんでも悔やみきれない。思い出す度に後悔の念に苛まれる。

それに比べ、通夜の夜の長男の電話での受け答えは打てば響くように人の気持ちがわかっている。鳶と鷹、ターキーと鴨くらいの差がある。

通夜の日の花見

2015-04-02 00:42:01 | 雑感
満開間近のソメイヨシノ
 見ると重さを感じるほどだ

一気に春の日差しになり、桜もいっきに満開ががちかくなった。桜好きの私としては血が騒ぐ。上野公園は人混みで大変だろうと、近くの公園に長男一家と花見に出かけた。さすが東京である。折しも春休みなので人出が多い。満開間近、まだ散り始めまでは日があるということで絶好のタイミングである。日差しはあるがソメイヨシノのたわわな花房が、陽光を遮ってくれるヨシズの役割をしてくれて快適である。

ぽつんと一人で缶酎ハイを手にしているおじさん、それぞれ子どもとベビーカーを並べているママ友会、若いカップル、2,3人の女子会、缶ビール片手に何やら愚痴話に終始している男二人、2,30人のおばさん中心のグループ、熟年の落ち着いた夫婦、お弁当を広げる家族等、様々な人間模様だ。おばさん達のグループが中堅社員の仕切りに、立ち上がった中年男性が「エー、2時間しかありませんが楽しんでください。それと今期目標◯◯億円、達成するぞー、がんばろう」と檄を飛ばす。生保の会社だろう。仕事の話は会社でしてくれ、酔っ払う前から無粋だなあと思うがこれが日本の現実か。

 移植した桜

とにあれ、砂埃も立たず、露天もなく、ゴミ箱だけは完備した清潔な公園での花見は快適だ。この公園は4,5年前に改修した際、半数の桜を移植した。その際剪定をしたので、幹と枝の太さが極端に違う樹がある。しかしそれは花の密度が高い。桜も適切に選定すれば花は密生するのがわかる。「桜切るバカ」と言われるがそうでもないようだ。好天と相まって桜を満喫した。

この日お通夜の帰り、駅から一人で帰る道すがら、友の死がどうにもやるせなく、一人でも飲んで帰る旨電話したら、長男が電話の向こう側で「僕で良ければ付き合おうか」と即座に申し出てくれた。人の気持ちの解るいいやつに成長してくれたと感激した。10時近くだったが、この時間送り出してくれる嫁さんの理解があってこそであろう。
お陰で飲み屋で気張らずに、息子の前で涙を流れるに任せて友人との思い出を話すことが出来た。良い友と良い家族に恵まれた幸せを噛み締めた。

艶やかな桜と友のお通夜も妙なとりあわせではあったが、不幸な出来事と、幸せな空気に包まれた不思議なひと夜であった。

友逝く

2015-04-01 15:54:04 | 雑感


大学時代の友人が28日亡くなり、お通夜と告別式が昨日と一昨日にあったので急遽参列してきた。私にとっても他の級友にとっても、おそらく最も親しかったといえる人物であった。山岳部に属し、現在は母校の学士山岳会会長として、退潮傾向にある山岳会を立て直しに尽力した。見舞った時も、現在現役部員が21名になっていると嬉しそうに語っていた。山岳部に属しスポーツ万能のたくましい男であったが決して粗野ではなく細かい気配りに富んでいた。我々のクラスは個性的な人間が多かったが、情の厚さはU君と並んでいた。K,Y君は才に長けた方だったが彼等とも仲がよく、面倒見の良い彼は、いつしか皆に愛されクラスのリーダー的存在になっていた。

彼とは在学中より社会に出てからのほうが繋がりが深くなったような気がする。名古屋勤務の頃は「ジョニーウォーカーが手に入ったから飲みに来ないか」と連絡をもらって駆けつけると、全然知らない仲間が大勢集まっていたり、大阪転勤の際、初めての土地で不安に思って新大阪の駅の改札口を通ったらそこでばったり鉢合わせをしたとか、大阪でのクラス会では3次会で飛田新地の案内をしてくれたとか、近所の人達・職場の若い衆との合同サッカーチームに誘ってくれたりとか思い出は尽きない。その後の東京勤務時代にも付き合いは続いたが、名古屋支社長で戻ってきた際、スナック仲間(同級生、職場の部下など)で山歩きの会を組織しあちこちに出かけた。山歩きだけでなく、蛍狩り、陶器作り、キノコ狩りなども楽しみ、活動範囲も滋賀県から神奈川県まで及んだ。関連会社の社長に赴任し関東に勤務していても、実質的にプランニングし引っ張っていってくれたのは彼であった。忙しい中、こまめに計画を検討し、いろいろな手配をよくぞしてくれたと頭が下がる。高校同窓のI氏もいつの間にか仲間としてご夫婦で参加してくれるようになった。どちらかと言えばシャイな人でも引っ張り出してくる彼の組織力の凄さを見た思いであった。

また、几帳面さを買われ、1979年の初めてのヒマラヤ遠征の記録誌アンナプルナⅡを始めとし、山岳会行動記録誌、周年記録、友人の遺稿集などを一緒に編纂した。

お通夜も。告別式も大勢の人が参列したが、焼香後も殆どの人が残り、帰る人が少なかった。皆別れがたい特別な思いがあったのだろう。弔辞が5人に及び30分を越えたが、いずれも形式に流れず、心に残るものばかりであった。交々言われているのは、彼の心遣い、気遣い、前向きな姿勢である。勤務先、クラブ、級友の中でも先輩からも一目置かれ、後輩にも慕われ、激励されたという点で一致していた。勿論弔辞で悪口をいう人はいないが、我々の日頃受けていた印象としっかり符合するので、彼は生涯どんな立場においても、周りに対する心遣いをしていたのだと、尊敬せずにはおられない。
21名の同級生の中で3番目に亡くなった。我々の中で最も頑健な身体の持ち主があまりにも早く逝ってしまった。良い奴ほど早く逝く、と誰かが言っていたが正にそのとおりだ。寂しい限りである。

ただひとつの救いは、久しぶりに懐かしい級友と顔を合わせ、グラスを傾けることができた。これも彼のお陰であろう。冥福を心より祈る。