mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

流言飛語が庶民の情報源

2016-07-23 08:50:13 | 日記
 
 真保裕一『赤毛のアンナ』(徳間書店、2016年)を読む。一人の身寄りのない少女とその周辺の人たちの「成長と理解」の物語。何のことかわからないって? そう、主題の印象を記すとこうなるのだ。
 
 物語は、何だか輪郭がぼんやりと不分明に描かれてはじまる。「赤毛のアン」のものがたりを、登場人物たちの共通の視界におさめ、その他のことが「噂」を通して入り組みはじめる。見ようによっては、人はほとんど「噂」によって自分が接する人物や世界の全体像をイメージして向き合っていると言いたいように思える。そして、ある出来事をきっかけに「赤毛のアンナ」の具体的な「かんけい」を明らかにしていく筋道。そうまとめてしまうと簡単だが、はて私は、どのように私自身の輪郭と世界を描きとるのに「情報」を獲得しているだろうか。すると、「噂」とさして違わないレベルの「情報」処理のしかたしかしていないのではないか。そう思えてくる。
 
 学者の本を読んでも、その根拠の一つひとつを丹念に検証して、腑に落としているわけでもない。私自身の性癖としていうと、学者の(調べ上げた)主題を私の文脈に組み替えて、なるほどというところはそれなりに、おやっ? と感じるところは(ひとまず)棚上げして、次へ読みすすめる。おやっ? ってところも、すぐに棚上げしたことを忘れて、そのまんまに放り出しておいたりするから、検証しない「噂」の取り扱いとそれほど変わらないように思える。
 
 つまり、私たちは、「噂」を情報源として、自分の理解しやすい物語に組み替えて得心し、いったん得心してしまうと、頑なにそれを堅持してそれに連なるコトゴトを判断していくという「噂」の連鎖に陥っている。むかし、太田竜という評論家が十分流の情報・伝達・流言飛語を駆使せよというふうなことを書いていたが、今考えると、その通りに庶民である私たちは、情報処理をしているなあ。感心して納得しているのではない。ずいぶん危ういなあと自戒しているのだ。
 
 では、どこに「真実」を見極める視点を据えるか。真保裕一の提示する視点は、まさに取材者としての丹念な「調査」においている。だが、私たちの日常でそのようなことをするわけにはいかない。思い切った決断を下すことが出来ないことに立脚して、いつまでも「棚上げ」にしていろんな情報に耳を傾けるほか、術はない。思えば、アメリカの大統領選にしても、口舌では威勢のいいことを言っていて、その実、おさまりのいいところに落ち着かせるというトランプ流のやり口が流行りでもある(案外、その落としどころに落ち着くのが民主主義のいい点かもしれない)。せめて、勢いに振り回されないで、調子に乗ったときこそ、踏みとどまって「そうか?」と考え直す保留点をつくっておくことかな。
 
 老い先の短さを考えると、まあ、その程度の「自戒」で何とか現世をしのいでいけるだろう。そんなことを考えさせてくれた。