mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

違う違う、「深み」に落ちているのだ

2016-07-02 21:00:10 | 日記
 
 6/30のこの欄で「自民党の参院選コマーシャル」のことに触れた。
 
《安倍首相の「いま日本は前進しています。所得もよくなっています。景気は回復しているのです」と声が流れる。この、安倍総裁(自民党)は何を見ているのだろうか、と思う。「前進している」って、何が? 「所得が良くなっている」って、誰の?》
 
 と、疑念を提示してから、「ウソも百篇繰り返せばホントウになるという「我が闘争」を想い起す」と不信感を突き付けた。だが、ふと気づいた。安倍首相は騙そうなんて思っていないんじゃないか、と。
 
 こういうことだ。安倍首相がラジオでいう「いま日本は前進しています。所得もよくなっています。景気は回復しているのです」というのは、じつは、彼自身がそう言われたいと思っていることではないのか。たぶん彼は、国民もそういうことばを聴きたいと思っている、と思った。耳当たりのいいことを聴きたい。自分の聴きたくないことを耳にしたくない。いつも親しく同伴しているような心地よく響く言葉を耳にしていたいから、「お仲間」政治と言われるのではないのか。
 
 つまり彼は、ナチスのように「ウソも百篇繰り返せばホントウになる」というほど、自分のいっていることを間違っていると思っていない。だから恬淡と公開討論の場において自信満々で応対できるのだ。サミットでだって、ほかの首脳が「リーマンショックのような事態が迫っている」とは思わないのに、それを証明するような、財務省の知らない「データ」をそろえて提示した。だから、「日本は前進している」というデータだって、彼の側近はあれやこれや並べて提出しているのであろう。日本が後退しているというデータは彼が見たくもないデータだと(側近には)分かっているので、目に留まらないのであろう。「所得が良くなっている」データも、同様なのではないか。
 
 つまり彼は、自分に批判的、対立的な意見や批判は耳にしたくないという態度を日々貫いているから、側近もそれを十分熟知して彼に伝えようとしない。何だそれでは、むかしのバカ殿ではないか。
 
 バカ殿よりはヒットラーの方がよいとは思わないが、考えてみると、今のご時世そのものがバカ殿万歳の世の中になっているのではないか。TVをみていると、外から見て褒められる日本人とか、クール・ジャパンとか、褒められる構成の番組が多い。いまの若い人たちは、褒められること、自分に耳当たりのいいことづくめで過ごしたいと思っているようである。
 
 疑問を提示することや、批判することを、攻撃ととらえる若い人たちが多いことは、もう何年も前の大学生とつきあって驚いたことがある。大学の教室でさえ、疑問や批判を投げかけられることを「ひどい」と非難する。それを目の当たりにして「それはおかしいよ」と問題化した私に、学生たち(の半数くらい)はブーイングをした。このとき私が感じたのは、教室にいる学生たちは、「場」を共有しているにもかかわらず、「共同性」を感じていないということであった。だから彼らは同じ教室で学ぶ学生たちのことを「敵」とみているのではないか。耳当たりのいいことを言ってくれる友こそが、ほんとうの友であって、批判したり、疑念を提示したりする友人なんて、いるわけがないと思っている(のかもしれない)。
 
 そこまで考えると、安倍首相のセンスも理解できる。政治家である彼は、当然ながら彼に批判的なことばを投げかける人たちは(なにがしかの意図をもった)「敵」である。敵のことばはどうかわすかが一番大事なこと、と考えているのではないか。彼は自分がメッセージを送る側、受け取る側とは考えていない。
 
 日本の社会全体が、陥っている「深み」があるように思う。豊かな社会を経て、耳当たりのいい時代を過ごしてきた私たちは、ひょっとすると、「日本を防衛する」というよりももっと大きな「自己防衛問題」に直面しているのかもしれない。つまり私の出逢った学生さんたち同様に、敵に囲まれて油断すると(ヘイトスピーチを投げかけられるように)何が起こるかわからないと、身体を固くして身構えていることが必要と説いているとみえる。やたらと「対外的な鎧を用意しよう」という安倍首相の期待していることは、じつは、自身(の依拠している根拠)に対する自信が揺らいでいて、必死で防衛をしなけりゃならないと考えた結果なのかもしれない(そういう自己対象化するような視点は持っていないだろうけど)。
 
 そういう視点で、どなたか、社会学的な解析をしてくれていないだろうか。