mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

まったく他人事としての物語

2016-07-04 16:04:16 | 日記
 
 桐野夏生『バラカ』(集英社、2016年)を読む。
 
 2013年11月12日のこの欄で、桐野夏生『優しいおとな』(中央公論新社、2010年)を『ポリティコン(上)(下)』(文藝春秋、2011年)の続編に位置すると位置づけてとりあげている。
 
 《先天的に単独者として出生したのではないかと思われるほど、あらゆる関係において孤絶感を持つ主人公の少年が、人に対する「愛着」を抱懐するようになる過程を、極地の場面において展開している。現代における人間の「孤立感」が何に由来するかと問うよりも、まず気づいたときには「孤独」であったという設定は、自己意識の誕生を契機とするととらえれば、極地を想定するまでもなく、むしろ自然なのかもしれない。「自己意識」とは「孤独」の別称であるからだ。》
 
 この『バラカ』は、自己意識としての孤絶感というよりも生まれながらの孤独という設定であるから、言葉を換えていうと、神の眼から見た孤絶感がストーリー全体を流れる通奏低音になる。つまり当人の自己意識としてはそれほど強烈な「孤絶感」はなく、むしろ読む者が「孤絶感」の行き着く先に見える着地点を見晴るかすようなテーマになっている。
 
 だが何がその「孤絶感」を増幅する作用をしているかとなると、ずいぶんと陰謀史観的な組み立てをしている。折角、3・11以降の後を見据えて、21世紀の半ばまでを視野におさめながら、何処の誰ともつかない、目に見えない「なにか」によって、追い詰められていくという構成は、いくらなんでも世界を単純化しすぎてつまらない。「折角」というのは、放射能という「目に見えない」脅威にさらされていることを、誇大に、象徴的にしないとストーリー展開のモメントとしては力不足と思ったのだろうか。
 
 世界を見る目が単純だというだけではなく、一人ひとりの登場人物の描き方も、卑俗に類型化しているから、誰もかれもがつまらない人物に見えてしまう。読む者としては、途中で投げ出さずにと読み続けるのに苦労した。つまり読む私への批判的な食い込みが、まったくと言ってないほど、他人事として物語が進行してしまっている。
 
 3年前にも読後感に、
 
 《どのような成育歴を持つにせよ、「自己意識」が生まれるまでの間に、体に刻まれた記憶がある。体に刻まれた記憶というのは、無意識へインプットされたことごとを指している。それが現実の具体的「かんけい」において作動し、「親密さ」を伴う「愛着」へと結びつく。実際に物語はそのように展開するのだが、体への記憶を描こうとしていないために、「社会学実験」のような想定を持ち出さなければならなかった、とは言えまいか。》
 
 と記した。「体への記憶」というのを、人物像を描くときのベースに組み込んでいないために、このような浅薄な描き方になるのではなかろうか。取り扱うテーマ、視野におさめようとする社会関係が壮大であるだけに、惜しい作品といわねばならない。この作家は、頭でっかちなのだろうか。