北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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ベイエリアを歩こう~2024 その4~

2024-06-21 19:44:05 | 函館

 

2017年12月に撮っていた写真。

ベイエリアの整備事業が着手された時期で、完成後のイメージ図が描かれていました。

 

 

 

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それから約6年半。

函館を離れている間に、再整備事業が完了していました。

 

 

遊歩道が広く整備され、ゆったりと歩き回ることができるようになっています。

 

 

その一角にある、小さなブロンズ像。

 

 

なかなかのイケメンのように見えますが、誰でしょうねえ・・・。

 

 

ボートに乗っているのかな?しかも裸足?

 

 

正解は、同志社大学の創立者として知られる「新島襄」のブロンズ像でした。

2013年に放送された大河ドラマ「八重の桜」で、綾瀬はるかさんが演じた主人公の伴侶として登場していましたが、実は函館にも縁の人物なのです。

 

新島襄は、現在の群馬県である安中藩の下級武士の家に生まれ、元服後、アメリカの地図書きに触れたり、幕府の軍艦操練所で洋学を学んだことから、当時は鎖国のため禁止されていた海外渡航を夢見るようになりました。

西部地区のほぼ中心部にある「基坂」の中腹に、かつて「諸術調所」という、五稜郭を設計し、「東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチ」とも呼ばれていた「武田斐三郎」が教授をしていて、蘭学や砲術、航海術などを教えていた幕府直轄の学問所があり、襄は、この諸術調所に入るために、1864年に箱館にやって来ました。鎖国下にあって、横浜や下田よりも警備が手薄な箱館であれば、海外渡航もたやすいという思いもあったと考えられています。

折悪く、武田は江戸へ帰ってしまっていたため会うことは叶いませんでしたが、塾頭であった長岡藩士「菅沼精一郎」に、ロシア領事館付きの司祭であった「ニコライ」を紹介され、そこに匿われながら英語を学ぶと共に、ニコライに対しては古事記を読み解き、日本語を教えるという関係になっていました。

「ニコライ」については、先日アップした「ハリストス正教会」の記事で、幾つかのエピソードを紹介していますので、再掲します。

 

 

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このブロンズ像は、彫刻家の「峯田敏郎」氏によって作られた、「記念撮影 未来への始まり-海原-」というタイトルで、2002年に建立されました。

襄が、箱館から密出国すべく、小舟に乗り込んで外国船に向かう姿を再現していますが、密出国のために船に乗り込んだ現場は、実はこの場所ではありませんでした。

 

 

 

ということで、続いては、その密出国の場へとご案内します。

こちらの解説板のとおり、先程のブロンズ像から約350m西へ向かった所にあります。

 

 

 

 

ニコライに匿われていた襄は、剣術指南でロシア領事官に通っていた「澤辺琢磨」と知り合い、襄から脱国の意思を告げられた澤辺は、先日の記事で触れた、「日本最初の気候測量所跡」の「福士成豊」に話を繋ぎました。福士は外国人居留地のイギリス人「ポーター」の商会に努めながら英語を学び、外国船船長や奉行所役人にも顔が効いたことから、密出国の手はずを整えることに協力しました。

襄が脱国したのは6月14日(旧暦)でしたが、この日は澤辺が神主をしていた神明社という神社の例祭の日で、皆が浮かれて警戒も緩むと読んだ澤辺の智恵付けにより、1艘の小舟で沖に出た後、湾内に停泊するアメリカ商船「ベルリン号」に辿り着き、密出国に成功しました。発覚すれば関係者全員死罪も免れないと言われたほどの決死行で、そのとき奉行所の役人に見つかるも、顔の効く福士がうまくとりなしたとされています。

その後の襄は船主などの援助でアメリカで学び、かのクラーク博士からも教えを受けたとされ、キリスト教が解禁になった1874年に帰国し、後に同志社英学校(現在の同志社大学)を創設しました。

 

 

この記念碑は1952年に同志社大学から函館市に寄贈されたもので、「男児決志馳千里 自嘗苦辛豈思家 却笑春風吹雨夜 枕頭尚夢故園花」という、襄が上海で作った漢詩が自筆の碑文として刻まれています。

「我は大志を抱き、遥か異国の地へ馳せ参じる。このことは自ら選んだ辛苦であり、家族のことなどは思っていられないが、風が吹き、雨が降る夜には、家族のことが枕元で夢に浮かぶ」というような趣旨の詩と思われています。

 

 

最後に、「襄」というのは実は本名ではなく、乗船していた「ベルリン号」の船長であった「ジョセフ」の略称として授かったもので、本名は「七五三太」(しめた)と言いました。

 

 

碑の側の海。

初志貫徹すべく、ここから旅立ったということになるのですね。

 

 

 

グーグルマップにスポットとして登録されていませんでしたが、場所は↑のとおりです。

 

 

続いてはこちら。

 

 

「東浜桟橋」とあります。

桟橋として現役ではありませんが、ここも、ベイエリアの散策スポットとして外せない場所です。

 

 

ここは1871年に設置された桟橋で、元は木造でした。北海道の玄関口であった青函航路の発着場所として利用されましたが、1908年に青函連絡船が就航し、函館駅の横に新たな桟橋が開設された1910年以後は「旧桟橋」と呼び名が変わりました。

小型船や作業船が多く往来し、対岸の七重浜へ海水浴客を運ぶ発着地となっていた時代もあり、北洋漁業全盛期には、船が出入港する拠点として賑わいました。

1959年にコンクリート製で整備され、2018年10月からの岸壁改良工事・緑地整備工事を経て2022年4月に生まれ変わり、新たなビュースポットとして、ベイエリアの憩いの場となることが期待されています。

 

 

 

 

そして、その隣にあるのがこちらの像。

 

 

 

 

明治以降北海道の玄関口となった函館の上陸地である東浜桟橋(旧桟橋)に、開道100年を記念して、1968年に建立された記念碑で、ヒグマと船のいかりがモチーフになっています。

一見「シロクマ」のようにも見えますが、「白いヒグマ」であることがポイントです。

碑を設計したのは、当時早稲田大学教授だった函館出身の「明石信道」氏で、かつてJR函館駅前で営業していた棒二森屋などの設計も手がけた方です。

 

 

 

続いてはこちらの建物。

現在は、海上自衛隊の函館基地隊があり、以前仕事で何度かお邪魔したことがあります。

 

 

ここにはかつて、「箱館運上所」という、現在の税関に相当する役所が置かれていました。

 

 

当時の建物がこちら。

海上自衛隊の建物が新たに建てられたとはいえ、残しておいてほしかったなと思います。

 

 

函館基地隊の裏側。

1876年7月18日、明治天皇の函館行幸の際、ここから船に乗って横浜に戻り、二日後の7月20日に無事に到着したのが、現在祝日となっている「海の日」の由来とされています。

特にそのことを示す解説板はありませんが、エピソードの一つとして紹介しました。

 

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