「亀田八幡宮」の続き。
昨日は、箱館戦争の激戦の舞台となった旧社殿を紹介しましたが、今日は、こちらの現在の社殿から。
現在の社殿は1964年(昭和39年)の造営で、「流権現造」という構造です。
「権現」とは、「東照大権現」こと徳川家康のことで、日光東照宮で採用されたことから名前がついた建築様式です。
よく、神社の建物について、「社殿」と「本殿」の違いということが話題になることがありますが、この様式では、社殿全体のうち、神様の鎮座する場所である「本殿」が、建物の後方のみとなっており、両殿が「石の間」と呼ばれる連結部で繋がっていて、床が低いままなのが特徴となっています。
また「流」というのは、「流造」という様式のことで、屋根が、前に長く前に引き延ばしたかのように、前に被さった形をしています。
確かに、一番上の写真を見ると、中心にある屋根が、建物全体に被さっているように見えますね。
こちらの狛犬は、旧社殿と同じ1863年の奉納で、五稜郭の石造りにも携わった「井上喜三郎」の手によるものです。
箱館戦争以前よりあったということで、この狛犬も、旧幕府軍と新政府軍の激戦の目撃者だったということになりますね。
昨日は開拓長官だった「黒田清隆」について触れましたが、この「村橋直衛」という人物のことは知りませんでした・・・と言いたいところですが、「直衛」という名前だったということを知らなかっただけで、この人物も、黒田清隆と同様、札幌の歴史に大きな足跡を残している人物でした。
現在の「サッポロビール」の前身である「麦酒醸造所」の創設に関わった人物ですが、↑の記事では「村橋久成」となっています。
そう、「直衛」という名前を名乗っていたということを知らなかったのです。
元々は薩摩藩士で、戊辰戦争においては、1868年7月、「加治木大砲隊長」として、250名の兵を率いて鹿児島を出発し、翌年3月に、黒田清隆と共に青森に向かい、旧幕軍征討軍として江差に上陸。新政府軍が5月11日に箱館を制圧した後、5月12日、黒田清隆の命を受け、会津遊撃隊長だった「諏訪常吉」の見舞と称して、部下の「池田次郎兵衛」とともに箱館病院を訪ね、病院長だった「高松凌雲」を通じて、旧幕府軍との降伏交渉に関わっていました。
昨日の黒田清隆のエピソードと同様、このことも、いつか札幌で話題にする機会を作りたいと思いました。
1990年(平成2年)に建立された「鎮座六百年」の石碑。
亀田八幡宮には「境内末社」が2つあります。
まずはこちらの「函館薬祖神社」。
日本神話に登場する「少彦名神」を祭神としています。
古来薬の一つとされていた、酒造りの技術を広めたことから、「酒造の神」とも言われています。
もう1つは、「亀田稲荷神社」。
同じく日本神話に登場する「宇迦之御魂神(うかのみたま)」を祭神として祀っています。
かの「伏見稲荷大社」の主祭神で、「お稲荷さん」として広く信仰されている神様です。
大きなニワトリの像が建つ「鶏恩之塔」。
北海道の開道100年に当たる1968年(昭和43年)、道南の養鶏場の発展に尽力した先達の苦労を称えることと、鶏の供養を行う目的で建立された塔です。
私も鶏肉料理は大好きですが(この年(51歳)になると、豚肉や牛肉よりも鶏肉が好きになってきました)、こういう話に触れると、感謝して頂くことの大切さを、改めてしっかりと意識せねばと思います。
2回に分けて「亀田八幡宮」について紹介してきました。
函館市内の神社に関する興味深いエピソードも、どんどん発掘していきたいです。