6年ぶりに函館に来てから、神社にはそれほど行っていませんでした。
札幌では、「札幌諏訪神社」に月1で参拝していた(近々札幌に行くので、久しぶりに行ってきます)けれど、函館では、まだ「行きつけ」の神社は見つけられていません。
だからというわけでもないですが、職場の近くにある、函館市内でも一二を競うと言われる参拝客の多さで知られる神社へ久しぶりに行ってきました。
「亀田八幡宮」。函館市内では、谷地頭エリアにある「函館八幡宮」と並ぶ有名な神社です。
「弘化4年」とありますが、これは西暦では1847年。
名前が刻まれているのは、松前藩最後の箱館奉行であった「工藤茂五郎」という人物です。
一の鳥居からは結構参道が長いです。
参道にある「太鼓橋」。
御覧のとおり、この川や池などに架かっているわけではないので、橋としての機能はないと言ってもいいと思いますが、かつては、この橋の下を「亀田川」が流れていたそうです。
「亀田川」は、現在は流路を変えて津軽海峡に注いでいますが、1888年(明治21年)に転注される前の流路跡にも興味があるので、雪が降る前にでも行ってみようと思っています。
「亀田八幡宮」は、1390年、越前国敦賀郡気比神宮より、八幡大神の御分霊をこの地に奉遷したのが起源とされていますが、松前藩の記録には「創建時期不明」とあるなど、その起源には諸説あるようです。
北海道開拓長官として知られる「黒田清隆」。
札幌では色々な場面でその功績が語られたり、大通公園には大きな像が建っていたりしていますが、函館ではあまり聞かれないように思います。
何故黒田清隆の解説板がここにあるかというと、この「亀田八幡宮」は、1869年5月の箱館戦争終結に当たり、同月17日、旧幕府軍の榎本武揚、大鳥圭介らが、新政府軍と降伏の誓約を交わした場所で、その新政府側の参謀として陣頭指揮を執っていたのが、この黒田清隆だったのです。
旧幕府軍と新政府軍とが降伏の誓約を交わした場所であったことは知っていましたが、黒田清隆が新政府側の参謀であったことは、不勉強ながら知りませんでした。これは、札幌でも話題にできる題材だと思います。
1863年に改築された「旧社殿」。
ここが、実際に降伏の誓約が交わされた場所となっていますが、それだけではなく、箱館戦争において激しい銃撃戦があった場所でもありました。
旧社殿の外壁。
中にはそうではない物もあると思われますが、所々に空いている穴は、その銃撃戦による弾痕です。
これを見ているだけでも、いかに激しい戦闘であったかが窺えます。
これは、刀をモチーフにした「箱館戦争降伏式之地」記念碑で、2012年(平成24年)11月に設置されました。
題字は、榎本武揚の曾孫に当たる方の揮毫だそうです。