夏休み期間に毎年実施してきた学生・留学生たちとの能登スタディ・ツアー(単位授業、※今年度感染防止対策で中止)での楽しみは、夜の懇談会でざっくばらんに楽しく会話することだった。学生から「先生のホラー体験を聞かせてください」と請われ、話したこともある。思い起こしながらこんなことを語った。
小学6年(1966年)のときだった。ヤクルトの配達を半年ほど経験したことがある。そのころは夜の配達だった。奥能登の能登町(当時は柳田村)を自転車で回っていた。夏の夜、ある集落の竹やぶにほのかに光が揺らぐのが見えた。誰か花火でもやっているのかと思い、自転車から降りて竹やぶに近づくと、火の玉が浮かんでいた。怖くなって逃げた。
帰宅してそのことを父親に話すと、「あの集落はドジャカジが多いから」と言われた。当時、土葬のことを土砂加持(どしゃかじ)と地域では言っていた。竹やぶの奥には塔婆が立ち並んでいた。現代では火葬が普通だが、当時、宗派によっては遺体を大きな木桶に入れて埋葬していた。土葬の墓地では、遺体から出たリンが燃えて火の玉になると信じられていた。それ以降は怖くて、竹やぶを避けて別の道を通って配達していた。
新聞記者の駆け出しのころ(1978年)、金沢の警察署が担当だった。朝、刑事部屋に行くと、ある町の水田地帯で遺体が見つかったとの話を聞いたので、自家用車で現地に出かけた。ところが、水田は広く、一帯ではモヤがかかっていた。警察関係者はまだ誰も来ていなかった。遺体がどこにあるのか分からず道路沿いに一人立っていた。すると、「ここや、ここや」とかすかに声が聞こえた。その方向に向かって歩くと、用水の溝に仰向けになり、目が開いた老人の遺体があった。記者新人で初めて遺体に遭遇し、腰が抜けるほどびっくりした。間もなくして刑事がやって来て現場検証が始まった。それにしても、自分を呼び寄せたあの「ここや、ここや」は不思議でならなかった。単なる風の音だったのか。
以下は割と直近の話である。金沢大学の角間キャンパスに創立五十周年記念館「角間の里」という木造施設がある。この建物は白山ろくの旧・白峰村の文化財だったものを大学が譲り受けて、2005年に移築したものだ。築300年の養蚕農家の建物だ。建て坪が110坪 (360平方㍍)もある。黒光りする柱や梁(はり)は家の風格というものを感じさせてくれる。
その建物を大学に移築した2005年4月に地域連携コーディネーターとして大学に着任し、角間の里のオフィスで執務していた。その年の夏の夜だった。雨が降ったり雷鳴が響いたり不安定な天気だった。同僚たちは帰宅し、一人でパソコンに向かっていると、玄関入り口付近にある階段でミシリ、ミシリと誰かが階段を上っていくような音した。「誰か来たの」と声を出したが返答がない。そこで階段の下から再度「誰かいるの」と声掛けしたが返事がない。ふと階段を見ると水滴が落ちていた。電気をつけて階段を上ったが誰もいなかった。水滴は階段の途中で途切れていた。
翌日この話を同僚にすると、数日前に同じ体験したことがあると言う。そのとき彼からこんな話を聞いた。「私も近くに住む人たちから聞いた話ですが、この建物の右上の林にはかつて火葬場があったそうですよ」と。結論として、その夜は玄関戸が開いていたので、ハクビシンなど動物が迷い込んで階段を上がったのかもしれないとの話で収まった。それ以降は、階段の音は聞いたことがなく、この話は忘れかけていた。
もう一つ。キャンパス近くにミステリーゾーンがある。翌年の2006年春に地元の人に案内してもらった。「御瀑野(おたきの)」と呼ばれる地名で、キャンパス北側の隣接地に当たる。尾根伝いに道があり、かつて「仏教道」と土地の人は呼んでいた。この御瀑野はその一角にある。昔から土地の人が近づきたがらない場所だという。風が吹いていないのに木の葉が舞い、大木がそよぐ。誰も木を切っていないのに、突然に大木が倒れる。山道を知り尽くしたベテランが道に迷う。地元の多くの人が「不思議な体験」をしている場所だ。
確かに不気味だった。まるで海の向こうから押し寄せてくる波のような轟(ごう)音が谷底から聞こえる。三方からの谷風が絶え間なく吹き上げてくる。
話の最後に、学生たちにこのキャンパスのホラー体験を追体験してみないかと誘ったが、手は上がらなかった。逆に「元テレビ局にいただけあって、先生の話はリアリティがあって上手ですね」とほめられたのだった。
(※写真は、スイカの中身をくり抜き、目と鼻と口のカタチで抜く。最後にトウモロコシの「頭髪」をかぶせたもの。逆光で撮影するとエイリアンような凄みがある)
⇒9日(日)午前・金沢の天気 くもり時々はれ