自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆科学に「常識」はない

2008年12月18日 | ⇒メディア時評

 科学記事がメディアに登場しておおむね50年が経つという。では、科学記事がメディアの中でどんな役割を果たしてきたのだろうか。金沢大学で私が担当している朝日新聞特別講義「ジャーナリズム論」(後期・毎週火曜3限)の第11回目(12月16日)は、尾関章氏(論説副主幹)に登壇していただき、冒頭の内容で講義していただいた。題して「理系シフト時代への社説」。以下、講義のまとめを試みる。

  教育界では子供たちの理科離れが進んでいるとよくいわれるが、メディアの世界では科学記事の割合が広がり、たとえば朝日新聞社では30年前に20人ほどだった科学担当記者は現在では50人ほどに増えている。戦後は60年安保、70年安保と大学キャンパスでも政治闘争の嵐が吹き荒れた。が、高度成長に伴ってハイテク、ロボット、宇宙、IT、新型感染症、医療・生命倫理、食の安全と危機管理、そして環境へと、メディアの記事テーマは政治・社会から科学への「理系シフト」が起きている。それが極まったのが、ことし8月の洞爺湖サミットだ。地球温暖化についての科学的な研究の収集、整理のための政府間機構であるIPCCの科学者たちが動いて、地球環境問題をサミットの主議題に押し上げたといわれる。少なくとも、政治家が地球環境問題を無視できないような状態になった。科学者のメッセージで世界が動く時代に入ったともいえる。

  メディアにおける科学記事の役割というのは尾関氏の表現だと、70年前途までは「啓蒙の時代」、公害問題が噴出した70年前後以降は「批判の時代」、そしていまは「批評の時代」に入っているという。この批評の時代というのは、たとえば04年のアメリカ大統領選挙で、中絶反対の立場に基づいて「ES細胞(受精卵から作る万能細胞)を使った再生医療の研究」に反対を表明したブッシュと、賛成だったケリーが激しく争った。生命倫理のハイテク化なのだが、これ一つをとっても早急に決を出せるテーマではない。むしろ評論や批評というスタンスで臨まないと、世論をミスリードする可能性があり、「メディアが厳に戒めなけらばならなことである」(尾関氏)。

  科学記者に必要な素養、それは10年先、20年先を読むイマジネーションなのだろう。そして、決して結論を急がない。たとえば、低炭素社会や医療の未来図をいま性急につくり上げることはできない。先に述べたアメリカ大統領選におけるES細胞をめぐる議論は発端にすぎない。議論はこれからなのである。この議論を科学記者はどうタイムリーに提供していくか、ということなのだ。

  「科学には『常識』がない」。尾関氏が講義の最後に強調した言葉である。遺伝子、代理母、クローン、原子力、捕鯨などの問題は社会通念で推し量れない。推し量れないから議論を尽くさなければならない。一方で科学のマーケットはどんどんと広がっている。それを支える公的な研究費は膨らむばかりだ。だから納税者の理解や提案、研究者との意見調整が必要だ。「科学はみんなで考える」。そんなスタンスが双方に必要になってこよう。その間に立ち、的確な記事を発信していく。科学記者が心得なければならない科学ジャーナリズムの原点ではある。

 ⇒18日(木)朝・金沢の天気    あめ


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