実は「長崎」にはちょっとした思い入れがある。宴席でカラオケの順番が巡ってきて、「何か歌って」とせかされて歌うのが、内山田ひろしとクールファイブの「長崎は今日も雨だった」だ。前川清のボーカルをまず歌って喉ならしをする。「♪行けどせつない石畳~」と。これで自分をカラオケモードに切り替える。1969年のデビュー曲だから、私もかれこれ30年余り歌い込んできたことになる。
歌にうたわれた場所がある。オランダ坂を上がり、大浦天主堂、グラバー邸入り口にかけての坂道は一面の石畳である。訪れた日は晴れだったので地面は反射していたが、これが雨で濡れていればまた違った風情になり、歌のように気分も盛り上がるのかもしれない。
ところで、現地に来て初めて理解ができた。長崎は「坂の街」である。石畳を敷き詰めないと雨で路肩が崩れてしまう。しかも傾斜が急なところも多いので、コンクリートやアスファルトでは凍結した場合に滑る。長崎には石畳が理にかなっているのである。バスガイトによると、最近では高齢化でエスカレーターやリフトを取り付けている地区もあるのだとか。坂の街の福祉ではある。
その石畳の坂道を上り、グラバー邸に着く。長崎湾を見下ろす高台にある。イギリス人貿易商トーマス・グラバー。長崎が開港した安政6年(1859)に日本にやって来た。若干21歳。2年後にグラバー商会を設立し、同時に東アジア最大の貿易商社だったジャーディン・マセソン商会の代理店になった。大資本をバックに武器の取り扱いを始める。
グラバーに接近してきたのは坂本竜馬だった。竜馬は、幕府から睨まれている長州藩が武器が購入を表立ってできないのを知り、自らつくった亀山社中を通して薩摩藩名義で武器を購入、それを長州藩に横流しするというビジネスモデルを思いつく。グラバー商会から購入した最新銃4300丁と旧式銃3000丁が後に第二次長州征伐である四境戦争などで威力を発揮し、長州藩を勝利へと導く。それがきっかけに薩長を中心とした勢力が明治維新を打ち立てる原動力となっていく。竜馬ファンの間では知られたストーリーである。
グラバーの3つ上が坂本龍馬、同年代の幕末の志士たちがうごめいていた。自らもリスクを取って長崎にやってきたグラバーは病に倒れるまで50年も日本に滞在した。長きに渡って日本を見続けてきたのも、同世代の人間群像に共鳴し行く末を見届けたかったからではないだろうか。逃げ込んできた志士たちをかくまった屋根裏部屋もグラバー邸で見つかっている。
今回の旅では行けなかったが、前記の竜馬ゆかりの亀山社中跡(長崎市内)が今月18日で公開を終了することになったと地元の新聞各紙が報じていた。所有者が運営する団体に明け渡しを求めていたらしい。竜馬ゆかりもさることながら、日本最初の株式会社でもあり、日本における資本主義の黎(れい)明を象徴する建物として歴史的な意味も大きいのではないか。所有者の手に戻り、どうなるのか記事に記されてはいない。残念な話で、「♪行けど切ない石畳」ではある。
⇒14日(夜)・長崎の天気 はれ