自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★能で謎解き「信長の最期」

2006年03月10日 | ⇒トピック往来

 先日(3月7日)、「能の世界」について学ぶ講座があり、参加させてもらった。この講座は、金沢大学で学ぶ留学生らを対象にした「金沢学」。それこそ、茶屋街の芸子さんの踊りや伝統工芸、兼六園などさまざまな金沢の文化を貪欲に勉強するバイタリティーのある講座だ。

  この講座のスタッフから、「たびを履きますけど参加しませんか」と誘われたのがきっかけ。「たび」とは日本古来の白足袋のことである。能舞台を見学させていただくので「たび」は必須なのである。訪れたのは金沢市在住の宝生流能楽師、藪(やぶ)俊彦氏のお宅。伝統芸能を継承する家らしく、どこか凛(りん)とした雰囲気が玄関からして漂う。

  金沢では昔から「空から謡(うたい)が降ってくる」といわれるくらい能楽が盛んだ。確かに旧市街を歩いていると、ふと鳴り物と謡が聞こえたりする。結婚式に参加すると、見事な「高砂」を拝聴することになるし、金沢では小学生が授業で能楽を見学し、謡の教室もあるくらいだ。去年12月、ある居酒屋で隣の席に座ったアメリカ人と店の主人が能の話で盛り上がり、いきなり謡の交換会が始まったのには驚いた。金沢はそんな街である。

  藪氏の話が面白い。能面をつけた演者があの高い舞台から落ちないでいられる理由や、小鼓(こつづみ)は馬の皮を用いているが、年季が入ったものは破れる前が一番音がいいといったエピソードはこの世界でしか聞けない話である。その中で、自分なりに「なるほど」と思ったことが、「生霊(いきりょう)」という概念についてである。私的な恨みや怨念という人間特有の精神エネルギーが日常でうずまくことで悲喜こもごもの物語が構成されるのが能のストーリーである。  

 戦国時代、織田信長が本能寺でふい討ちをくらった際、最期に能を舞ったといわれる。繰り返した殺戮(さつりく)と権謀術策で幾多の死霊や生霊を実感しなが天下統一に突き進んだものの、明智光秀の生霊に命運が尽きた。そうした自らの生き様を実感しながら最期の締めに舞った。「人生50年…」と。すさまじい人生パフォーマンスではないか。映画やドラマで、信長が最期に能を舞うシーンが必ず出てくる。これまで理解がないままにそのシーンを見てきた。「生霊の世界=能」というキーワードがあればあのラストカットはよく理解できるし、とても味わい深い。

<お知らせ>
このコラムでご紹介した藪俊彦氏はあす12日、オーケストラ・アンサンブル金沢と新曲「葵上(あおいのうえ)」を共演します。

第197回定期公演マイスター・シリーズ
日時:2006年 3月12日(日)15:00開演(14:15開場)
会場:石川県立音楽堂コンサートホール
指揮:小泉和裕
能 :金沢能楽会、藪 俊彦(シテ)
曲目:高橋 裕  :オーケストラと能のための「葵上」(新曲委嘱作品)
料金:SS:5,000円 S:4,000円 A:3,500円 B:2,500円 B学生:1,500円

 

⇒10日(金)夜・金沢の天気  くもり  

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