日々の雑感記によるヘボ・マイ趣味紹介です。
ダッペの悠友ライフ
彩の国・「本庄城址」に行ってきました・・・「城山稲荷」の大ケヤキ
「彩の国」とは埼玉の愛称だそうですが、なんとも語呂が良く、いい呼び名ですね 先日冬の暖かい日でしたが、何となく車を走らせ、彩の国・本庄にある本庄城址に行ってきました
本庄城はR17からちょっと入った(→中山道(?))現在の本庄市役所周辺が、城跡として残っています
本庄城とは戦国時代に武蔵国児玉郡本庄に、武蔵七党の武士団である児玉党の本庄氏によって築かれた小さな平城だったようです
当時の本庄氏は、群雄が割拠する戦国時代において、その帰趨はなかなか定まらず、「上杉謙信」の小田原城攻め(1561年)には上杉方として加わり、同年「武田信玄」による西上野侵攻の際には武田氏に従い、更に1567年「上杉謙信」の関東出陣の際には、(本庄実忠の守る本庄城は)鉢形城主である「北条氏邦」の攻撃を受け落城したそうです
この時は、小田原北条氏の配下となることで存続が図れたようですが、1590年に「豊臣秀吉」の北条攻めの折、本庄城は再度落城し、城主本庄氏は自害したため、ついに鎌倉時代から本庄の地を支配してきた武蔵国の本庄氏は滅亡したそうです・・・城跡は栄枯盛衰の僅かな痕跡のみでした
本庄城址の碑の横の鳥居は「城山稲荷神社」への入り口です
「城山稲荷神社」は、本庄氏が本庄城築城に際して城の守護神とするため、「椿稲荷明神」を城内に奉斉したものだと言われています
鳥居をくぐっていくと、神社境内中央にケヤキの巨木がまるで御神木の様にそそり立っています
「城山稲荷神社」境内のこのケヤキの大木は、本庄城築城のおりに「本庄実忠」が献木したものと伝えられています
本庄城は築城からわずか56年間で廃城となってしまい、本庄の地もその後は江戸幕府の直轄地となり、中山道の宿場町として繁栄しました
本陣、脇本陣をもつ本庄宿は、江戸時代の中期には中山道最大の宿場町にまで成長したそうです
この大ケヤキは、歴史をどんな思いで眺めてきたのでしょう 幹途中に生えている大きなキノコ(→“レイシ(?)”みたいです)はいつからでたのかな