ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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[韓国の観光地]テーマ別ベスト10 ③滝&渓谷・民俗村&遺跡地・日の出&日没の名所

2012-03-05 21:25:23 | 韓国の街ネタ、観光ポイント、店・施設等
 [韓国の観光地]テーマ別ベスト10 ①山・島・散策コース
 [韓国の観光地]テーマ別ベスト10 ②寺・湖・樹木園&休養林
の続きです。

≪滝&渓谷(폭포&계곡)≫
東江魚羅淵渓谷(トンガンオラヨンケゴク.동강어라연계곡) [江原道寧越郡] ラフティングの代表的なコースだそうです。
仙岩渓谷(ソナムケゴク.선암계곡) [忠清北道丹陽郡] 丹陽八景の1つ。
武陵渓谷(ムルンケゴク.무릉계곡) [江原道東海市]
龍湫渓谷(ヨンチュケゴク.용추계곡) [慶尚南道咸陽郡]
カマ谷(가마골)[全羅南道潭陽郡]
正房瀑布天地淵瀑布(チョンバンポクポ・チョンジヨンポクポ.정방폭포,・천지연폭포) [済州島西帰浦市]

     
   【正房瀑布は天地淵瀑布、天帝淵瀑布とともに済州島の 3大滝の一つで、韓国に唯一の水が海に直接落ちる滝です。】

内麟川渓谷(ネリンチョンケゴク.내린천계곡) [江原道麟蹄郡] 漢灘江(ハンタンガン)や東江とともに韓国3大ラフティングスポット。
中元渓谷(チュンウォンケゴク.중원계곡) [京畿道楊平郡]
白雲渓谷(ペグンケゴク.백운계곡) [京畿道抱川郡] 二東マッコリで有名。
九谷瀑布(クゴクポクポ.구곡폭포) [江原道春川市]

≪民俗村&遺跡地(민속마을&유적지)≫
河回村(ハフェマウル.하회마을) [慶尚北道安東市]
韓国民俗村(ハングンミンソクチョン.한국민속촌) [京畿道龍仁市] あれっ、水原市じゃないの!?
楽安邑城民俗村(ナガンウプソンミンソクチョン.낙안읍성민속마을) [全羅南道順天市]
外岩里民俗村(ウェアムニ.외암리민속마을) [忠清南道牙山市]
ソンビ村(ソンビチョン.선비촌) [慶尚北道栄州市] ソンビ(선비)とは、在野の学者・知識人のこと。
崔参判宅(チェチャムパンデク.최참판댁) [慶尙南道河東郡]
淳昌コチュジャン民俗村(スンチャンコチュジャンミンソクチョン.순창고추장민속마을) [全羅北道淳昌郡]
高城旺谷村(コソンワンゴンマウル.고성왕곡마을) [江原道高城郡]
屏山書院(ピョンサンソウォン.병산서원) [慶尚北道安東市]
南山コル韓屋村(ナムサンゴルハノンマウル.남산골한옥마을) [ソウル特別市中区]

≪日の出&日没の名所(일출&일몰)≫
正東津(チョンドンジン.정동진) [江原道江陵市] ソウル・景福宮の光化門の真東に位置することに由来する地名。
 →本ブログ参考記事「☆韓国の初日の出の名所 やっぱり正東津でしょ」
海南タンクッ村(ヘナムタンクッマウル.해남땅끝마을) [全羅南道海南郡]
 ※海南在住の日本人嫁<はみちゃん>さんのブログは→コチラ
虎尾岬(ホミゴッ.호미곶)  [慶尚北道浦項市] 朝鮮半島で一番最初に日の出が見える(?)浦項の名所。地名の由来は、朝鮮をトラの形に見立てるとその尾の部分に当たるところから。では「兎尾岬」の方がわかりやすいだろう、とのご意見もあろうかと思いますが、この件は別記事で、いずれ。韓国語「곶(串)」は岬のこと。

      
  【虎尾岬の象徴の<相生の手(상생의 손)>。ミレニアムを期して1999年12月に完工。左手は海岸線を挟んで向かい合う位置にあります。】

向日庵(ヒャンイラム.향일암) [全羅南道麗水市] 2009年12月20日の火災で、大雄殿、霊亀庵、鐘閣が焼失した状態だそうです。
烏耳島(オイド.오이도) [京畿道始興市] 明洞から地下鉄に乗って行ける海岸で日没の名所。チョゲクイ(貝焼き)が有名。「キツネちゃん、何してるの?」のロケ地。
湫岩燭台岩(チュアムチョッテパウィ.추암촛대바위) [江原道東海市]
艮絶岬(カンジョルゴッ.간절곶) [蔚山広域市] 実は虎尾串岬よりも1分早く、江陵市の正東津よりも5分も早く日の出を迎える場所だそうです。
ウェモク村(ウェモンマウル.왜목마을) [忠清南道唐津市]
 →本ブログ参考記事「朝鮮半島 西海岸の日の出の名所」
宮坪港(クンピョンハン.궁평항) [京畿道華城市]
ハヌル公園&ノウル公園(ハヌルコンウォン&ノウルコンウォン.하늘공원&노을공원) [ソウル特別市麻浦区] 2002年にできたワールドカップ公園の一部。元はゴミの島でした。ハヌルは空、ノウルは朝焼け・夕焼けの「焼け」。

<新体操の妖精>孫延在(ソン・ヨンジェ)選手、戦績次第で日本でも人気に火がつくかも・・・

2012-03-04 20:33:25 | 韓国の文化・芸能・スポーツ関係の情報
 昨年(2011年)9月韓国に行ったときに、宿でなんとなくTVのスポーツニュースを見ていると、あまりスポーツ選手らしくない女の子がゲストとして招かれていました。華奢な感じのカワイ子ちゃんで、名前は孫延在(ソン・ヨンジェ.손연재)という新体操選手。あ、韓国では新体操はふつうリズム体操(리둠체조.リドゥムチェジョ)というのですが・・・。

 そのTV出演の直後の9月24日、孫延在選手はフランスのモンペリエで行われた2011年国際体操連盟で11位になり、上位15位までに与えられるロンドン五輪出場権を獲得しました。
 この結果を受けて、「朝鮮日報」(日本語版)は「孫延在にCMオファー殺到」というニュースを伝えています。
 しかし彼女の人気はこれに始まったことではなく、すでに11年5月には「キュートなルックスで「おじさん世代ファン」の絶大な支持を得ており、最近はCMでも注目されている。特に、「フィギュアの女王」キム・ヨナとエアコンでCM対決を繰り広げ話題を呼んだ」というような記事が「朝鮮日報」に載っていました。
 日本の新聞では、2010年11月の時点で「朝日新聞」に紹介記事が載ったのが最初(にして唯一?)。もう「金妍児が「国民の妹」なら、こちらは「国民の姪(めい)」」という通称が書かれていますね。

           
   【背後の字をみると、「体操の妖精ソン・ヨンジェ ファンミーティング」とあります。】

 さて、「孫延在にCMオファー殺到」の記事からほどなく、10月10日の「中央日報」には「“新体操の妖精”ソン・ヨンジェ、広告業界ではすでにキム・ヨナ級」との記事が・・・。

 人気が高まると、それに対する否定的言辞も飛び交うようになるのが韓国のネット社会。「人気に対して実績がともなっていない!」との声があがりますが、彼女は「(CM料が)練習資金として役立ちます」との答え・・・。

 私ヌルボ、韓国でこれほど人気が出ているからには、日本でも近いうちに注目されるのでは、と推測していたのですが、今に至るまでそんな気配なし。
 やっぱり、フィギュア・スケートと比べると新体操は日本での関心も今ひとつだし、もっと目を瞠るような成績をあげないとダメなんだろうな、と思いました。

 数日前、横浜市立図書館で「朝鮮日報」のまとめ読みをしていたら、2月27日の記事で久々に彼女の名前を見つけました。
 「26日、ロシアで開催された2012モスクワグランプリ新体操国際大会の個人種目別決勝フープ種目で、3位になった」というニュースです。
 この大会レポートが日本体操協会の公式ブログにありました。
 それによると、「旧ソ連を除けばアジア人初であろうグランプリでのメダル獲得を、韓国のソン・ヨンジェが果たした(3位)」という事実とともに、「彼女の演技は難度がハッキリとしており見やすい上に、彼女にしか出来ない表現力がある。俗に言うスター性を感じるのである。これは、採点競技・芸術競技である以上とても大切なことだと言える」と非常な高評価のコメントが添えられています。

 ことのついでに、少しさかのぼって彼女関係の情報を探ってみると、もっと注目すべきネタがありました。
 それは「ロンドン五輪のビューティー・アンバサダー11人に選ばれる」というもの。
 ロンドン五輪の公式パートナーであるP&Gの世界的ヘアケア・ブランド「パンテーン」が、ロンドン五輪に出場する世界各国の女性アスリート約4800人から11人を選んで<ビューティー・アンバサダー>に任命した、というものですが、その中に彼女も選ばれたんですねー。
 彼女の他に選ばれた選手は以下の通り。
 新体操世界ランキング1位のエフゲニア・カナエワ(ロシア)、2008北京五輪で金メダルを獲得したバレーボールのブラジル代表ジャケリネ・カルバリョ、北京五輪自転車金メダリストのビクトリア・ペンドルトン(イギリス)、平泳ぎ200m世界記録保持者のアンナメイ・ピアース(カナダ)、北京五輪水泳で6個のメダルを獲得したナタリー・コーグリン(米国)、北京五輪400mメドレーリレー金メダリストのエミリー・シーボーン(オーストラリア)、昨年の世界選手権背泳ぎ50m銀メダリストの寺川綾(日本)、北京五輪飛び込み金メダリストの呉敏霞(中国)、北京五輪銅メダリストのパオラ・エスピノーザ(メキシコ)、テニス女子ダブルス世界ランキング1位のヒセラ・ドゥルコ(アルゼンチン)。
 ・・・こうして見てみると、いずれもすごい実績を残している選手ぞろい。その中で孫延在選手が選ばれたのは見た目のかわいさゆえであることは明らかです。

 しかし、伸びる可能性十分の選手のようだし、もしかしたら7~8月のロンドン五輪の時期には日本での人気も高まっているかもしれません。

40年前の芥川賞候補作=(故)鄭承博の「裸の捕虜」は自身の強制労働体験を描いた小説

2012-03-02 18:25:10 | 在日の作家と作品
 今回の芥川賞作家田中慎弥氏といい、1年前の西村賢太氏といい、作品外の話題がむしろいろいろ取り沙汰されています。それだけ芥川賞は注目度が高いということです。

 もし1972年上半期芥川賞候補になった鄭承博(チョン・スンバク)が受賞していれば、知名度ははるかに上がっていたでしょう。
 その前回の1971年下半期「砧をうつ女」で受賞作した李恢成の小説は、私ヌルボ、受賞作のほか、1973年に講談社文庫から出た「われら青春の途上にて」も、同文庫全5巻の「見果てぬ夢」も読みました。

 しかし、その当時は鄭承博のことを知りませんでした。いや、知ったのはごく最近です。集英社の全集「戦争×文学」の1月配本の第14巻は『女性たちの戦争』。この中に彼の裸の捕虜がありました。先述の1972年の芥川賞候補作です。

 全集「戦争×文学」については、2011年8月6日の記事でこの全集中の朝鮮関係の作品について紹介し、第19巻所収の金在南「暗やみの夕顔」の感想等を記しました。また11月3日の記事では、同全集第6巻中の木村毅「兎と妓生と」について記しました。
 全20巻(別巻1)。1冊分もボリュームのある大部な全集ので、ここまでの全部を読み切ったわけではないですが、とても充実した内容で、各巻3780円という定価がむしろ安く思われるほどです。
 何十年も前に購入した「明治文学全集」(筑摩書房)全100巻、「土とふるさとの文学全集」(家の光協会.1976~77)全15巻等とともに、私ヌルボが購入して心から良かったと思える全集になりそうです。
※集英社の全集「戦争×文学」刊行リスト一覧

 「裸の捕虜」は1972年の第15回農民文学賞受賞作で、上記「土とふるさとの文学全集」にも収められていた作品ですが、たくさんの作品を収録していて、私ヌルボ、読んだ記憶もはっきりせず、今回は初めて読むような感覚で読みました。

 時代は昭和18年(1943年)。朝鮮人なので兵として前線に送られることは免れている主人公は徴用工として入社した大阪の金属工場で食料調達係を命じられます。ところが買い出しの取締りに引っかかり、徴用から逃亡したみなされて検挙されます。そして送り込まれた所が信州。中国の八路軍の捕虜たちが強制労働されている大堰堤工事現場で、鍛冶工として働かされることになりますが、結局そこから危険を冒して脱走します。

 ・・・ネット内に<鄭承博記念館>というサイトがあり、そこに略年譜があります。「在日文学全集 第9巻」にはさらに詳細な年譜が載せられていますが(←陳腐な形容ではずかしいがすごくドラマチックな人生!)、それを読むと、この小説は彼自身の体験が主人公「鄭承徳」に仮託されていることがわかります。
 この小説では、ラストの脱出の場面では、夜は寒さで凍った共同便所の糞溜めの上を歩いてくぐり、汲取り口から外に出るというものですが、それも自身の実体験なのかもしれません。
 ところが驚くのは、このような苛烈な体験が、驚くほど淡々と叙述されていること。音声にたとえると、感情的に声を高めて熱く語るのではなく、どんなに切迫した場面でも、常人なら怒りや悲嘆に声を荒げるような場面でも、変わらずにおだやかに語り進める感じです。(それがこの作家の資質によるのか、意図的な書き方なのかはヌルボにはわかりません。)
 この点は、何人かの評者が共通して指摘していることでもあり、またそれを「難点」として見る見方もあるようです。
 
 もうひとつ。この小説からは、朝鮮人としての民族意識、あるいは日本という国や日本人に対する反抗の意識が全然といってよいほど感じられません。このような在日作家の作品は過去読んだことがありませんでした。

 「在日文学全集 第9巻」所収の年譜と林浩治氏の解説によると、1923年慶尚北道安東郡に生まれた鄭承博が和歌山県田辺市で飯場頭をしていた叔父を頼って単身日本に渡航したのは1933年、わずか9歳の時。「以後、飯場を転々とし、ほとんど教育を受けることもなく、ついには農家の作男として売られた」とか。
 13歳の時に運動の指導者栗須七郎と出会い、以後5年彼の家に住み込んで熱心に勉強し、小学校にも通うことになります。1942年には東京の日本高等無線学校に入学しますが、翌年朝鮮人への無線技術習得禁止を理由に放校処分となります。そして、この小説に描かれた大阪の軍需工場への入社となるわけです。
 要するに、彼は「在日する朝鮮人社会よりも、日本人社会における差別構造の中に身を置いた」(林浩治)のです。

 「在日文学全集 第9巻」に彼とともに作品が収録されている金泰生(キム・テセン)は鄭承博の1年後の1924年に済州島で生まれ、5歳の時に両親と生き別れて親戚に連れられて渡日しました。しかし彼は日本に来てからも同胞の集団の中で生活し、母国語の世界で過ごして、戦後は金達寿等の在日知識人たちとの広いつながりがあり、その中で「高い政治性と母国語に対するこだわり」を持ち続けました。

 「それが「在日朝鮮文学」の典型的姿」であるのに対し、鄭承博は戦後も南北朝鮮の政治には関心を示さず、「朝鮮語を忘れてしまった」と率直に語ったりもしていたそうです。
 彼は戦後も日本人社会の中で生き抜くのに必死で、さまざまな職業を転々とし、生活が安定し始めたのは1958年淡路島でバーを開店したからのことといいます。
 この間とくに在日社会との結びつきはなく、在日の知識人との交流や、自身の母国への関心はこの小説が評価を受けることによって始まったといえるようです。

 このように、民族主義的な要素、「反日的」な要素がないところから、彼の作品は多くの日本人読者の情緒的な抵抗感(?)のようなものは感じないで読めると思います。

 しかし、上述のように淡々とした筆致ではあっても、この小説の主人公、そして彼自身の受けた労苦は、日本の「下層社会」に暮らしたという点だけではなく、彼自身の朝鮮人という出自に由来することは明瞭に読みとれるし、決して看過してはならないことです。

 たまたま全集「戦争×文学」の中にあった在日作家の作品ということで読みましたが、このような作家の存在を知ることになって、よかったと思います。