12月25日の記事「38度線と軍事境界線について(1)」の最後に次のようなことを書きました。
「38度線設定の経緯や分断の責任等についてネット上を見てみると、最近(前から?)日本でも韓国でもさまざまな言説が飛びかっています。その中には「あれれ? 違うんじゃないの?」というものも1つ2つではない・・・・」
まず、最初に38度線が引かれた経緯について、<一応標準的と考えられる説明>を示しておきます。
1945年8月8日にソ連は日本に宣戦布告、翌9日未明に「満州」に侵攻します。
対する日本軍は、45年6月関東軍の隷下に入った第34軍が、7月に咸興(ハムフン.朝鮮北部の日本海に面した都市)に集結しましたが、8月13日清津に上陸したソ連軍に対し一部部隊は迎撃したものの、軍主力は交戦することなく終戦を迎えました。
その後、23日からソ連軍の武装解除を受け、捕虜の大部分はソ連領へ連行されました。
一方、ソ連の侵攻開始時沖縄に留まっていたアメリカ軍は、ソ連軍が全朝鮮の占領も可能な態勢にあるとみました。
そこで8月10~11日、急遽国務省・陸軍省・海軍省合同調査委員会(SWNCC)を開き、ソ連に対し半島の分割占領案を提示することを決めました。具体的な分割方法はその場にいた陸軍参謀部のボーンスティル(後に駐韓国連軍司令官)、ラスク(ケネディ&ジョンソン政権の国務長官)両大佐に託されました。その結果北緯38度線で分割案が提案されたというわけです。
この時、できるだけ北の方で降伏を受理すべきだという政治的希望と、米軍進駐の能力の限界を調和させることが要請されました。ラスクたちは米軍占領地域内に首都を含ませることが重要であったので、38度線を提案したとのことです。わずか30分間という短時間で、手元にあった壁掛けの小さな極東地図を利用して、首都ソウルを米占領地区に含む最北の線として選ばれた38度線が、そのまま米ソ分割線になってしまったのです。
この38度線分割案はトルーマン大統領の批准をへてソ連、中国、英国の同意の下にマッカーサーに伝達され9月2日付「連合国最高司令部一般命令第1号」となりました。北緯38度線についての最初の公式文書です。
項目の(ロ)に「満洲、北緯三十八度以北ノ朝鮮、樺太及千島諸島ニ在ル日本国先任指揮官竝ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ「ソヴィエト」極東軍最高司令官ニ降伏スベシ」とあります。
およそ、一般的な歴史概説書では上記のような説明がなされています。
ところが、なぜかネット上で「38度線以北は関東軍司令部の管轄、38度線以南は朝鮮軍司令部が管轄だったのが、1945年の終戦と同時にそのまま北と南に分かれてしまいました」というような記述が非常に多いのです。(たとえば→<常識ぽてち>というサイトの記事)。
少し歴史を知っている人なら「あれれ?」と思うでしょう。日本の統治時代、朝鮮軍(在朝鮮の日本軍)は朝鮮全土を管轄しているというのが当たり前のことだったわけですから・・・。
同様の疑問を持った方がいらっしゃいました。まず<板橋村だより>というブログによると、上記の説を「在日北朝鮮のある人から聞かされました」とあります。
また<葵から菊へ>というブログには、共産党推薦で東京都知事に立候補したことがある政治学者畑田重夫が「38度線以南の部隊は大本営直属、以北の部隊は関東軍直属でした」と書いていたことに疑問を持ち、資料を求めたところ、畑田氏から文献資料のコピーと「朝鮮問題に関心のある者にとっては常識化していることなのです」と書かれた手紙が送られてきたとあります。
さらに「ぢぢ登場の巻の補足資料」というサイトには、「大東亜戦争の終戦直前である1945年5月30日に日本軍は対アメリカ作戦強化のため、38度線を境にして北は関東軍、南は大本営直接指揮下の戦区と決めたが、戦後の南北分断とは無関係であった」という記載があります。
しかし、私ヌルボ、日本の軍管区で、朝鮮半島の38度線が何らかの意味をもつものであったという根拠は今のところわからないままです。上記の言説は何を論拠にしているのでしょうか? またそれがなぜ「朝鮮問題に関心のある者にとっては常識化している」のでしょうか?
戦争末期の朝鮮軍については、たしかに(ウィキペディアによると)1945年2月に朝鮮軍は廃止され、新しく創設された「第17方面軍」が朝鮮方面の守備にあたり、その司令官・参謀長及び参謀副長は朝鮮軍管区の司令官・参謀長及び参謀副長を兼ねた、とのことで、また8月9日、ソ連が対日参戦すると、指揮系統が天皇直隷から関東軍隷下に編入され、終戦を迎えた、とあります。
しかし、これも38度線の線引きとは直接関係ないことでしょう。
[2021年12月5日の追記] 2019年2月神保町のチェッコリで開かれた慶大名誉教授・小此木政夫先生のトークイベントに参加した折、上述の疑問について直接お伺いしました。すると言下に「ああ、それは間違いです」とのお答えが返ってきました。
話は少し飛びますが、最近ある板門店ツアーの記録を読んだら、「ガイドは38線(サムパルソン)、休戦ラインを日本の責任として、日韓合併、創氏改名などを例に挙げながら日本植民地歴史の遺産と語る」という記述がありました。
はてさて面妖な・・・。日本の植民地支配と38度線による南北分断がどのように関連するというのでしょうか?
ヌルボのようなおじさん世代には懐かしい歌「イムジン河」の2番の歌詞に「誰が祖国を分けてしまったの」という一節があります。
はたして、祖国を分けたのは誰でしょう? 最初に掲げた<一応標準的と考えられる説明>が正しいとすると、正解は、直接的には、線引きした張本人のアメリカということになります。
ま、日本がもっと早く、ソ連参戦以前に降伏していたら、とか、逆に本土決戦まで粘っていたら分断はなかっただろうとか、太平洋戦争最後の約1週間前にちゃっかりと参戦しておいしい所を獲っちゃったソ連が悪いんだ、とか、もちろん朝鮮の指導者と人民たちの問題とかについてもいろんな考え方があるのはたしかです。
中には、さらに面妖な!という諸説もあるのですが、今回はここまでにします。(続く)
[面妖その1の予告編] 韓国のウィキペディアでは、「ラスクは地図を見て目についた38度線を分断線とした、と偽証した。今日ラスクが線を引いた地図が残っているが、そこには10度単位で緯線が引かれていて、38度線は表示されていない」とある。
→ 38度線と軍事境界線について(3) 誰が祖国を分けてしまったの?(続)
「38度線設定の経緯や分断の責任等についてネット上を見てみると、最近(前から?)日本でも韓国でもさまざまな言説が飛びかっています。その中には「あれれ? 違うんじゃないの?」というものも1つ2つではない・・・・」
まず、最初に38度線が引かれた経緯について、<一応標準的と考えられる説明>を示しておきます。
1945年8月8日にソ連は日本に宣戦布告、翌9日未明に「満州」に侵攻します。
対する日本軍は、45年6月関東軍の隷下に入った第34軍が、7月に咸興(ハムフン.朝鮮北部の日本海に面した都市)に集結しましたが、8月13日清津に上陸したソ連軍に対し一部部隊は迎撃したものの、軍主力は交戦することなく終戦を迎えました。
その後、23日からソ連軍の武装解除を受け、捕虜の大部分はソ連領へ連行されました。
一方、ソ連の侵攻開始時沖縄に留まっていたアメリカ軍は、ソ連軍が全朝鮮の占領も可能な態勢にあるとみました。
そこで8月10~11日、急遽国務省・陸軍省・海軍省合同調査委員会(SWNCC)を開き、ソ連に対し半島の分割占領案を提示することを決めました。具体的な分割方法はその場にいた陸軍参謀部のボーンスティル(後に駐韓国連軍司令官)、ラスク(ケネディ&ジョンソン政権の国務長官)両大佐に託されました。その結果北緯38度線で分割案が提案されたというわけです。
この時、できるだけ北の方で降伏を受理すべきだという政治的希望と、米軍進駐の能力の限界を調和させることが要請されました。ラスクたちは米軍占領地域内に首都を含ませることが重要であったので、38度線を提案したとのことです。わずか30分間という短時間で、手元にあった壁掛けの小さな極東地図を利用して、首都ソウルを米占領地区に含む最北の線として選ばれた38度線が、そのまま米ソ分割線になってしまったのです。
この38度線分割案はトルーマン大統領の批准をへてソ連、中国、英国の同意の下にマッカーサーに伝達され9月2日付「連合国最高司令部一般命令第1号」となりました。北緯38度線についての最初の公式文書です。
項目の(ロ)に「満洲、北緯三十八度以北ノ朝鮮、樺太及千島諸島ニ在ル日本国先任指揮官竝ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ「ソヴィエト」極東軍最高司令官ニ降伏スベシ」とあります。
およそ、一般的な歴史概説書では上記のような説明がなされています。
ところが、なぜかネット上で「38度線以北は関東軍司令部の管轄、38度線以南は朝鮮軍司令部が管轄だったのが、1945年の終戦と同時にそのまま北と南に分かれてしまいました」というような記述が非常に多いのです。(たとえば→<常識ぽてち>というサイトの記事)。
少し歴史を知っている人なら「あれれ?」と思うでしょう。日本の統治時代、朝鮮軍(在朝鮮の日本軍)は朝鮮全土を管轄しているというのが当たり前のことだったわけですから・・・。
同様の疑問を持った方がいらっしゃいました。まず<板橋村だより>というブログによると、上記の説を「在日北朝鮮のある人から聞かされました」とあります。
また<葵から菊へ>というブログには、共産党推薦で東京都知事に立候補したことがある政治学者畑田重夫が「38度線以南の部隊は大本営直属、以北の部隊は関東軍直属でした」と書いていたことに疑問を持ち、資料を求めたところ、畑田氏から文献資料のコピーと「朝鮮問題に関心のある者にとっては常識化していることなのです」と書かれた手紙が送られてきたとあります。
さらに「ぢぢ登場の巻の補足資料」というサイトには、「大東亜戦争の終戦直前である1945年5月30日に日本軍は対アメリカ作戦強化のため、38度線を境にして北は関東軍、南は大本営直接指揮下の戦区と決めたが、戦後の南北分断とは無関係であった」という記載があります。
しかし、私ヌルボ、日本の軍管区で、朝鮮半島の38度線が何らかの意味をもつものであったという根拠は今のところわからないままです。上記の言説は何を論拠にしているのでしょうか? またそれがなぜ「朝鮮問題に関心のある者にとっては常識化している」のでしょうか?
戦争末期の朝鮮軍については、たしかに(ウィキペディアによると)1945年2月に朝鮮軍は廃止され、新しく創設された「第17方面軍」が朝鮮方面の守備にあたり、その司令官・参謀長及び参謀副長は朝鮮軍管区の司令官・参謀長及び参謀副長を兼ねた、とのことで、また8月9日、ソ連が対日参戦すると、指揮系統が天皇直隷から関東軍隷下に編入され、終戦を迎えた、とあります。
しかし、これも38度線の線引きとは直接関係ないことでしょう。
[2021年12月5日の追記] 2019年2月神保町のチェッコリで開かれた慶大名誉教授・小此木政夫先生のトークイベントに参加した折、上述の疑問について直接お伺いしました。すると言下に「ああ、それは間違いです」とのお答えが返ってきました。
話は少し飛びますが、最近ある板門店ツアーの記録を読んだら、「ガイドは38線(サムパルソン)、休戦ラインを日本の責任として、日韓合併、創氏改名などを例に挙げながら日本植民地歴史の遺産と語る」という記述がありました。
はてさて面妖な・・・。日本の植民地支配と38度線による南北分断がどのように関連するというのでしょうか?
ヌルボのようなおじさん世代には懐かしい歌「イムジン河」の2番の歌詞に「誰が祖国を分けてしまったの」という一節があります。
はたして、祖国を分けたのは誰でしょう? 最初に掲げた<一応標準的と考えられる説明>が正しいとすると、正解は、直接的には、線引きした張本人のアメリカということになります。
ま、日本がもっと早く、ソ連参戦以前に降伏していたら、とか、逆に本土決戦まで粘っていたら分断はなかっただろうとか、太平洋戦争最後の約1週間前にちゃっかりと参戦しておいしい所を獲っちゃったソ連が悪いんだ、とか、もちろん朝鮮の指導者と人民たちの問題とかについてもいろんな考え方があるのはたしかです。
中には、さらに面妖な!という諸説もあるのですが、今回はここまでにします。(続く)
[面妖その1の予告編] 韓国のウィキペディアでは、「ラスクは地図を見て目についた38度線を分断線とした、と偽証した。今日ラスクが線を引いた地図が残っているが、そこには10度単位で緯線が引かれていて、38度線は表示されていない」とある。
→ 38度線と軍事境界線について(3) 誰が祖国を分けてしまったの?(続)
最近皆さんブログではなくtwitterでつぶやくようになって、twitterはやらないナウ、の私ですが特定の方のものは読んではいるためとても時間がかかり大変な状況です。
今日驚いたのは、朝鮮日報日本語版コラムの金大中顧問の「韓国が核を持ってこそ北は交渉に応じる」でした。日本でもそんなことを言う人がいますが…。
ところでこの間おっしゃっていた「唐山大地震」近く日本でも上映されることになりましたね。多分怖くて観に行かないかもしれませんが。
「ペースが速い」ですか、やっぱり・・・。2日upしないと(好きでやってることなのに)さぼってる感に襲われてしまうんですよね、ついつい。今年はもっと余裕をもって、量より質を優先することにしましょうかねー・・・。(あ、質の高さなんてシバリをかけたらこれも負担になっちゃいそう・・・。)
私はにそんな意味があるとは思えず、またそれに政治等が左右されるとよくないと考えるので、twitterは検索等で引っかかったもの以外は見ないし、自分でもやろうとは思いません。
金大中さんはあいかわらずですね。「核を持つことが国際社会でのステイタスとなりうる」という発想自体が時代遅れで間違った考えであることをもっとアピールしてほしいですねー。
地図も拝見しましたが②の線で示された朝鮮軍廃止後の作戦地域区分を見ても38度線とはなんら関係ないですよね。
記事でも書いたように、「38度線以北は関東軍司令部の管轄、以南は朝鮮軍司令部が管轄」していて、それが南北分断と関係する、という言説がどういう経緯で流布しているのか、私としてはずっと疑問のままです。
「葵から菊へ」の他の記事もいろいろ勉強になりますね。今後もとりおりお邪魔したいと思います。
(旧陸軍軍医学校跡地の人骨をめぐる問題については、90年代のいつごろだったか、雑誌「月刊朝鮮」だか「新東亜」で読んで初めて知りました。)
>「38度線以北は関東軍司令部の管轄、38度線以南は朝鮮軍司令部が管轄だったのが、1945年の終戦と同時にそのまま北と南に分かれてしまいました」
これに関して
도진순교수님の『분단의 역사 통일의 내일』という本に研究があります。
http://www.dbpia.co.kr/EBook/ArticleList/122416
どうぞ、ご一読ください。
ちょっと私が気になったのは、リンク先が<民族21>(=親北朝鮮系で民族主義の色濃い雑誌)の発行元であるヌリメディアのサイトということで、またこの本(「分断の明日 統一の歴史」)の発行元の当代も進歩系の出版社であること。(読む前から「色眼鏡」で見るのもよくないですが・・・。)
日本でも、記事に書いたように、「38度線による分断は関東軍と朝鮮軍の管轄と関係がある」というのは北朝鮮系(朝鮮大学校系?)のように思われるのですが、今ネット内を検索してみてもその論拠は見つかりません。
もしかして、朝鮮の南北分断をめぐる所論も(朝鮮戦争論等と同様に)政治的立場によってかなり異なるのでしょうか?
このト・ジンスン教授の「分断の明日 統一の歴史」について<yes24>で見てみました。→
http://www.yes24.com/24/goods/216924?scode=032&OzSrank=6
すると、目次の中に「朝鮮半島の分断と日本の介入」という文言があります。これだけでは具体的な内容はわかりませんが、私としては敗戦前後の国の危急存亡のときに、将来を計算して朝鮮の分断に「介入」したりる余裕はとてもなかったと思うのですが・・・。また「分断と統一について論じながら、檀君と古朝鮮から出発している」という点も「??」です。まあ、今度韓国に行った時に書店で実際に読んでみるみとにします。
そのうえで彼本人は
『일본군의 작전지역분리가 38선 그자체의 근거로 보기는 어렺다』
(日本軍の作戦地域の分離が38度線それ自体の根拠としてみるのは難しい)
と結論付けています。
日本軍の分離というのは、1945年11月に「하지(スペルや日本語表記がわからないので)」が話していますし、それに連なった研究もあるので、
「最近、ネット上で」
出てきたわけではないことが、このパラグラフから読み取れると思います。
朝鮮の分断と統一に論ずるなら、壇君神話や古朝鮮に言及するのは当然だと思いますが?
「民族」という概念の創生自体が近代国民国家の成立と直結した歴史的な概念であることは、『想像の共同体』以降<常識>となっていると思います。してみると、韓国の民族主義は日帝の統治期に「凍結」されたままだったのが戦後の南北分断という状況も相俟って、ここにきて噴出した、世界史的にみれば「遅れてやって来た民族主義」といえるかもしれません。
北朝鮮では箕子陵を破壊したり檀君の骨を発掘(!)して檀君陵を建造したりしているし、韓国でも民族主義的立場から中国の東北工程に対抗しているようすを見ると、「なんだかなー」としらけた印象を受けてしまいます。
民族主義を全否定するものではありませんが、少なくとも歴史研究者がそこにどっぷり浸かってしまってはダメだと思います。ト・ジンスン教授はそこらへんはどうなのか、やっぱり読んでみないとわかりませんね。
※関係過去記事 →<林志弦漢陽大教授によるナショナリズム批判①>
http://blog.goo.ne.jp/dalpaengi/e/236c58189ca4a910c629c7392958d2af
「読む前から色眼鏡は良くないと自覚なされてる割に、随分と色眼鏡がかかっているなぁ…」
というのが既読者としての印象です。
(とは言っても、読んだのは10年くらい前なのですが)
檀君神話・古朝鮮の記述は
2部 分断・統一と時空間的紙型(地形?)の拡大
という章で扱われているのですが、この部分は各時代で檀君神話がどう扱われて来たか、そしてそれが分断・統一にどういう意味があるのかの研究です。
少なくとも、どっぷりではないです。
ヌルボさんの最初のコメントもそうだったんですが、「どうかわからない」としながらも、「どっぷり」という言葉を使うような予断を既に抱いている事に違和感を感じます。
ちなみに、この本は論文集のようなものですので、章毎にテーマがいろいろ違います。
なお、
>もしかして、朝鮮の南北分断をめぐる所論も(朝鮮戦争論等と同様に)政治的立場によってかなり異なるのでしょうか?
に関してですが、
「한국전쟁」(박태균)
をお薦めします。
様々な論点が提示されているのですが、中立はあり得ないという事を強烈に自覚しながらなるべく中立的な立場で書く努力をした労作です。従って、所論と政治的立場の関係も見えやすいと思います。
パク・テギュン「韓国戦争」という本はもちろん初めて知りました。
これもyes21の記事を見てみましたが、たしかに「中立的な立場で書く努力をした労作」のようですね。読者の感想もとても興味深く、結局全部(13人分)目を通してしまいました。 →
http://www.yes24.com/24/goods/1506813
※「(政治的に)中立」ということと、「政治的立場から距離を置く」ということとは少し違うような気がしますが・・・。