ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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伊集院静「お父やんとオジさん」で知る韓国・朝鮮[2]

2011-01-13 23:49:12 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 → 伊集院静「お父やんとオジさん」で知る韓国・朝鮮[1]

 先の記事に記したように、「ボク」の「お父やん」宗次郎も、母要子の父金古昌浩も朝鮮半島南部の村から日本に渡ってきても自らの努力と才覚で地歩を築いていった人物でした。

 金古の日本での生き方と、終戦後の思いは、要子の視点から次のように描かれています。
「二十年、父は日本人とともに生きてきた。朝鮮から大勢の人たちを連れてきて、仕事を覚えさせ、日本の姓名を与え、日本人として生きることを自分にも課してきた。日本人労働者とは、給与、待遇の面で差はあったが、会社側と交渉し少しずつ改善もしてきたし、強制的に労働させたことは一度もなかった。・・・・父は持前の粘りと人柄の善さで理想の職場をつくったと自負があったはずだ。・・・・日本人と諍いを起こしたり、不平不満がある人たちに父はいつも言い聞かせていた。「たしかに最初は属国の民だったが、新しい法律でわしたちは新国民として迎え入れられているんだ。わしは祖国を捨てて服従しろと言ってるんじゃない。日本は東亜をおさめている国だ、ここには祖国と違って仕事がある、家族を持ってもいい、生まれた子供たちは日本の教育も受けられる。わしたちは新しい国民なんだ」

 ・・・このような<光復>以前に日本に来た朝鮮人の苦闘の物語を読むと、「強制連行」とか「親日派」をめぐる議論の底の浅さを痛感します。宗次郎が13歳という若さで日本に来たことは、たしかに「強制連行」ではありませんが、「自由意志で来た」と言う言葉では到底おさまらないものがあります。(すると、当時の朝鮮の農民が貧しかったのは日本の植民地統治のせいか昔からの朝鮮社会の問題なのか、という、さらに不毛な議論が続きそうですが・・・。)
 また、金古が朝鮮人労働者たちに「仕事を覚えさせ、日本の姓名を与え、日本人として生きることを自分にも課してきた」ということをもって、彼を「親日派」として裁断し批判できてしまう人がいるとしたら、その人の感性と歴史認識を疑わざるをえません。

 昭和20年8月15日。天皇の「玉音放送」の後。予期せぬ事態に宗次郎と要子はとまどいます。吾郎は興奮して万歳(マンセー)を叫びます。その後要子の弟吾郎は働きに出ていた軍需工場内で結成された独立解放組織の集会で委員に任命されますが、日本刀を持ったヤクザなどに襲われ、負傷したりもします。
 日本の敗戦に意気上がる塩田の朝鮮人労働者たちは労働条件の改善を求めて立ち上がります。混乱の中で倉庫内の塩を略奪した者もいて会社側は警察を入れましたが、警察は自供した五人をその場で射殺します。金古が労働者たちを煽動しているとみた会社側の男たちが家に押しかけ、乱闘になる中で、宗次郎は拳銃を撃って騒ぎを鎮めます。
 会社は、「新国民と信じていた」金古や部下たちに、終戦後も「反抗すればいつでも殺すことのできる権利を持っている」と言います。
 「敗戦で価値観がかわったのではなく、最初からそういう価値観が存在していたのだ」と悟った金古は、妻と吾郎とともに朝鮮に帰ることを決心します。

※終戦直後、各地で起こった朝鮮人の<騒擾事件>については、ネット上を探索しても、ヒットする記事はほとんど全部が最初から韓国・朝鮮に対する個人的感情(差別・偏見)が先行したものばかり。わかったことは、事実を確認すること自体が非常にむずかしいということです。

 宗次郎は、一緒に帰ろうという金古の誘いにも「あの国に私の帰る場所はありません」と断り、「祖国に帰って新しい国を作る」という吾郎とも一対一で話して、残る道を選びます。
 金古夫婦と吾郎たちは1945年10月25日、同僚、配下の者の家族60余人とともに祖国に向かいました。

 当時すでに朝鮮半島は38度線を境に米ソによって分割占領されていました。
 日本からの帰還者が続々上陸する釜山ではコレラが発生し、1946年秋までに1万人余りが死亡したといいます。朝鮮半島はそんな混乱した状況で、再び日本に戻ってくる者も増えていました。
 日本でも南北朝鮮につながる組織が結成されました。宗次郎はどちらの組織にも入らず、平等につき合いました。
 南北の組織間では「頻繁に衝突が起きていた」とこの小説の文中にありますが、それ以上に具体的なことは書かれていません。あるサイトでは、当時の山口県内の事件として次の2例があげられていました。

・1948年宇部事件・・・・会合中の朝連系約200名が手配中の朝連県本部長の逮捕に反発、奪還すべく警官隊と衝突、双方負傷者がでるが警察側の発砲により鎮圧。
・1949年下関事件・・・・下関市の民団朝鮮人家屋を朝連側朝鮮人200名が襲撃。民団員十数名に傷害を与え家屋を破壊、金品を略奪していった。

 その後、ついに1950年6月25日北朝鮮軍の南侵によって朝鮮戦争が始まります。
 この小説のクライマックスはここからですが、今回はここまで。

 → イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む (予告編)

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 → イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(4) 断髪令が命取りとなった開化派政権


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
児玉誉士夫 (くれど)
2013-10-30 21:26:32

児玉誉士夫も  だいたい同じぐらいの年に 当時の不況で 一家離散で 朝鮮半島に口減らして送られて また事情があって 日本に戻ってきたようですが

朝鮮半島から日本への移動も 時期によりますが 昭和恐慌で くえなくなって 日本にきた人もいたのでは?

土地調査事業で 土地収奪で 日本へというのは簡単すぎるような気がします
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日本への渡航の理由は・・・ (ヌルボ)
2013-10-30 23:24:58
「土地調査事業による土地収奪で」云々は、(韓国の)教科書的な「図式的理解」で、個別にみるとさまざまな事例があると思います。

私個人としては、日本でも明治後期からの産業革命による社会の(とくに農村の)構造変化と、それに伴う人口移動があったのと同様のものでは?と思うのですが・・・。

児玉誉士夫の経歴は知りませんでした。今ウィキペディアを見たら京城商業専門学校を出ているのですね。機会があれば調べてみます。
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