1991年、私ヌルボの初の海外旅行先は北朝鮮でした。
その時のことは、本ブログの過去記事でもすこし書きました。(→コチラやコチラやコチラ。)
旅行中、いくつかの外国人(日本人?)向け土産店でたくさん並べられていたのが2人の人物の石膏像でした。
1人は、当時30代後半以上の日本人なら誰もが知っていたプロレスの英雄力道山。彼が実は現北朝鮮領内(咸鏡南道)出身ということは、すでにかなり知られていたので、とくに意外なことではありませんでした。
ところが、もう一方の若い女性の像は誰なのか、私ヌルボもすぐにはわかりませんでした。
北朝鮮オタクが何人もいるような団体なので、話を聞いているうちに、彼女の名前がイム・スギョンだということを知りました。漢字だと林秀卿。
その2年前(1989年)に、国禁に反して平壌を訪れた韓国の女子学生で・・・、という説明を聞いて、「ああ、あの学生か」と思い出しました。それが林秀卿について強く印象づけられた最初でした。
彼女は北朝鮮で歓迎され、金日成とも会って話をし、北朝鮮当局の反対を押し切って板門店から韓国に戻り、即座に逮捕されました。
この間の彼女の動静は大きく報道され、とくに韓国の進歩陣営からは彼女は「統一の花」とよばれて英雄視(アイドル視?)されました。
ウィキの説明によると、その後5年の懲役刑判決を言い渡され、3年4ヵ月に服役した後、1992年に特赦で釈放されました。
今、ネット上に1991年当時の彼女の石膏像の画像がないか検索してみましたが、ヒットは0。今にしてみれば買っておいてもよかったな、と思ってみても後悔先に立たず。田中裕子に目元が似ていて、楚々とした雰囲気ながらもしっかりした顔つきで、好印象ももったのですが・・・。
しかし、1989年彼女が平壌市民を前に演説をしている場面の画像が、ある韓国サイトにありました。
【聴衆の表情からも、彼女が歓迎を受けたことがわかります。当時20歳。今の顔が見たい方は画像検索すれば見つかります。】
さて、それから21年経った今年6月初め。実に久しぶりに韓国紙に彼女の名前が大きく載っているのを見てビックリ。
そのニュース記事がまた「あれまあ」といった内容。以下、日を追って見てみます。
あ、前提として、この4月に行われた総選挙で、彼女は最大野党の民主統合党の比例代表候補者として立候補し、当選した新議員であるということをご承知おき下さい。
○6月1日
・ソウル市鍾路区の飲食店で、偶然居合わせた脱北者の大学生ペク・ヨセフさんに酒に酔って暴言。「変節者」とか「どこの馬の骨か分からない脱北者のガキが転がり込んできて、大韓民国の国会議員に言い掛かりをつける気か」等々。
○6月3日
・1日の林秀卿議員とのやりとりをペク・ヨセフさんがフェイスブックで公表。テレビ朝鮮のインタビューで詳細を語る。
・午後林議員は資料を配布。「青年が秘書らに“北朝鮮にいれば、その場で銃殺だ”と言ったのを聞き、一瞬感情が高ぶってあのようなことを口走ってしまった」と説明し謝罪。また河泰慶(ハ・テギョン)議員を「変節者」と非難したのは「かつて共に学生運動をしていたにもかかわらずセヌリ党を選択したからだ」と説明した。
・その河泰慶議員は「林議員は私が北朝鮮人権運動を行っていることに大きな不満を感じているようだ」とコメントした。
○6月4日
各紙とも詳しい報道が続く。
・「ハンギョレ」は3日の時点で暴言の内容等を詳しく伝え(→日本語)、4日の社説でも「うわべだけの謝罪はだめ」と(意外に)厳しい論調。
○6月5日
脱北者たちの声が保守紙を中心にいろいろ報じられます。
「東亜日報」の「林秀卿議員、あなたこそがその変節の功労者」、「朝鮮日報」の姜哲煥記者(強制収容所からの脱北者)によるコラム「林秀卿氏が進むべき道」、北朝鮮と韓国で林秀卿氏に会った脱北者・朴相学氏による「韓国の従北主義者は良心の裏切り者」と題した「朝鮮日報」の寄稿等々。
また渦中の人・ペク・ヨセプさんも「北朝鮮では林秀卿を変節者と呼ぶ」と題した「中央日報」の記事で北朝鮮での林秀卿のことを記しています。
それらを通して、北朝鮮の人たちが訪北した時の彼女をどう見たか、ということを簡単にまとめるとおよそ以下の5項目になります。
①満20歳という若い女性が統一のために困難を乗り越えて訪朝したという事実だけでも感動した。
②用意した原稿を読み上げるような型にはまった演説ではなく、自分自身の言葉で自然なスピーチをした。
③チマチョゴリではなく、Tシャツ、ジーンズにスニーカーという姿は北韓住民に新鮮な衝撃だった。
④北朝鮮政府という「お上」の意向に逆らって(!)板門店から韓国に戻るという意志を貫いた。
⑤北朝鮮の人々は、彼女が板門店から韓国側に入った瞬間に銃殺されるか、捕えられてほどなく死刑に処されると思っていたから、その分彼女を英雄視する気持ちが強まった。
・・・ところがその後の報道で、彼女は投獄されたものの死刑にならず、獄中で本も読んでいるとか、彼女の家族も捕えられたりしていないこと等を知って、北朝鮮の人たちは「アレレ!?」と韓国社会について自分たちが思っていた(思い込まされていた)ことの修正せざるをえなくなります。それが上記の「林秀卿議員、あなたこそがその変節の功労者」という言葉の意味するところです。
※ペク・ヨセプさんの名前から推察すると、キリスト教関係の脱北援助を得て韓国に来たのかな? 北朝鮮での元々の名前ではないと思われます。彼が韓国に来てからについての「朝鮮日報」のインタビュー記事」で、次のような体験を語っています。彼が入学した韓国外国語大学で、ある教授が自己紹介の中で自分がいかに北朝鮮に詳しいかを強調しつつ、北朝鮮関連の情報を4つのルートすなわち朝鮮中央放送や「労働新聞」など北朝鮮メディア、中国に住む朝鮮族と脱北者、韓国や米国から得ていると説明したので、ペクさんが手を挙げて4つのうち最も確実な情報は何かを尋ねところ、教授は「最も確かなものは「労働新聞」で、最も信じられないのは脱北者だ」と語ったとのことです。ペクさんは「その言葉を聞いた瞬間、血が逆流し、講義を聞くのをやめようとも思ったが、それでは自分が卑怯な人間になると思い、最後まで受講することにした」と語っています。
※この6月5日の時点で、ヌルボが愛読しているブログ<大塚愛と死の哲学>では「林秀卿氏の今は昔」という記事をupしています。(これに林秀卿氏の昔と今の写真もあります。)
さらに長くなりそうなので、この後は(下)に続くということにします。
→ <林秀卿(イム・スギョン)、「従北」、「セッカル(色)論」等々・・・ (下)>
その時のことは、本ブログの過去記事でもすこし書きました。(→コチラやコチラやコチラ。)
旅行中、いくつかの外国人(日本人?)向け土産店でたくさん並べられていたのが2人の人物の石膏像でした。
1人は、当時30代後半以上の日本人なら誰もが知っていたプロレスの英雄力道山。彼が実は現北朝鮮領内(咸鏡南道)出身ということは、すでにかなり知られていたので、とくに意外なことではありませんでした。
ところが、もう一方の若い女性の像は誰なのか、私ヌルボもすぐにはわかりませんでした。
北朝鮮オタクが何人もいるような団体なので、話を聞いているうちに、彼女の名前がイム・スギョンだということを知りました。漢字だと林秀卿。
その2年前(1989年)に、国禁に反して平壌を訪れた韓国の女子学生で・・・、という説明を聞いて、「ああ、あの学生か」と思い出しました。それが林秀卿について強く印象づけられた最初でした。
彼女は北朝鮮で歓迎され、金日成とも会って話をし、北朝鮮当局の反対を押し切って板門店から韓国に戻り、即座に逮捕されました。
この間の彼女の動静は大きく報道され、とくに韓国の進歩陣営からは彼女は「統一の花」とよばれて英雄視(アイドル視?)されました。
ウィキの説明によると、その後5年の懲役刑判決を言い渡され、3年4ヵ月に服役した後、1992年に特赦で釈放されました。
今、ネット上に1991年当時の彼女の石膏像の画像がないか検索してみましたが、ヒットは0。今にしてみれば買っておいてもよかったな、と思ってみても後悔先に立たず。田中裕子に目元が似ていて、楚々とした雰囲気ながらもしっかりした顔つきで、好印象ももったのですが・・・。
しかし、1989年彼女が平壌市民を前に演説をしている場面の画像が、ある韓国サイトにありました。
【聴衆の表情からも、彼女が歓迎を受けたことがわかります。当時20歳。今の顔が見たい方は画像検索すれば見つかります。】
さて、それから21年経った今年6月初め。実に久しぶりに韓国紙に彼女の名前が大きく載っているのを見てビックリ。
そのニュース記事がまた「あれまあ」といった内容。以下、日を追って見てみます。
あ、前提として、この4月に行われた総選挙で、彼女は最大野党の民主統合党の比例代表候補者として立候補し、当選した新議員であるということをご承知おき下さい。
○6月1日
・ソウル市鍾路区の飲食店で、偶然居合わせた脱北者の大学生ペク・ヨセフさんに酒に酔って暴言。「変節者」とか「どこの馬の骨か分からない脱北者のガキが転がり込んできて、大韓民国の国会議員に言い掛かりをつける気か」等々。
○6月3日
・1日の林秀卿議員とのやりとりをペク・ヨセフさんがフェイスブックで公表。テレビ朝鮮のインタビューで詳細を語る。
・午後林議員は資料を配布。「青年が秘書らに“北朝鮮にいれば、その場で銃殺だ”と言ったのを聞き、一瞬感情が高ぶってあのようなことを口走ってしまった」と説明し謝罪。また河泰慶(ハ・テギョン)議員を「変節者」と非難したのは「かつて共に学生運動をしていたにもかかわらずセヌリ党を選択したからだ」と説明した。
・その河泰慶議員は「林議員は私が北朝鮮人権運動を行っていることに大きな不満を感じているようだ」とコメントした。
○6月4日
各紙とも詳しい報道が続く。
・「ハンギョレ」は3日の時点で暴言の内容等を詳しく伝え(→日本語)、4日の社説でも「うわべだけの謝罪はだめ」と(意外に)厳しい論調。
○6月5日
脱北者たちの声が保守紙を中心にいろいろ報じられます。
「東亜日報」の「林秀卿議員、あなたこそがその変節の功労者」、「朝鮮日報」の姜哲煥記者(強制収容所からの脱北者)によるコラム「林秀卿氏が進むべき道」、北朝鮮と韓国で林秀卿氏に会った脱北者・朴相学氏による「韓国の従北主義者は良心の裏切り者」と題した「朝鮮日報」の寄稿等々。
また渦中の人・ペク・ヨセプさんも「北朝鮮では林秀卿を変節者と呼ぶ」と題した「中央日報」の記事で北朝鮮での林秀卿のことを記しています。
それらを通して、北朝鮮の人たちが訪北した時の彼女をどう見たか、ということを簡単にまとめるとおよそ以下の5項目になります。
①満20歳という若い女性が統一のために困難を乗り越えて訪朝したという事実だけでも感動した。
②用意した原稿を読み上げるような型にはまった演説ではなく、自分自身の言葉で自然なスピーチをした。
③チマチョゴリではなく、Tシャツ、ジーンズにスニーカーという姿は北韓住民に新鮮な衝撃だった。
④北朝鮮政府という「お上」の意向に逆らって(!)板門店から韓国に戻るという意志を貫いた。
⑤北朝鮮の人々は、彼女が板門店から韓国側に入った瞬間に銃殺されるか、捕えられてほどなく死刑に処されると思っていたから、その分彼女を英雄視する気持ちが強まった。
・・・ところがその後の報道で、彼女は投獄されたものの死刑にならず、獄中で本も読んでいるとか、彼女の家族も捕えられたりしていないこと等を知って、北朝鮮の人たちは「アレレ!?」と韓国社会について自分たちが思っていた(思い込まされていた)ことの修正せざるをえなくなります。それが上記の「林秀卿議員、あなたこそがその変節の功労者」という言葉の意味するところです。
※ペク・ヨセプさんの名前から推察すると、キリスト教関係の脱北援助を得て韓国に来たのかな? 北朝鮮での元々の名前ではないと思われます。彼が韓国に来てからについての「朝鮮日報」のインタビュー記事」で、次のような体験を語っています。彼が入学した韓国外国語大学で、ある教授が自己紹介の中で自分がいかに北朝鮮に詳しいかを強調しつつ、北朝鮮関連の情報を4つのルートすなわち朝鮮中央放送や「労働新聞」など北朝鮮メディア、中国に住む朝鮮族と脱北者、韓国や米国から得ていると説明したので、ペクさんが手を挙げて4つのうち最も確実な情報は何かを尋ねところ、教授は「最も確かなものは「労働新聞」で、最も信じられないのは脱北者だ」と語ったとのことです。ペクさんは「その言葉を聞いた瞬間、血が逆流し、講義を聞くのをやめようとも思ったが、それでは自分が卑怯な人間になると思い、最後まで受講することにした」と語っています。
※この6月5日の時点で、ヌルボが愛読しているブログ<大塚愛と死の哲学>では「林秀卿氏の今は昔」という記事をupしています。(これに林秀卿氏の昔と今の写真もあります。)
さらに長くなりそうなので、この後は(下)に続くということにします。
→ <林秀卿(イム・スギョン)、「従北」、「セッカル(色)論」等々・・・ (下)>