学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その7)

2020-11-02 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 2日(月)12時34分26秒

今川了俊は『難太平記』に、

-------
六波羅合戦の時。大将名越うたれしかば。今一方の大将足利殿先皇に降参せられけりと。太平記に書たり。


と記していますが、了俊が見た『太平記』の六波羅合戦記事に本当に「降参」の二文字が書かれていたのか、それとも「降参」自体は存在せず、これは当該記事を読んだ了俊の解釈に過ぎないのかを考えるために、『太平記』における「降参」の用例を検討したいと思います。
元弘三年(1333)四月二十七日に足利尊氏が篠村に移動して以降、『太平記』に最初に「降参」が登場するのは五月七日、尊氏が「篠村の新八幡宮」に願文を捧げてから京へ向かう場面です。(兵藤校注『太平記(二)』、p59)

-------
 明けければ、前陣進んで後陣を待つ。大将大江山〔おいのやま〕の手向〔とうげ〕を打ち越え給ひける時に、山鳩一番〔ひとつが〕ひ飛び来たつて、白旗の上に翩翻〔へんぽん〕す。「これは八幡大菩薩の立ち翔〔かけ〕つて守らせ給ふ験〔しるし〕なり。この鳩の飛び去らんずるまま向かふべし」と、下知〔げじ〕せられければ、旗差〔はたさし〕馬を早めて鳩の跡に付いて行く程に、この鳩閑〔しず〕かに飛んで、大内〔おおうち〕の旧跡、神祇官の前なる樗〔おうち〕の木にぞ留まりける。官軍この奇瑞に勇んで、内野を指して馳せ向かひける道すがら、敵五騎、十騎、旗を巻いて甲〔かぶと〕を脱いで降参す。足利殿、篠村を立ち給ひし時までは、わづかに二万余騎なりしかども、右近の馬場を過ぎ給ひし時は、その勢五万余騎に及べり。
-------

四月二十七日、搦手の大将として京から篠村に向かったときには五千余騎だった尊氏の軍勢は、五月七日、篠村を出発した際には二万余騎、それが更に当日中に五万余騎に膨れ上がった訳ですね。
そして、その勢いに圧倒された敵が五騎、十騎と「旗を巻いて甲を脱いで降参」したということで、ここは敗北を認めて服従するという「降参」の通常の用法です。
この場面の後、暫く「降参」は登場しませんが、類義語として「降人」が五回(p130・145・147・165・166)出てきます。
その最初は第十巻第八節、「鎌倉中合戦の事」の島津四郎の場面ですね。(p130以下)

-------
 島津四郎は、大力〔だいじから〕の聞こえあつて、実〔まこと〕に器量骨柄人に優れたりければ、御大事に逢ひぬべき者なりとて、長崎入道烏帽子子〔えぼしご〕にして、一人当千と憑〔たの〕まれたりければ、口々の戦場へは向けられず、相模入道の屋形の辺にぞ置かれたりける。浜の手破れて、源氏すでに若宮小路まで攻め入りたりと騒ぎければ、相模入道、島津四郎を呼んで、自ら酌を取つて酒を進められて、すでに三度傾けける時、厩〔うまや〕に立てられたりける坂東一の無双の名馬のありけるを、白鞍置いて引かれける。人これを見て、羨まずと云ふ事なし。門前より、この馬に打ち乗つて、由井の浜の浦風に大笠符〔おおかさじるし〕吹き流させ、あたりを払つて向かひければ、数万の軍勢、これを見て、実に一人当千と覚えたり、この間、長崎入道重恩を与へて、傍若無人に振る舞はせられつるも理〔ことわ〕りなりと、思はぬ人はなかりけり。
-------

ということで、長崎入道円喜の烏帽子子で、一人で千人の敵に当たる勇士と期待された島津四郎が、この後どのような大活躍をしたかというと、

-------
 源氏の兵、これを見て、よき敵なりと思ひければ、栗生、篠塚、秦以下の若者ども、われ前〔さき〕に組まんと、馬を進めて近づきけり。両方名誉の大力どもが、人交〔ひとま〕ぜもせず、勝負を決せんとするを見て、敵御方〔みかた〕の軍兵、固唾を呑んでこれをみる処に、相近〔あいぢか〕になりたりけれ、島津、馬より下り、甲を脱いで降人になり、源氏の勢にぞ加はりける。貴賤上下これを見て、悪〔にく〕まぬものはなかりけり。
 これを降人の始めとして、或いは年頃重恩の郎従、或いは累代奉公の家人ども、親を離れ、主を捨てて、降人になり、敵方に加はりければ、源平天下の諍〔あらそ〕ひ、今日を限りとぞ見えたりける。
-------

という、何じゃそれ、としか思えないコミカルな展開となります。
昭和のコミックバンド、クレージーキャッツのコントで、谷啓が「ガチョーン」というと、残りのメンバーが「ハラホロヒレハレ」と崩れ落ちる場面のようですね。
ま、それはともかく、ここでの「降人」は「降伏」、すなわち敗北を認めて服従する人であり、ごく普通の用法です。
この後の「降人」が登場する場面は一々紹介しませんが、いずれも「降人」の意味は同様です。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『難太平記』の足利尊氏「降... | トップ | 『難太平記』の足利尊氏「降... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

『太平記』と『難太平記』」カテゴリの最新記事