学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その2)

2020-10-03 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月 3日(土)14時15分52秒

前回投稿の最後に少しシニカルな書き方をしてしまいましたが、呉座氏が『太平記』について言われていることは『増鏡』にも当てはまりそうで、ちょっと面白いですね。
鎌倉時代を『吾妻鏡』を使わずに叙述することは困難ですが、『吾妻鏡』が宗尊親王追放劇で終わって以降、武家社会には一定の歴史観に基づく編纂史料は存在せず、他方、公家側の日記類もいたずらに細部のみ詳しく、それも時期によって残された史料の量と質に偏りがあり、結局のところ鎌倉時代後期の歴史の流れをそれなりに分かりやすく説明してくれる史料は『増鏡』以外には存在しません。
ただ、論文のレベルだと『増鏡』がなくても一次史料だけで何とか執筆できますし、『増鏡』には真偽不明の面白いエピソード、特に宮廷の奥深くを覗き込んでいるかのようなリアルな愛欲エピソードに溢れているので、「史料として『増鏡』を使うと危ないな」と、研究者は『増鏡』を意図的に避け、慎重な態度を取ります。
しかし、どんなに他の史料を探し求めても入手できず、『増鏡』以外に手がかりとなる史料を得られない場合が多々あるので、その際に『増鏡』をどのように解釈すべきかは非常に悩ましい問題となります。
また、通史や概説書を書こうとすると、『増鏡』なしにはどうにも書きづらく、結局、『増鏡』に頼ることになるので、そこがある意味でダブルスタンダードのようになっています。
そういうことがあって、鎌倉時代の研究者は、『増鏡』を史料としてどう使えばいいかについて、実のところ、あまり考えてこなかったのではないか、正面から向き合ってこなかったのではないかと感じますが、しかし、例えば世間では堅実な実証的研究者と思われている森茂暁氏は、意外なことに『増鏡』の取扱いについては異様なほど大胆で、突出していますね。
また、『増鏡』を自分の都合の良いときにだけご都合主義的、つまみ食い的に用いる研究者も多いですね。
とまあ、そんなことを、以前少し書いたことがあります。
なお、『太平記』については慎重な考察を重ねている兵藤裕己氏も、『後醍醐天皇』(岩波新書、2018)の「第1章 後醍醐天皇の誕生」における後醍醐天皇の母に関する叙述は文芸評論家・村松剛氏の『帝王後醍醐─「中世」の光と影』(中央公論社、1978)に全面的に依拠しているのですが、この村松著は『増鏡』(と『とはずがたり』)に全面的に依拠しているので、結局、兵藤氏も『増鏡』の取り扱いについては極めて大胆ですね。

『増鏡』にしか存在しない記事の取扱い─「愛欲エピソード」の場合
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/62e72a615210d297b62aebcbb0d770e3
「母忠子をめぐる父後宇多上皇と祖父亀山法皇との複雑な愛憎劇」(by 兵藤裕己)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b29cde93866ef766ee3a5823bfe9dacc

さて、兵藤・呉座対談に戻ります。
前回投稿で引用した部分は小見出しでは三番目、「物語と歴史の距離」からでしたが、その次の「歴史認識の枠組みと『太平記』」には、次のようなやりとりがあります。(p17)


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呉座 【前略】それこそ「南北朝内乱」という言い方一つをとっても、先入観、固定観念として最初から『太平記』による枠組みが入ってしまっているのが問題だ、ということですね。

兵藤 そういう先入観や固定観念は、近世の修史事業からのもので、明治になっても、「南北朝」の正閏問題、つまり正統・非正統の弁別問題が、かなりデリケートな政治問題になっています。
 『太平記』は、たしかに史実とは距離のある、一四世紀内乱を記した「物語」です。私は文学研究者ですから、そういう歴史の語り方、物語の枠組みが作られた背後に、どんな政治的な力学が働いたのか、「南北朝」という枠組みがいったん作られたことが、その後の「日本」という国のかたちや、社会のありかた─とりわけ天皇問題ですが─にどう影響したか、という問題に関心があります。
 近代的意味での文学(literature)的な関心というより、むしろ思想史や政治史への関心といった方がよいかも知れません。

呉座 私は、それはすごく面白いと思っています。兵藤さんのご研究もそうですし、たとえば江戸時代に成立した『太平記』の注釈書である『太平記評判秘伝理尽鈔』が江戸時代の政治思想にいかに影響を与えたかを明らかにした若尾政希さんのご研究などもそうだと思います。思想史的に見ていく、後代とくに近世以降、『太平記』が歴史認識の枠組みを作っていくという問題を考えること自体が、非常に面白い。
 どちらかというと私は、『太平記』はむしろそういう方向で使うべきなのではないか、と思っているところがあります。つまり、歴史認識の問題、思想の問題として『太平記』を考えることが本道で、南北朝のリアルな社会を明らかにする史料として『太平記』を活用することには慎重であるべきだ、という立場です。
 あくまで『太平記』は、歴史認識やイデオロギーについて明らかにするための史料として見ていくべきなのではないか、ここまで言うのは慎重すぎるかもしれませんが、個人的にはそういう思いが強いです。
 ただ先に述べたように、軍記物を史料として活用しようという動きが、川合さんや野口さん以降盛んになっているのは事実です。だからこそ私としては、前のめりになりすぎず、ここで少し立ち止まったほうがいいのではないか、と思うこともあります。
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呉座氏は「歴史認識の問題、思想の問題として『太平記』を考えることが本道で、南北朝のリアルな社会を明らかにする史料として『太平記』を活用することには慎重であるべきだ」、「あくまで『太平記』は、歴史認識やイデオロギーについて明らかにするための史料として見ていくべきなのではないか」とされていますが、これは兵藤氏や若尾政希氏の研究のように、近世以降を念頭に置いた話なのですかね。
それとも、まさに『太平記』に描かれた時代の「歴史認識やイデオロギーについて明らかにするための史料」として使えるし、使うべきだという考え方なのでしょうか。
後者だとすれば、では、どのような方法論で、という問題が出てきますね。
なお、『太平記評判秘伝理尽鈔』についての若尾政希氏の研究は極めて興味深いもので、当掲示板でも少し触れたことがあります。

「目的としては思想史、方法としては歴史学、素材としては文学」(by 川平敏文氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/605e52f09fea189dee47789ef6422cb5
『河内屋可正旧記』と「後醍醐の天皇」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32c50e451a30bc8476cb288a49b36481
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