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慈光寺本の「大炊の渡」場面と流布本の「河合・大井戸」場面との比較(その1)

2023-05-04 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

流布本では「武田五郎」信光が「子供の中に憑たりける小五郎」に小笠原勢をだし抜いて「大炊の渡の先陣」をせよと命じ、この命を受けた「武田小五郎」はニ十騎ばかりを率いて川岸へ行きます。
そして、

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武田小五郎が郎等、武藤新五郎と云者あり。童名〔わらはな〕荒武者とぞ申ける。勝〔すぐ〕れたる水練の達者也。是を呼で、「大炊の渡(の)瀬踏〔せぶみ〕して、敵の有様能〔よく〕見よ」とて指遣〔さしつかは〕す。新五郎、瀬踏しをほせて帰来て、「瀬踏こそ仕〔つかまつ〕て候へ。但〔ただし〕河の西方岸高して、輙〔たやす〕く馬をあつかひ難し。向の岸渡瀬七八段が程、菱を種〔うゑ〕流し、河中に乱株〔らんぐひ〕打、逆茂木〔さかもぎ〕引て流し懸、四五段が程菱抜捨て流しぬ。綱きり逆茂木切て、馬の上〔あげ〕所には誌〔しる〕しを立て(候)。其を守渡させ給へ」とぞ申ける。武田小五郎、先様に存知したりければ河の縁へ進む。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6872bfb97130022f99fc08b331d99495

ということで、「武藤新五郎」(童名「荒武者」)は適当な渡河地点を見つけてそこに印を立てて戻ってきただけで、慈光寺本の「荒三郎」のように「高桑殿」を射殺したりはしません。
次いで「武田が手の者、信濃国住人千野五郎・河上左近」が偵察のために川を渡ると、対岸に同じ信濃国の「大妻太郎兼澄」がいて、千野は同族だから「諏訪大明神」に免じて許してあげるとか言いながら、結局二人とも殺してしまいます。
また、同じく渡河した「我妻太郎」と「内藤八」も射られて流されます。
しかし、二人のうち、

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内藤八は真甲の外〔はず〕れ射させて、血目に流入ければ、後〔うしろ〕も前も不見、馬の頭を下り様に悪く向て、軈〔やが〕て被巻沈けるが、究竟〔くつきやう〕の水練成ければ、逆茂木の根に取付て、心を沈め思けるは、是程の手にてよも死なじ、物具しては助らじ、此鎧重代の物なり、命生た〔い〕らば其時取べしと思ひて、物具解〔とき〕、上帯を以て逆茂木の根を、岩の立添ふたるに纏ひ付て、向たる方へ這ひける程に、可然〔しかるべき〕事にや、渡瀬より下〔しも〕、人もなき所に腰より上は揚りて後〔のち〕、絶入ぬ。程経〔へて〕後、生出たり。京方の者共、見付たりけれ共、死人流寄たりと思ひて目も不懸。其後、縁者尋来りて助ける。後に水練を入て、河底なる鎧を取たりけり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f16541cbbebd4930786b8182cd983a34

ということで、「究竟の水練」の「内藤八」は水中で「心を沈め」思案し、冷静に鎧を脱ぎ、流されないように上帯を逆茂木の根にまといつけるなどして下流に移動し、上半身だけ岸に上がったところで気絶してしまいます。
ところが敵は死人が流れ着いたのだろうと思って放置していたので、結局、何とか命拾いし、「重代の物」である鎧も後で回収することに成功したのだそうです。
まあ、「荒三郎」と「武藤新五郎」の「瀬踏」だけを比較すると、普通に任務をこなしただけの「武藤新五郎」より「高桑殿」を射殺した「荒三郎」の方がドラマチックですが、偵察の「信濃国住人千野五郎・河上左近」と「内藤八」のエピソードも加えると、全体としては流布本の方が少しだけドラマチックですね。
さて、以上の個別エピソードを超えて、「大炊の渡」(慈光寺本では「河合」と「大井戸」)での戦闘全体の状況を比較すると、流布本と慈光寺本の描き方は全く異なります。
まず、流布本では、

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 六月五日辰時に、尾張の一宮に著て、軍〔いくさ〕の被手分けり。大炊の渡へは東山道の手、定て向はんずればとて、鵜沼の渡へは毛利蔵人入道、板橋へは狩野介入道、気が瀬へは足利武蔵前司、大豆の渡へは相模守時房、墨俣へは武蔵守・駿河守殿被向ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/690506f1f4ad490e9aa04d549a98151a

という具合いに、大炊渡は東山道軍の担当であることが明確にされています。
そして、

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市原に陣を取時に、武田・小笠原両人が許〔もと〕へ、院宣の御使三人迄〔まで〕被下たりけり。京方へ参〔まゐれ〕と也。小笠原次郎、武田が方へ使者を立て、「如何が御計ひ候ぞ。長清、此使切んとこそ存候へ」。「信光も左様存候へ」とて、三人が中二人は切て、一人は「此様を申せ」とて追出けり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6872bfb97130022f99fc08b331d99495

ということで、「市原」(未詳)では武田信光・小笠原長清は「院宣の御使」への対応を相談し、共同で対処しています。
しかし、「大炊の渡」で実際に戦闘が始まろうとすると、武田は小笠原を出し抜こうとし、「武藤新五郎」の「瀬踏」と、それに続く「信濃国住人千野五郎・河上左近」と「我妻太郎・内藤八」の偵察の後、

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 (去程に)武田小五郎、軈〔やがて〕て打入て渡けり。伴ふ輩は誰々ぞ。兄の悪三郎・弟の六郎・同七郎・武藤五郎・新五郎・内藤七・黒河内次郎・岩崎五郎、以上九人、是等を始として、百騎に足ぬ勢にてぞ渡しける。京勢放ちける矢、雨の足の如なれば、或は馬を射させ、或は物具の間を射させて河へ入。是をも不顧、乗越々々渡しける。武田五郎、軈て続ひて河端に打望て、「小五郎、能こそ見ゆれ。日来の言に(似せ)て、能く振舞へ。敵に後ろを見せて此方へ帰らば、人手に掛間敷ぞ。只渡せ。其にて死ね」とぞ下知しける。小五郎、元来敵に目を懸て、思切たりける上、父が目の前にて角下知しければ、面も不振戦ける。小笠原次郎、被出抜けるぞと安からず思て、打立てぞ渡しける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52c7dc880007d6b04796cd528978da39

という具合いに「武田小五郎」が百騎足らずで攻め入り、「武田五郎」信光は息子に対し、「敵に後ろを見せて戻ってきたら、人の手に掛けることなく父が殺すぞ。ひたすら渡せ。そこで死ね」と猛烈な檄を飛ばします。
これを見ていた「小笠原次郎」長清は、しまった、武田に出し抜かれてしまったと思い、直ちに小笠原勢にも渡河を命じます。
ということで、武田・小笠原は互いに戦功を競った熾烈なライバルだということが流布本では明確になっています。

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