学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その2)

2023-05-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

宇治川合戦については野口実氏に「承久宇治川合戦の再評価」(野口編『承久の乱の構造と展開』所収、戎光祥出版、2019、初出は2010)という論文があり、私は今年1月26日の投稿で、少し検討してみたい、などと書いたのですが、その時点ではあまりに準備不足であったため、(その2)以下が続きませんでした。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/720bda78e0bd74b0ec0fa850e7591248

あれから四ヵ月経ち、流布本も宇治川合戦まで読み終えたので、改めて野口論文を検討してみたいと思います。
もともと野口氏は、先行する論文「序論 承久の乱の概要と評価」(上掲書所収、初出は2009)において、

-------
 従来、承久の乱の顛末は、鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』や流布本『承久記』によって叙述されてきた。本来なら、一次史料である貴族の日記などに拠らなければならないのだが、乱後の院方与同者にたいする幕府の追及が厳しかったため、事件に直接関係する記事を載せた貴族の日記などの記録類がほとんどのこっていないからである。しかし、『吾妻鏡』や流布本『承久記』は、勝者の立場あるいは鎌倉時代中期以降の政治秩序を前提に成立したものであって、客観的な事実を伝えたものとはいえない。承久の乱後の政治体制の肯定を前提に後鳥羽院を不徳の帝王と評価したり、従軍した武士の役割などについて乱後の政治変動を背景に改変が加えられている部分が指摘できるからである。
 そうした中、最近その史料価値において注目されているのが、『承久記』諸本のうち最古態本とされる慈光寺本『承久記』である。本書は、乱中にもたらされた生の情報を材料にして、乱の直後にまとめられたものと考えられる。そこで、ここでは、できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成してみたい。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8

という問題意識の下、実際に「承久の乱の経過を再構成」された訳ですが、流布本と異なり、慈光寺本は歴史的事象の全体を概観した上で個別エピソードに入るのではなく、唐突に個別エピソードに入って妙に詳しい描写をする傾向が強く、結果的に最初から最後まで奇妙な個別エピソードが連続するので、「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」するのは本当に至難の業ですね。

「一方、東山道軍も美濃国大井庄(大垣市)に到着したが」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dff5c1b2c6954c573300de3316234306

ただ、「序論 承久の乱の概要と評価」を実際に読んでみると、不揃いの素材を寄せ集めたにしては実に綺麗にまとまっており、野口氏の熟練の匠の技を感じさせます。
しかし、さすがに山田重忠の杭瀬川合戦の扱いには無理がありますね。
史実としては六月六日の出来事である杭瀬川合戦は、慈光寺本では宇治川合戦(より正確には瀬田川・宇治川・淀川での合戦)が置かれるべき場所に「埋め草」のように置かれています。

宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f256eb4356d9f0066f00fcca70f7d92d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a1a09b7880933a681cfc1707a0aa140
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3f96a42a494918c91c2619bcd8665636
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a52911b4d75fb26095129eac93be624

そして、慈光寺本では、本来であれば後鳥羽院の叡山からの還御後に置かれるべき公卿・殿上人の宇治・瀬田方面への派遣が尾張河合戦の前に行われていますが、これも極めて奇妙です。
野口氏は「序論 承久の乱の概要と評価」において、

-------
【前略】院はうろたえる公卿らを叱咤して、防戦のために官軍を発向させることを命じた。藤原秀康はこれをうけて、軍勢の手分けを行なった。
 こうして、東海道には秀康・秀澄の兄弟のほか三浦胤義・佐々木広綱・安達親長・小野盛綱・源翔らの七千余騎、東山道には蜂屋頼俊・開田重国・大内惟信らの五千余騎、北陸道には加藤光員・大江能範らの七千余騎、総勢一万九千三百二十六騎が三道に下され、のこる公卿や僧侶によって率いられた軍勢は宇治・瀬田などの京都周辺に配置されたのである。【後略】
-------

とされ(p15)、ついで尾張河合戦の敗北の報が届き、叡山に行くも空しく還御した後、

-------
【前略】もはや院方にとって残された方策は、瀬田(滋賀県大津市)・宇治(京都府宇治市)に配置した兵力を頼みとし、宇治川に拠って京都を防衛するのみとなった。
 ちなみに、ここに投入された武力の多くは、悪僧と公卿によって率いられたもので、瀬田には美濃竪者観厳ら七百人。そのうち、五百を三穂崎(滋賀県高島市)、二百が瀬田橋に配されていた。また、宇治には参議高倉範茂・右衛門佐藤原朝俊や奈良法師たち、真木島(宇治市槙島町)には中納言佐々木野有雅、伏見(京都市伏見区)には中納言中御門宗行、芋洗(京都府久御山町)には中納言坊門忠信、大渡(伏見区淀)には二位法印尊長、広瀬(大阪府島本町)には河野通信らが守備についていた。
-------

とされていますが(p18)、後者の「ちなみに」以下は前者の「のこる公卿や僧侶によって率いられた軍勢は宇治・瀬田などの京都周辺に配置されたのである」の具体的内容です。
野口氏は慈光寺本では連続・一体化している記事を、3頁離して全く別の記事のように記述されるのですが、この操作は果たして「再構成」の範疇に含まれるのか。
私には野口氏が「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」(p8)したのではなく、慈光寺本自体を「再構成」しているように思われますが、読者への注意喚起もなく、こうした操作をすることは、研究者の姿勢としてはいかがなものか。

「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」することの困難さ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55a3a8abb7d99b1f5cb589a98becbc70

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「惣判官代、宇治の北の在家に火を懸けたり」考

2023-05-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

「惣判官代」(『新訂承久記』、p121)について、松林氏は頭注で、

-------
不明。前田家本「信濃国ノ住人浦野太郎」とする。内閣文庫本「槙判官代」。吾妻鏡・六月一四日条に、宇治川北辺の民屋に火を放ったのは北条時氏とする。
-------

とされていますが、「判官代」に注目して少し記事を遡ると、北条時氏と共に宇治川を渡った人物に「関判官代実忠」がいます。
即ち、

-------
 武蔵太郎殿は其も渡さんとて、河端へ被進けるを、「如何に泰時を捨んとはせらるゝ哉覧〔やらん〕。一所にてこそ兎も角も成給はめ」と宣ひければ力不及して留りけり。去共〔されども〕猶渡さんとて、河端へ被進けるを、小熊太郎取付て、「殿は日本一の不覚仁や。大将軍の身として、如何なる謀をも運〔めぐら〕し、兵に軍をさせ、打勝むとこそ可被為〔せらるべき〕に、是程人毎〔ごと〕に流死る河水に向て、御命を失せ給ては、何の高名か可候」とて、馬の七付〔みづつき〕に取付けるに、「只放せ」とて、策〔むち〕にて臂〔ひぢ〕を健〔したた〕かに被打ければ、「左有〔さら〕ば」とて放しける。其時、武蔵太郎颯と落す。関判官代実忠、同渡しけり。小熊太郎も渡す。三騎無煩〔わづらひなく〕向の岸に著にけり。茲に万年九郎秀幸は、真先に渡したるぞと覚敷〔おぼしく〕て、向様にぞ出来たる。武蔵太郎、是を御覧じて、「汝が只今参たるこそ、日比〔ひごろ〕の千騎万騎が心地すれ」と宣ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c3c0d630affce86087ce36c3fd193bba

とあって、「武蔵太郎」「関判官代実忠」「小熊太郎」の「三騎」が無事に渡河したことが記されています。
時氏と一緒に渡河しているのだから、「惣判官代」は「関判官代」の誤記と考えてよさそうですが、渡河した軍勢の司令官は時氏で、放火も時氏の指示ないし了解の下にやっているはずですから、『吾妻鏡』には時氏の行動として記されてもおかしくはないですね。

関実忠(?-1265)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%AE%9F%E5%BF%A0

「関判官代実忠」の名前は、流布本全体を通して上記の一箇所にしか登場しませんが、『吾妻鏡』六月十八日条には、

-------
【前略】今日。遣使者於関東。是今度合戦之間。討官兵。又被疵。為官兵被討取者。彼是有数多。関判官代。後藤左衛門尉。金持兵衛尉等尋究之。注其交名送武州。仍為被行勳功賞所遣也。中太弥三郎為飛脚云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあり、続く「六月十四日宇治合戦討敵人々」の長大な人名リストの最後に、「已上九十八人〔此内衛府五人生取七人〕判官代日記定云々」とあります。
「後藤左衛門尉」(基綱)・「金持兵衛尉」等とともに宇治川合戦で敵を討ち取った者、負傷・死亡した者の膨大な人名リストを作成している訳ですから、「関判官代」は武者として優秀であるとともに、優れた事務処理能力を有する人でもあったのでしょうね。
なお、ウィキペディアには参考文献として柴田厚二郎編『鈴鹿郡野史』(名著出版、1973)が挙げられていますが、この本は国会図書館のデジタルコレクションで読めます。
「刊行にあたって」を見ると、柴田厚二郎(龍渓隠史、本業は亀山の医者)が昭和二年に出した本の復刊だそうですが、同書には「関氏ノ起源」として、

-------
嘉応二年平重盛ノ次子越前守資盛途ニ摂政藤原基房ニ逢ヒ礼ヲ失ス重盛其無状ヲ責メ之ヲ伊勢鈴鹿郡久我庄ニ謫ス居ルコト六年一子ヲ挙ク平太郎盛国ト名ツク安元元年資盛免サレ主馬判官盛久ニ伴ハレ帰洛ス盛国独リ久我ニ留ル寿永四年平氏西海ニテ滅ビ遺臣等深ク盛国ヲ隠匿ス源頼朝、北条時政ヲシテ平氏ノ遺孼ヲ索メシメ悉ク之ヲ誅ス而シテ独リ盛国ヲ赦シ時政ノ邸ニ置ク蓋内府重盛ノ旧徳ニ報セシ者ナリ盛国ノ子実忠関谷ノ地頭ニ補セラレタル後始メテ関氏ト称ス(平重盛廿八世孫加太邦憲著鹿伏兎氏族譜)
-------

とあり(p11)、また、

-------
承久三年(一八八一)五月北条義時追討ノ院宣下ル義時兵ヲ出シ京師ニ向ハシム関谷及亀山ノ地頭判官代平実忠遣中ニ在リテ鎌倉ヲ発シ東海道ヲ進ミ尾張大豆渡ニテ京軍ヲ撃破シ進テ宇治川ニ陣ス偶豪雨大ニ至リ河水漲リ東兵溺死算無シ北条時氏馬ヲ躍ラシ死ヲ決シテ河中ニ突進ス実忠之ニ次キ時氏ノ手兵五百又続進ス実忠衆ニ先チ騎渉ヲ遂ケ岸ニ上リ大ニ奮闘シ厚ク賞セラル<東鑑承久記北条九代記関家文書〇此役宇治河ニテ溺死セル関左衛門尉政綱ハ久我流関家ノ人ニ非ラズ>
-------

とあります。(p12)
ま、これらの記述の信頼性には多少の問題もあるでしょうが、私は「此役宇治河ニテ溺死セル関左衛門尉政綱」の関氏しか知らなかったので、なんだか妙に面白く感じられました。
政綱の方の関氏は藤原秀郷流ですね。

関氏(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E9%96%A2%E6%B0%8F-1179281

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする