宇治川合戦については野口実氏に「承久宇治川合戦の再評価」(野口編『承久の乱の構造と展開』所収、戎光祥出版、2019、初出は2010)という論文があり、私は今年1月26日の投稿で、少し検討してみたい、などと書いたのですが、その時点ではあまりに準備不足であったため、(その2)以下が続きませんでした。
野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/720bda78e0bd74b0ec0fa850e7591248
あれから四ヵ月経ち、流布本も宇治川合戦まで読み終えたので、改めて野口論文を検討してみたいと思います。
もともと野口氏は、先行する論文「序論 承久の乱の概要と評価」(上掲書所収、初出は2009)において、
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従来、承久の乱の顛末は、鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』や流布本『承久記』によって叙述されてきた。本来なら、一次史料である貴族の日記などに拠らなければならないのだが、乱後の院方与同者にたいする幕府の追及が厳しかったため、事件に直接関係する記事を載せた貴族の日記などの記録類がほとんどのこっていないからである。しかし、『吾妻鏡』や流布本『承久記』は、勝者の立場あるいは鎌倉時代中期以降の政治秩序を前提に成立したものであって、客観的な事実を伝えたものとはいえない。承久の乱後の政治体制の肯定を前提に後鳥羽院を不徳の帝王と評価したり、従軍した武士の役割などについて乱後の政治変動を背景に改変が加えられている部分が指摘できるからである。
そうした中、最近その史料価値において注目されているのが、『承久記』諸本のうち最古態本とされる慈光寺本『承久記』である。本書は、乱中にもたらされた生の情報を材料にして、乱の直後にまとめられたものと考えられる。そこで、ここでは、できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成してみたい。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8
という問題意識の下、実際に「承久の乱の経過を再構成」された訳ですが、流布本と異なり、慈光寺本は歴史的事象の全体を概観した上で個別エピソードに入るのではなく、唐突に個別エピソードに入って妙に詳しい描写をする傾向が強く、結果的に最初から最後まで奇妙な個別エピソードが連続するので、「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」するのは本当に至難の業ですね。
「一方、東山道軍も美濃国大井庄(大垣市)に到着したが」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dff5c1b2c6954c573300de3316234306
ただ、「序論 承久の乱の概要と評価」を実際に読んでみると、不揃いの素材を寄せ集めたにしては実に綺麗にまとまっており、野口氏の熟練の匠の技を感じさせます。
しかし、さすがに山田重忠の杭瀬川合戦の扱いには無理がありますね。
史実としては六月六日の出来事である杭瀬川合戦は、慈光寺本では宇治川合戦(より正確には瀬田川・宇治川・淀川での合戦)が置かれるべき場所に「埋め草」のように置かれています。
宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f256eb4356d9f0066f00fcca70f7d92d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a1a09b7880933a681cfc1707a0aa140
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3f96a42a494918c91c2619bcd8665636
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a52911b4d75fb26095129eac93be624
そして、慈光寺本では、本来であれば後鳥羽院の叡山からの還御後に置かれるべき公卿・殿上人の宇治・瀬田方面への派遣が尾張河合戦の前に行われていますが、これも極めて奇妙です。
野口氏は「序論 承久の乱の概要と評価」において、
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【前略】院はうろたえる公卿らを叱咤して、防戦のために官軍を発向させることを命じた。藤原秀康はこれをうけて、軍勢の手分けを行なった。
こうして、東海道には秀康・秀澄の兄弟のほか三浦胤義・佐々木広綱・安達親長・小野盛綱・源翔らの七千余騎、東山道には蜂屋頼俊・開田重国・大内惟信らの五千余騎、北陸道には加藤光員・大江能範らの七千余騎、総勢一万九千三百二十六騎が三道に下され、のこる公卿や僧侶によって率いられた軍勢は宇治・瀬田などの京都周辺に配置されたのである。【後略】
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とされ(p15)、ついで尾張河合戦の敗北の報が届き、叡山に行くも空しく還御した後、
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【前略】もはや院方にとって残された方策は、瀬田(滋賀県大津市)・宇治(京都府宇治市)に配置した兵力を頼みとし、宇治川に拠って京都を防衛するのみとなった。
ちなみに、ここに投入された武力の多くは、悪僧と公卿によって率いられたもので、瀬田には美濃竪者観厳ら七百人。そのうち、五百を三穂崎(滋賀県高島市)、二百が瀬田橋に配されていた。また、宇治には参議高倉範茂・右衛門佐藤原朝俊や奈良法師たち、真木島(宇治市槙島町)には中納言佐々木野有雅、伏見(京都市伏見区)には中納言中御門宗行、芋洗(京都府久御山町)には中納言坊門忠信、大渡(伏見区淀)には二位法印尊長、広瀬(大阪府島本町)には河野通信らが守備についていた。
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とされていますが(p18)、後者の「ちなみに」以下は前者の「のこる公卿や僧侶によって率いられた軍勢は宇治・瀬田などの京都周辺に配置されたのである」の具体的内容です。
野口氏は慈光寺本では連続・一体化している記事を、3頁離して全く別の記事のように記述されるのですが、この操作は果たして「再構成」の範疇に含まれるのか。
私には野口氏が「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」(p8)したのではなく、慈光寺本自体を「再構成」しているように思われますが、読者への注意喚起もなく、こうした操作をすることは、研究者の姿勢としてはいかがなものか。
「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」することの困難さ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55a3a8abb7d99b1f5cb589a98becbc70