学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

流布本も読んでみる。(その43)─「如何なる者なれば、人の組だる敵の首をば取たるぞ」

2023-05-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

【私訳】京方に赤地の錦の直垂に裾金物を打った萌黄色の鎧を着け、白星の甲の緒を締め、切斑の矢を背負い、赤の母衣を掛け、白葦毛の馬に乗った身分の高そうな人がいて、いかにも重要な立場の人のように見えたが、その人が、
「私は右衛門佐朝俊である。御所を出るとき、君(後鳥羽院)が勝たれたならば、どんな有様になって参上しようと思っていたが、京方の敗色が濃いようなので、討死する覚悟だ。我と思はん人々、朝俊を討ち取れや」
と叫んで馳せてきたので、駿河次郎の郎等の「小河太郎」が「良い敵を見つけた」と目を付けて寄り合ったところ、「私は駿河殿の郎等だ」という者が押しよけて朝俊に向ったので、「小河太郎」は、自分はこのような人は知らないけれども、味方と名乗る以上は仕方ない、と思ってその者を通した。
その後、「左衛門佐」(「右衛門佐」の誤り)は、良い敵と組みたいものだと思って大勢の敵の中に懸け入り、切り廻ったけれども、大将と思われるような者もいなかったので、移動しようとしたところ、大勢は逃がすものかと取り囲み、遂に組み落とされて討ち取られた。

という具合に一応訳してみましたが、「是は駿河殿の手者」以下がよく分りません。
まさか朝俊が「駿河殿」(義村?)の「手者」のはずはないので、朝俊と「小河太郎」以外の第三者が登場したと考えてみましたが、果たして私の解釈で正しいのか。
このあたり、底本に欠落があり、松林氏が他本で補っている部分があるので、「是は駿河殿の手者」云々も前後に何か欠落があるのかもしれません。
なお、朝俊については、松林氏の頭注に、

-------
藤原氏。朝経の子。常陸介。右衛門佐。吾妻鏡・承元二年一〇月二一日条に「常陸介朝俊」とあって「朝隆卿末孫、弓馬相撲達者」と割注がある。朝隆は曾祖父に当る。
-------

とあります。
承元二年(1208)は承久の乱の十三年前ですが、十月二十一日条には、

-------
東平太重胤〔号東所〕遂先途。自京都帰参。即被召御所。申洛中事等。【中略】次去月廿七日夜半。朱雀門燒亡。常陸介朝俊〔朝隆卿末孫。弓馬相撲達者〕取松明昇門。取鳩子帰去之間。件火成此災。凡近年 天子 上皇悉令好鳩給。長房。保教等本自養鳩。得時兮殊奔走云々。依彼門燒亡。去五日射塲始引云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma19a-10.htm

とあって、藤原朝俊の名前が出て来るのは京都から鎌倉に戻ってきた東重胤の土産話の中ですね。
「去月」(先月=九月)二十七日の夜半、朱雀門が焼けたそうですが、その原因は朝俊が後鳥羽院の命令で松明を持って朱雀門に昇り、鳩の子を採って帰った際の火の不始末とのことで、割と情けない登場の仕方ですね。
また、野口実氏の「宇治川合戦の再評価」(『承久の乱の構造と展開』所収、戎光祥出版、2019、初出は2010)によれば、

-------
 たとえば、(ナ)の藤原朝俊は貴族であるにもかかわらずの行動であるが、彼は藤原定家をして「只以弓馬相撲為芸」と言わしめる存在であったから(『明月記』承元二年九月二十八日条)、不審とするには足らないのである。【後略】
-------

とのことですが(p82)、日付からすると『明月記』の記事も朱雀門焼亡に関係するものなのでしょうね。
さて、続きです。(p119)

-------
 又、京方より火威〔ひをどし〕の鎧、白月毛なる馬に、長覆輪〔ながふくりん〕の太刀帯〔はい〕て、呼〔をめ〕ひて出来たり。打咲〔ゑみ〕たるを見れば、金黒〔かねぐろ〕也。小河太郎、押双べける所を抜打に、小河が甲の真甲〔まつかう〕を被打、目昏〔くら〕みけれ共、取て付て二匹が間にぞ落たりける。(角〔かかる〕所に武蔵太郎殿手の者、伊豆国住人平馬太郎、落重て頸を取る、小川)心を静めて見ければ、我組たる敵の首無けり。「如何なる者なれば、人の組だる敵の首をば取たるぞ」と呼〔よばは〕りければ、「武蔵太郎殿の手者、伊豆国住人、平馬太郎ぞかし。和殿はたそ」。「駿河次郎の手の者、小河太郎経村」と云ければ、「さらば」とて首を返す。小河、是を不請取、後に此由申ければ、平馬太郎が僻事也、小河が高名にぞ成にける。
-------

【私訳】また、京方から火威の鎧を着て白月毛の馬に乗り、長覆輪の太刀を帯いた者が大声を上げて出て来た。
笑みを浮かべたその口元を見ると、何とお歯黒である。
小河太郎が馬を寄せ、その男と並んだ瞬間、男は抜き打ちに、小河の甲の真甲に打ちかかり、小河は目が眩んだけれども、何とか取り付いて、二人の乗っていた馬の間に落ちた。
そこに「武蔵太郎殿手の者、伊豆国住人平馬太郎」が男の上にのしかかって首を取った。
小河が正気に戻ってから見ると、自分が組み合った敵の首が無い。
小河が「如何なる者が人の組み合った敵の首を取ったのだ」と叫ぶと、「武蔵太郎殿の手者、伊豆国住人、平馬太郎という者です。あなたはどなたですか」と答える。
「駿河次郎の手の者、小河太郎経村」と名乗ると、平馬太郎は「それならば」と言って首を返した。
しかし、小河はこれを受け取らなかった。
後に論功行賞の場で小川がこの旨を申し上げると、(首を取ったとして恩賞を願い出た)平馬太郎には資格がないとされ、小河の功績となった。

とのことですが、三浦泰村の乳母子だという「小河太郎」は何度も登場する割に、いつも中途半端な役回りのような感じがします。
次の投稿で、小河について少し検討してみます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

流布本も読んでみる。(その42)─「御方負色に見へ候はゞ、討死すべく候也」

2023-05-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

北条泰時・三浦泰村・北条時氏の宇治川渡河三連続エピソードに関し、何だか北条泰時が女々しくて情けない総大将として描かれており、泰時を優れた指導者として描くエピソードの多い流布本の中では異質な感じがする、などと書いてしまいましたが、時間を遡ってみると、承久の乱の勃発後、最初の「軍の僉議評定」の場で、泰時は、

-------
 明る廿日の早天に、権大夫の許〔もと〕へ、又大名・小名聚〔あつま〕りて、軍の僉議評定有けるに、武蔵守被申けるは、「是程の御大事、無勢にては如何が有べからん。両三日も被延引候て、片田舎の若党・冠者原をも召具候ばや」と被申ければ、権大夫、大に瞋〔いか〕りて、「不思議の男の申様哉。義時は、君の御為に忠耳〔のみ〕有て不義なし。人の讒言に依て、朝敵の由を被仰下上は、百千万騎の勢を相具たり共、天命に背奉る程にては、君に勝進〔まゐ〕らすべきか。只果報に任〔まか〕するにて社〔こそ〕あれ。一天の君を敵に請〔うけ〕進らせて、時日を可移にや。早〔はや〕上れ、疾〔とく〕打立」と宣ければ、其上は兎角〔とかく〕申に不及、各〔おのおの〕宿所々々に立帰り、終夜〔よもすがら〕用意して、明る五月廿一日に、由井の浜に有ける藤沢左衛門尉清親が許へ門出して、同廿二日にぞ被立ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64c7d8a7d233b802827b85946ddb2266

という具合に(『新訂承久記』、p74)、「両三日も被延引候て、片田舎の若党・冠者原をも召具候ばや」というのんびりした提案をして、「権大夫」義時に「不思議の男の申様哉」と罵倒されていますね。
また、山田重忠との杭瀬川合戦で負傷した「武蔵国住人高枝次郎」に対し、泰時は、

-------
「如何が可仕〔すべき〕。道にては不叶〔かなふまじ〕」とて、御文遊し、御使一人添て、其より鎌倉ヘぞ被下ける。「是は武蔵国住人、高枝次郎と申者にて候。六月六日、杭瀬河の軍に、手数多〔あまた〕負候。道にては如何にも療治難叶間、進〔まゐ〕らせ候。随分忠を致せし者にて候へば、相構へて々々扶かり候様に、御計ひ可有」由、権大夫殿へぞ被申ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2ba0f26a6768d961e3abdf0e68815c78

という懇切丁寧な対応をしていますが(p92)、平時ならともかく、戦場でのこうした優しい態度は、総大将の立場にある者の取るべき態度といえるかどうか、評価の分かれるところだろうと思われます。
そして宇治橋での戦いに際しても、総大将の泰時が戦闘開始の日時を決定済みであるにもかかわらず、三浦泰村と足利義氏が先走って勝手に戦闘を開始してしまいます。
この場面は、

-------
 甲斐国住人室伏六郎を使者として、武蔵守へ被申けるは、「駿河次郎が手者共、早〔はや〕軍を始て、少々手負候。義氏が若党共、数多〔あまた〕手負候。日暮候間、平等院に陣を取候。京方、向の岸に少々舟を浮て候。橋を渡て一定今夜夜討ちにせられぬと覚候。小勢に候へば、御勢を被添候へ」と被申ける。武蔵守、「こは如何に、明日の朝と方々軍の相図を定けるに、定て人々油断すべき、若〔もし〕夜討にせられては口惜かるべし。急ぎ者共向へ」と宣〔のたまひ〕ければ、平三郎兵衛尉盛綱奉〔うけたまはつ〕て馳参り、相触けれ共、「武蔵守殿打立せ給時こそ」とて、進者こそ無〔なかり〕けれ。去共〔されども〕、佐佐木三郎左衛門尉信綱計〔ばかり〕ぞ、可罷向由申たりける。六月中旬の事なれば、極熱の最中也。大雨の降事、只車軸の如し。鎧・甲に滝を落し、馬も立こらヘず、万人目を被見挙ねば、「我等賎き民として、忝〔かたじけなく〕も十善帝王に向進らせ、弓を引、矢を放んとすればこそ、兼て冥加も尽ぬれ」とて、進者こそ無けれ。去共、武蔵守計ぞ少も臆せず、「さらば打立、者共」とて、軈〔やが〕て甲の緒しめ打立給けり。大将軍、加様に進まれければ、残留人はなし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aad4333b2b8633b4a16d80048069b7b5

とあって(p106以下)、最後は「大将軍、加様に進まれければ、残留人はなし」と、一応は泰時の権威の高さを感じさせる書き方になっていますが、そもそも三浦泰村が勝手に戦闘を始めてしまったのは泰時の決定を軽んじて功名に走ったからです。
更に宇治橋での戦闘を泰時がいったん中止させた場面でも、

-------
 武蔵守、「此軍の有様を見るに、吃〔きつ〕と勝負可有共不見、存〔ぞんずる〕旨あり、暫く軍を留めんと思也」と宣〔のたまひ〕ければ、安東兵衛尉橋の爪に走寄、静めけれ共不静〔しづまらず〕。二番に足利武蔵前司、馳寄て被静けれ共不静。三番に平三郎兵衛盛綱、鎧を脱で小具足に太刀計帯〔はい〕て、白母衣〔しらほろ〕を懸、橋の際迄〔きはまで〕進で、「各軍をば仕ては誰より勧賞を取んとて、大将軍の思召〔おぼしめす〕様有て静めさせ給ふに、誰誰進んで被懸候ぞ。『註〔しる〕し申せ』とて盛綱奉〔うけたまはつ〕て候也」と、慥〔たしか〕に申ければ、その時侍所司にてはあり、人に多被見知(ければ)、一二人聞程こそあれ、次第に呼〔よばは〕りければ、河端・橋の上、太刀さし矢を弛〔はづし〕て静りにけり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/524c15c5a95208e8070fb0e28ad7fa13

という具合に(p109以下)、泰時の中止命令は直ちに全軍に周知されることなく、「安東兵衛尉」・「足利武蔵前司」(義氏)の次に登場した「平三郎兵衛盛綱」が、「恩賞をくれる立場の人が命令しているのに、どうして従わないのか。自分は従わない者の名前を記録するように言われているぞ」と言ってようやく静まります。
この場面の描き方は、泰時が個人の威光、人格的権威によって全軍を統率しているのではなく、恩賞と処罰を決定する立場にあるから、何とかみんな従っているだけ、という身も蓋もない事実を反映しているようです。
ということで、流布本では泰時は終始一貫、「女々しくて情けない総大将」として描かれていると考える方が正確かもしれません。
この点は最後まで読んだ後で再考したいと思います。
さて、続きです。(p118以下)

-------
 京方より赤地の錦の直垂に、萌黄匂〔もえぎにほひ〕の鎧、すそ金物打たるに、白星の甲緒を締〔しめ〕、切羽〔きりふ〕の矢負て、赤の母衣〔ほろ〕懸、白葦毛なる馬に乗たる上臈、宗徒の人と見る所に、「是は右衛門佐朝俊也。御所を被罷出ける時、君勝せ御座〔おはしま〕さば、如何なる有様をしても可参。御方負色に見へ候はゞ、討死すべく候也と(申し切て向ふたり。我と思はれん人々、朝俊打とれや」と噫〔おめ〕ひ)て懸出たり。駿河次郎手の者、小河太郎、能敵〔よきかたき〕と目を懸て、寄合処に、「是は駿河殿の手者」と、押よけて通りければ、此手には加様の人は不覚と思けれ共、御方と名乗ければ透して通しけり。其後左衛門佐(あつぱれ能敵と組んと)大勢の中に懸入、(切て廻りけれ共、大将と覚しき者もなかりければ、又馳通ける所に、大勢余〔あま〕さじと取籠め、終〔つひ〕に)被組落て被ぬ。
-------

検討は次の投稿で行います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする