【私訳】京方に赤地の錦の直垂に裾金物を打った萌黄色の鎧を着け、白星の甲の緒を締め、切斑の矢を背負い、赤の母衣を掛け、白葦毛の馬に乗った身分の高そうな人がいて、いかにも重要な立場の人のように見えたが、その人が、
「私は右衛門佐朝俊である。御所を出るとき、君(後鳥羽院)が勝たれたならば、どんな有様になって参上しようと思っていたが、京方の敗色が濃いようなので、討死する覚悟だ。我と思はん人々、朝俊を討ち取れや」
と叫んで馳せてきたので、駿河次郎の郎等の「小河太郎」が「良い敵を見つけた」と目を付けて寄り合ったところ、「私は駿河殿の郎等だ」という者が押しよけて朝俊に向ったので、「小河太郎」は、自分はこのような人は知らないけれども、味方と名乗る以上は仕方ない、と思ってその者を通した。
その後、「左衛門佐」(「右衛門佐」の誤り)は、良い敵と組みたいものだと思って大勢の敵の中に懸け入り、切り廻ったけれども、大将と思われるような者もいなかったので、移動しようとしたところ、大勢は逃がすものかと取り囲み、遂に組み落とされて討ち取られた。
という具合に一応訳してみましたが、「是は駿河殿の手者」以下がよく分りません。
まさか朝俊が「駿河殿」(義村?)の「手者」のはずはないので、朝俊と「小河太郎」以外の第三者が登場したと考えてみましたが、果たして私の解釈で正しいのか。
このあたり、底本に欠落があり、松林氏が他本で補っている部分があるので、「是は駿河殿の手者」云々も前後に何か欠落があるのかもしれません。
なお、朝俊については、松林氏の頭注に、
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藤原氏。朝経の子。常陸介。右衛門佐。吾妻鏡・承元二年一〇月二一日条に「常陸介朝俊」とあって「朝隆卿末孫、弓馬相撲達者」と割注がある。朝隆は曾祖父に当る。
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とあります。
承元二年(1208)は承久の乱の十三年前ですが、十月二十一日条には、
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東平太重胤〔号東所〕遂先途。自京都帰参。即被召御所。申洛中事等。【中略】次去月廿七日夜半。朱雀門燒亡。常陸介朝俊〔朝隆卿末孫。弓馬相撲達者〕取松明昇門。取鳩子帰去之間。件火成此災。凡近年 天子 上皇悉令好鳩給。長房。保教等本自養鳩。得時兮殊奔走云々。依彼門燒亡。去五日射塲始引云々。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma19a-10.htm
とあって、藤原朝俊の名前が出て来るのは京都から鎌倉に戻ってきた東重胤の土産話の中ですね。
「去月」(先月=九月)二十七日の夜半、朱雀門が焼けたそうですが、その原因は朝俊が後鳥羽院の命令で松明を持って朱雀門に昇り、鳩の子を採って帰った際の火の不始末とのことで、割と情けない登場の仕方ですね。
また、野口実氏の「宇治川合戦の再評価」(『承久の乱の構造と展開』所収、戎光祥出版、2019、初出は2010)によれば、
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たとえば、(ナ)の藤原朝俊は貴族であるにもかかわらずの行動であるが、彼は藤原定家をして「只以弓馬相撲為芸」と言わしめる存在であったから(『明月記』承元二年九月二十八日条)、不審とするには足らないのである。【後略】
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とのことですが(p82)、日付からすると『明月記』の記事も朱雀門焼亡に関係するものなのでしょうね。
さて、続きです。(p119)
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又、京方より火威〔ひをどし〕の鎧、白月毛なる馬に、長覆輪〔ながふくりん〕の太刀帯〔はい〕て、呼〔をめ〕ひて出来たり。打咲〔ゑみ〕たるを見れば、金黒〔かねぐろ〕也。小河太郎、押双べける所を抜打に、小河が甲の真甲〔まつかう〕を被打、目昏〔くら〕みけれ共、取て付て二匹が間にぞ落たりける。(角〔かかる〕所に武蔵太郎殿手の者、伊豆国住人平馬太郎、落重て頸を取る、小川)心を静めて見ければ、我組たる敵の首無けり。「如何なる者なれば、人の組だる敵の首をば取たるぞ」と呼〔よばは〕りければ、「武蔵太郎殿の手者、伊豆国住人、平馬太郎ぞかし。和殿はたそ」。「駿河次郎の手の者、小河太郎経村」と云ければ、「さらば」とて首を返す。小河、是を不請取、後に此由申ければ、平馬太郎が僻事也、小河が高名にぞ成にける。
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【私訳】また、京方から火威の鎧を着て白月毛の馬に乗り、長覆輪の太刀を帯いた者が大声を上げて出て来た。
笑みを浮かべたその口元を見ると、何とお歯黒である。
小河太郎が馬を寄せ、その男と並んだ瞬間、男は抜き打ちに、小河の甲の真甲に打ちかかり、小河は目が眩んだけれども、何とか取り付いて、二人の乗っていた馬の間に落ちた。
そこに「武蔵太郎殿手の者、伊豆国住人平馬太郎」が男の上にのしかかって首を取った。
小河が正気に戻ってから見ると、自分が組み合った敵の首が無い。
小河が「如何なる者が人の組み合った敵の首を取ったのだ」と叫ぶと、「武蔵太郎殿の手者、伊豆国住人、平馬太郎という者です。あなたはどなたですか」と答える。
「駿河次郎の手の者、小河太郎経村」と名乗ると、平馬太郎は「それならば」と言って首を返した。
しかし、小河はこれを受け取らなかった。
後に論功行賞の場で小川がこの旨を申し上げると、(首を取ったとして恩賞を願い出た)平馬太郎には資格がないとされ、小河の功績となった。
とのことですが、三浦泰村の乳母子だという「小河太郎」は何度も登場する割に、いつも中途半端な役回りのような感じがします。
次の投稿で、小河について少し検討してみます。