学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

『増鏡』執筆の目的についての予備的検討(その3)

2018-05-28 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月28日(月)15時01分16秒

小川剛生氏の『兼好法師』(中公新書、2017)にも金沢貞顕の簡明な紹介がありますが、ここでも早歌への言及はないですね。
少し引用すると、

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金沢貞顕という政治家

 金沢文庫古文書の全貌が明らかになるにつれ、金沢貞顕は中世でも最も輪郭鮮やかな武家政治家の一人となった。とはいえその印象は必ずしも颯爽としたものではなく、「書物や茶事を愛する文化人で、周囲に細やかな配慮を払う一方、決断力には欠け、また幕閣内での昇進にのみ汲々とし、保身を事とする小人物」といったところか。幕府と運命を共にしたため、彼の日常が取り上げられて批判的に語られることもあるが、結果論的な人物評はいささか酷であろう。
 貞顕の書状は、家督承継直後から、正慶二年(一三三三)三月、実に幕府滅亡の二ヶ月前までの三十余年間に六百五十通ほどが残存している。ただし、残存状況には時期的な偏りがあり、貞顕が六波羅探題として京都にあった期間が最も多い。探題は北方・南方の両頭制で、貞顕は南方ついで北方をあわせて十年間務めた。
 貞顕の官位昇進は順調で、左衛門尉・東二条院蔵人となった後、永仁四年(一二九六)四月左近将監に任じて叙爵した。いわゆる左近大夫将監である。そして乾元元年(一三〇二)七月六波羅探題南方となり上洛した。二十五歳である。
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といった具合です。(p32以下)
「永仁四年(一二九六)四月左近将監に任じて叙爵した」とありますが、永井晋氏の『金沢貞顕』によれば、貞顕は同年四月十二日に従五位下に叙され、四月二十四日に右近将監に補任され、翌五月十五日に左近将監に転じたとのことで(p15)、小川氏の記述は少し違っているようですね。
ま、そんな細かいことはともかくとして、左近大夫将監となったことで貞顕の通称は「越後左近大夫将監」となります。
この時点で貞顕自身は越後守ではありませんが、父親の顕時(1248-1301)が弘安三年(1280)に越後守となっているので、それにちなんだ通称になった訳ですね。
これだけの材料があれば、早歌関係で「越州左親衛」と呼ばれている人物を金沢貞顕に比定する外村久江説は間違いないと思うのですが、誰か歴史研究者が太鼓判を押してくれないかなと願う今日この頃の私です。

「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c6f654a75b33f788999dc447bda1e48

さて、小川著で興味深いのは、上記引用部分の少し後にある次の記述です。(p35以下)

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京鎌間を往復する人々
【中略】
 さて金沢文庫古文書に見える氏名未詳の仮名書状のうち、かなりの数がこの時期の当主や一門に仕える女房のものらしい(女性は原則署名しない)。ところで金沢流北条氏の僧侶・女性は、貞顕の在京を好機に上洛する者があり、寺社参詣や遊山を楽しんでいる。釼阿も嘉元元年(一三〇三)九月から半年余り在京し、貞顕夫妻の歓待を受けた。実時の娘で、貞顕には叔母かつ養母でもあった谷殿永忍〔やつどのえいにん〕は、一門女性の中心的存在であった。この谷殿が嘉元三年から翌年にかけて上洛、貞顕の妻妾らをも率いて畿内を巡礼している。貞顕は釼阿に「さてもやつどの御のぼり候て、たうとき所々へも御まいり候」(金文四七四号)と言い遣るが、女性たちの書状ではもちきりの話題で、「さても御ものまうで〔物詣〕、いまはそのご〔期〕なき御事にて候やらん」(金文二九八三号)、「なら〔奈良〕うちはのこりなくをがみ〔拝〕て候し、きやう〔京〕にはとりあつめ四五日候しほどに、ゆめ〔夢〕をみたるやうにてこそ候へ」(金文二八五一号)といった具合である。なお奈良下向では谷殿が「御あつらへものゝ日記」(金文二七四九号)を忘れず携えたことを報告しているが、留守の人たちが希望した土産物リストらしい(かつての海外旅行を髣髴とさせる)。周囲含めて賑やかな女性であるが、谷殿の話題が目立つのは、彼女宛ての書状が多数釼阿にもたらされたからである。さらに倉栖兼雄の「母義尼」も上洛して来た(金文五六一号)。当時の上層の人々、女性も僧侶も意外に行動的であった。
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ということで、確かに「かつての海外旅行を髣髴とさせる」賑やかな旅行の様子が伺えるのですが、こうした鎌倉の「意外に行動的であった」女性や僧侶たちが寺社巡礼の名目で畿内各地を遊びまわるに際して、やはりそれなりに武家社会の人々との交際に慣れた案内者であって、現地有力者との円滑な交流を演出する能力を持った存在も必要ではなかったかと思います。
とすると、鎌倉で平頼綱の正室クラスの最上流女性と親しく交わり、京都はもちろん奈良や伊勢などにも知己の多い後深草院二条など、まさに適役だったのではなかろうか、などと思われてきます。

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