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流布本も読んでみる。(その20)─「六郎は諏訪大明神に免し奉る」

2023-04-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『吾妻鏡』には承久三年五月二十二日に北条泰時が僅か十八騎で出発し、その後、時房・足利義氏・三浦義村以下が続々と出発、北条朝時も同日出発し、二十五日の明け方までにしかるべき東国武士は全て出発した旨が記されています。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

とすると、武田信光の「十死一生と云ふ悪日」云々の話は、いかにも東国武士の気風を感じさせる美談ではあるものの、みんな大体同じ時期に出発しているのだから、武田信光だけのエピソードにするのは変ではないか、という小さな疑問が私の胸に浮かびました。
その点、「同廿一日、十死一生の日なりけるに、泰時并びに時房両大将として鎌倉を立ち給ふ」とする『梅松論』は、論理的にはすっきりしています。

『梅松論』
http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

ただ、承久の乱における幕府の東山道軍は、上野まで行って碓氷峠を信濃に抜けるのではなく、武田の本拠地である甲斐を通って信濃に向かうルートを取っています。
そして、流布本にも「武田五郎、国を立〔たち〕家を出る日(は)」とあるので、これは鎌倉出発の当日ではなく、甲斐での話のようですね。
『梅松論』の記述は、政子の演説などを見ても流布本の影響が窺われるので、『梅松論』作者は流布本を読んで私と同じような疑問を抱き、これは武田信光だけでなく泰時・時房の話にすべきだ、との「合理的」解釈を加えたのかもしれません。
さて、木曽川の「九瀬」の内、最上流、最も東に位置する「大炊の渡」(大井戸渡、現在の岐阜県可児市と美濃加茂市)だけが東山道軍の担当であり、ここで武田・小笠原の幕府軍と大内惟信以下の京方の間で最初の本格的戦闘が始まります。

「承久の乱古戦場跡 大井戸渡」(『岐阜の旅ガイド』サイト内)
https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_7086.html
「「承久の乱」古戦場跡を訪ねる」(『サライ』サイト内)
https://serai.jp/tour/1102122

武田信光は「子共の中に憑たりける小五郎」(信政)に小笠原を出し抜いて「大炊の渡の先陣」をするように命じ、これを受けて武田小五郎は郎等の「武藤新五郎」(童名、荒武者)なる水練の達者に「瀬踏」と敵陣の偵察を命じます。
偵察して馬を岸に上げるのに都合の良い場所に目印を立てた新五郎が、その旨を武田小五郎に報告すると、武田小五郎の配下が川を渡ります。(p84以下)

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 武田が手の者、信濃国住人千野五郎・河上左近二人打入て渡けるが、向の岸に黒皮威の鎧に月毛なる馬に乗て、くろつはの矢負て、塗籠藤の弓持たりけるが、河の縁の下の段に打下て、「向の岸を渡(すは)何者ぞ」。「是は武田小五郎殿の御手に、信濃国住人千野六郎・河上左近と申者」と名乗けれ(ば)、「同国の住人大妻太郎兼澄也。真に千野六郎ならば、我等一門ぞかし。六郎は諏訪大明神に免〔ゆる〕し奉る。河上殿に於ては申承ん」とて、能引〔よつぴい〕て丁〔ちよう〕と射る。左近が引合〔ひきあわせ〕を篦深〔のぶか〕に射させて、倒〔さかしま〕に落て流れけるに、千野六郎是にも不臆〔おくせず〕、軈〔やが〕て続て渡しければ、「千野六郎は、元来〔もとより〕大明神に免し奉る。馬に於ては申受ん」とて、能引て丁と射る。六郎が弓手の切付〔きりつけ〕の後ろの余〔あまり〕、篦深に射させて、馬倒に転〔ころび〕ければ、太刀を抜て逆茂木の上へ飛立。歩行〔かち〕武者六人寄合て、千野六郎は討取にけり。同手の者常葉六郎、其も大妻太郎に鎧の草摺の余を射させ、舟の中に落ちたりけるを、先の六人寄合て討にけり。我妻太郎・内藤八、其も被射て流れにけり。
 内藤八は真甲の外〔はず〕れ射させて、血目に流入ければ、後〔うしろ〕も前も不見、馬の頭を下り様に悪く向て、軈〔やが〕て被巻沈けるが、究竟〔くつきやう〕の水練成ければ、逆茂木の根に取付て、心を沈め思けるは、是程の手にてよも死なじ、物具しては助らじ、此鎧重代の物なり、命生た〔い〕らば其時取べしと思ひて、物具解〔とき〕、上帯を以て逆茂木の根を、岩の立添ふたるに纏ひ付て、向たる方へ這ひける程に、可然〔しかるべき〕事にや、渡瀬より下〔しも〕、人もなき所に腰より上は揚りて後〔のち〕、絶入ぬ。程経〔へて〕後、生出たり。京方の者共、見付たりけれ共、死人流寄たりと思ひて目も不懸。其後、縁者尋来りて助ける。後に水練を入て、河底なる鎧を取たりけり。
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「信濃国住人千野五郎・河上左近」の二人が渡っていると、対岸に「同国の住人大妻太郎兼澄」がいて、千野六郎は「我等一門」だから諏訪大明神に免じて許してやるが、「河上殿」は一門ではないので殺すと宣言して、その通り射殺してしまいます。
千野六郎は臆せず進みますが、大妻兼澄は、千野は諏訪大明神に免じて許すが馬は許さないとして、馬を射たので千野は馬から落ち、そこを六郎配下の「徒歩武者六人」に囲まれて討たれてしまいます。
更に「常葉六郎」も大妻に射られ、「我妻太郎」・「内藤八」も射られて流されてしまいますが、「内藤八」は水練の達者だったので、鎧を付けていたら死んでしまうが外せば生き残れると計算して、水中で鎧を外し、川岸の岩沿いに移動しますが、下流の人のいない所に腰から上を出したところで気絶してしまいます。
暫くして蘇生しますが、京方の武士は死人が流れついたのだろうと思って無視していたので命拾いします。
そして、後で縁者に助けてもらい、脱ぎ捨てた鎧も水練の達者に回収させた、ということで、流布本作者が誰から聞いたのかは分かりませんが、ずいぶんと生々しい戦場エピソードですね。

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