投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月 2日(月)21時11分43秒
今日は普遍的管轄権に関する国際法の教科書の記述を確認してみたいと思って東北学院大学の図書館へ行ったのですが、ついでに「地域国家論」に関する論文も探してみました。
手始めに山川の『新体系日本史1 国家史』が役に立つかなと思って読み始めたのですが、宮地正人氏(前国立歴史民俗博物館館長)の「序」に、「ほとんどの歴史学研究者は実証科学研究者であり、国家論という歴史理論そのものを論ずることに得手でないという以上に、実証から遊離することからくる強い警戒心をいだいている」という一文があり、ちょっとびっくりしました。
まあ、そうはいっても、歴史理論に関する抽象度の高い論述が続くのだろうなと思って読み進めると、これが全然出てこないんですね。
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「国家史」の時代別篇別構成は、常識的に古代、中世、近世、近代・現代の四区分にするとの確認のもと、「政治史」ではなく「国家史」という書名にする以上、各執筆者がその分担する政治史叙述部分のなかで可能なかぎり言及すべき諸点として、一「国家の観念とその社会への浸透諸手段」、二「国家諸機構」、三「国家諸機能とその制度的仕組み」、四「社会からの合意調達」の諸方策の四項があることが、筆者のメモをたたき台に討議・合意された。本巻の読者にとっても、通読する際念頭に置かれるといささか役に立つと思われるので、ここで少しくその内容を説明しておきたい。
国家の観念
第一項「国家の観念とその社会への浸透手段」でのポイントは、国家とか、あるいは「おおやけ」といった観念は、それぞれの時代でどのように意識されてきたのか、という論点にかかわる。また支配されている諸階級・諸集団に国家とか「おおやけ」を説明・説得する際の支配する側のその正統性を主張する論理に関連するものである。
本項に含められるべき第一の検討課題は、対外的諸関係である。国家とは対外的にどのようなものとして表現されるべきだと意識され、また実際に表現されてきたのだろうか。当然そこでは他の諸国家との差異性を創出することが問題ともなり、日本(これ自体も歴史的な形成観念だが)ならびに日本的なものとはいかなるものと観念されたのかという問題と表裏一体の関係をなしている。ただし、この問題は単純な観念だけの問題ではない。前近代ならば国境画定問題として、外交のみならず軍事・戦争の問題にも極めて容易に転化するものなのである。
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といった具合に、冒頭からあまり硬質ではない叙述が続きます。
宮地氏は歴史科学協議会代表委員だそうで、少し古いタイプの左派的な歴史学者ですから、マルクス主義的な国家論などいくらでも論じることができるのでしょうが、さすがに今時、そんな議論は流行らないし、そうかといって独自の「歴史理論」を打ち立てるほどの自信もない、というような状況なんですかね。
次いで、池享氏の「地域国家の分立から統一国家の確立へ」を読み始めたのですが、よく見かける戦国時代の通史以上の記述は特になく、池氏も「国家論という歴史理論そのものを論ずることに得手でない」ような印象を受けました。
その後、筆綾丸さんが紹介されていた有光友学氏の本など、いくつかめくってみたのですが、特に成果はありませんでした。
国際法の代表的な教科書は本当に世界のトップクラスの知性が書いていますから、論理が明晰で、かつ非常に洗練された文章なんですね。
ま、私が読んだのは翻訳版ですけど、そういうのを読んでから日本の歴史学者の文章を読むと、失礼な言い方かもしれませんが、散漫だなあという印象しか残りませんでした。
『新体系日本史1 国家史』
http://www.yamakawa.co.jp/product/detail/1438/
宮地正人氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9C%B0%E6%AD%A3%E4%BA%BA
>筆綾丸さん
丸島氏のツイートで一番奇妙なのは<研究者に接する時には、「その人がまだ書いていない構想」を想像>しろ、という主張ですね。
死んでしまった研究者についてなら、あの人はこんなことを構想していたのだろうかと思い巡らすことはあっても、生きている研究者にそんなことを勝手にしたら失礼じゃないですかね。
丸島氏の取り巻きの人たちは、誰も変に思わないんですかね。
丸島氏が研究対象としているという「大名間外交論、取次論、国衆論、地域国家論、領域支配論」も、それほど広くない部屋をカーテンで仕切っただけ、という感じがします。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7050
今日は普遍的管轄権に関する国際法の教科書の記述を確認してみたいと思って東北学院大学の図書館へ行ったのですが、ついでに「地域国家論」に関する論文も探してみました。
手始めに山川の『新体系日本史1 国家史』が役に立つかなと思って読み始めたのですが、宮地正人氏(前国立歴史民俗博物館館長)の「序」に、「ほとんどの歴史学研究者は実証科学研究者であり、国家論という歴史理論そのものを論ずることに得手でないという以上に、実証から遊離することからくる強い警戒心をいだいている」という一文があり、ちょっとびっくりしました。
まあ、そうはいっても、歴史理論に関する抽象度の高い論述が続くのだろうなと思って読み進めると、これが全然出てこないんですね。
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「国家史」の時代別篇別構成は、常識的に古代、中世、近世、近代・現代の四区分にするとの確認のもと、「政治史」ではなく「国家史」という書名にする以上、各執筆者がその分担する政治史叙述部分のなかで可能なかぎり言及すべき諸点として、一「国家の観念とその社会への浸透諸手段」、二「国家諸機構」、三「国家諸機能とその制度的仕組み」、四「社会からの合意調達」の諸方策の四項があることが、筆者のメモをたたき台に討議・合意された。本巻の読者にとっても、通読する際念頭に置かれるといささか役に立つと思われるので、ここで少しくその内容を説明しておきたい。
国家の観念
第一項「国家の観念とその社会への浸透手段」でのポイントは、国家とか、あるいは「おおやけ」といった観念は、それぞれの時代でどのように意識されてきたのか、という論点にかかわる。また支配されている諸階級・諸集団に国家とか「おおやけ」を説明・説得する際の支配する側のその正統性を主張する論理に関連するものである。
本項に含められるべき第一の検討課題は、対外的諸関係である。国家とは対外的にどのようなものとして表現されるべきだと意識され、また実際に表現されてきたのだろうか。当然そこでは他の諸国家との差異性を創出することが問題ともなり、日本(これ自体も歴史的な形成観念だが)ならびに日本的なものとはいかなるものと観念されたのかという問題と表裏一体の関係をなしている。ただし、この問題は単純な観念だけの問題ではない。前近代ならば国境画定問題として、外交のみならず軍事・戦争の問題にも極めて容易に転化するものなのである。
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といった具合に、冒頭からあまり硬質ではない叙述が続きます。
宮地氏は歴史科学協議会代表委員だそうで、少し古いタイプの左派的な歴史学者ですから、マルクス主義的な国家論などいくらでも論じることができるのでしょうが、さすがに今時、そんな議論は流行らないし、そうかといって独自の「歴史理論」を打ち立てるほどの自信もない、というような状況なんですかね。
次いで、池享氏の「地域国家の分立から統一国家の確立へ」を読み始めたのですが、よく見かける戦国時代の通史以上の記述は特になく、池氏も「国家論という歴史理論そのものを論ずることに得手でない」ような印象を受けました。
その後、筆綾丸さんが紹介されていた有光友学氏の本など、いくつかめくってみたのですが、特に成果はありませんでした。
国際法の代表的な教科書は本当に世界のトップクラスの知性が書いていますから、論理が明晰で、かつ非常に洗練された文章なんですね。
ま、私が読んだのは翻訳版ですけど、そういうのを読んでから日本の歴史学者の文章を読むと、失礼な言い方かもしれませんが、散漫だなあという印象しか残りませんでした。
『新体系日本史1 国家史』
http://www.yamakawa.co.jp/product/detail/1438/
宮地正人氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9C%B0%E6%AD%A3%E4%BA%BA
>筆綾丸さん
丸島氏のツイートで一番奇妙なのは<研究者に接する時には、「その人がまだ書いていない構想」を想像>しろ、という主張ですね。
死んでしまった研究者についてなら、あの人はこんなことを構想していたのだろうかと思い巡らすことはあっても、生きている研究者にそんなことを勝手にしたら失礼じゃないですかね。
丸島氏の取り巻きの人たちは、誰も変に思わないんですかね。
丸島氏が研究対象としているという「大名間外交論、取次論、国衆論、地域国家論、領域支配論」も、それほど広くない部屋をカーテンで仕切っただけ、という感じがします。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7050
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